上方・関東の情勢

 前の章で岸和田城主を中村一氏としていましたが、蜂屋頼隆でした。すみません。


 新発田領で治水が行われていたころ、上方では紀州攻めが行われていた。


 元々根来・雑賀衆はたびたび和泉進出の機を伺っており、秀吉と勝家が対立した際は勝家に味方して岸和田城をたびたび襲撃した。

 秀吉に勝利した勝家は岸和田城主の蜂屋頼隆が降ったために攻撃停止を要求し、根来・雑賀衆もしばしの間様子を見た。しかし秀吉による四国征伐を見た彼らはこのまま待っていても織田家の勢力は強まるばかりだと判断、雪により北陸の軍勢が来られないうちにと攻撃を準備していた。

 そして摂津の池田恒興が上洛した機をうかがい、正月早々に岸和田城を襲撃したのである。


 岸和田城主の蜂屋頼隆は勝家と秀吉の対立の際に秀吉に味方していたものの、積極的に勝家に敵対しなかったため、そして根来・雑賀衆が織田家に対して矛を収めなかったために旧領支配を許されていた。蜂屋頼隆は必死に防戦し、また勝家が大和の筒井定次や摂津の恒興に援軍に援軍を命じたこともあってどうにか城を持ちこたえた。


 そして勝家は雪が溶けると即座に軍勢を招集。三月になると北陸勢と滝川・細川・筒井・池田といった畿内勢力に加え、海路秀吉にも兵を出させて合計七万ともいわれる大軍で紀伊に攻め入った。


 根来・雑賀衆の前線である千石堀城や積善寺城にて根来・雑賀衆は織田軍を支え、さらに盛んに夜襲をかけて大きな被害を出させた。

 しかし秀吉率いる軍勢が彼らの背後をとる形で紀伊に上陸したため根来衆は根来寺に、雑賀衆は紀伊太田城へと退却した。四国攻めに次ぐこの功績により、ようやく勝家は秀吉への警戒心を緩めたという。


 この時勝家は秀吉への対抗意識からか、それとも織田家の威信を示すためか太田城を水攻めにしている。すでに圧倒的兵力差の織田軍に対して雑賀衆の勝ち目はなく、根来寺もすぐに攻められて炎上したことを考えると、軍事的な理由というよりは威圧目的だったのだろう。太田城の水攻めを見た紀州の土豪たちは次々と降伏していき、四月下旬には太田城も開城している。


 その後紀伊はこれまで土豪たちによる支配だったのが勝家の直轄領となったため、支配体制の変更を受け入れられなかった土豪たちによる一揆が頻発した。

 ある意味紀州征伐は勝家を筆頭とする織田家の体制が畿内においては盤石であることを示す結果をもたらした。ただし、後に勝家体制の力が及ぶのはあくまで畿内とその周辺だけに限定されることが明らかになるが。




 一方、このころ関東では佐竹義重ら反北条の立場をとる領主たちは焦っていた。天正壬午の乱に折りには北条家の矛先は甲信にそれたものの、和睦後は信長の介入により中止していた関東の平定を再開していた。昨年には上野厩橋城を開城させており、現在北条家と敵対している真田昌幸も信濃における勢力を失って弱体化している。


 そこで佐竹義重は劣勢を挽回すべく宇都宮国綱、太田資正、結城晴朝、南陸奥衆らを引き連れて下野の小山城などを攻略対象に出陣した。佐野宗綱や皆川広照らもそれぞれ居城から参戦しており、兵力の合計は一万を超える。この時佐竹方は大量の鉄砲を集めており、その数は七千と喧伝していた。


 対する北条家も当主氏直や下野方面を担当する氏照ら二万以上の兵を集めて下野に陣を進め、両軍は渡良瀬川を挟んで睨み合った。数で優る北条軍であったが、佐竹方のおびただしい鉄砲を前に渡河を強行することは出来ず、睨み合いとなる。両軍の本隊だけでなく、小山城、皆川城、足利城、唐沢山城など周辺諸城でも両勢力が睨み合い、戦線は広がった。

 佐竹・北条の一回の戦いとしては期間・兵力・範囲のどれも過去最大規模の戦いと言えるだろう。


 四月に始まった戦いは田植えの時期を過ぎ、夏場になっても続いた。この間、両軍とも各地で小競り合いを起こしているが決定的な勝敗にはつながらない。

 しかしその間に北条方は佐竹方の太田資正の息子、梶原政景や同じく佐竹方の真壁久幹に調略の手を伸ばしている。このとき佐竹一族の北義斯が身一つで説得に赴き、それに感銘を受けた久幹は寝返りを思いとどまったという。


 七月、北条方は佐竹方の背後にある岩船山に奇襲をかけて占拠した。退路を断たれる形となった佐竹方は北条方の調略により厭戦気分が漂っていたこともあり、講和の申し出を受けている。


 この時両軍は兵を退いたものの、佐竹義重が梶原政景攻めに追われている間に北条家は上野の由良国繁や長尾顕長を従えるなど関東における勢力を一段と拡大した。


 さらに佐竹家にとって同盟相手にあたる蘆名盛隆が十月に家臣によって殺され、大晦日には唐沢山城の佐野宗綱が長尾顕長を攻めて討死するなど悪いことが続いた。この後佐野家は北条家の氏忠を当主に迎え、北条方に降ることとなる。


 窮した義重らは再三に渡って柴田勝家に北条征伐を要請するものの、北条家と同盟を結ぶ徳川家康が時期尚早だと訴えたため実現する気配はなかった。むしろ二条城を完成させた後、勝家の視線は関東よりも中国・九州に注がれていた。


 この間新発田領では総力を挙げて小阿賀野川の改修が行われており、どうにか雪が降るまでに一応の完成を見ることが出来た。

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