岐阜城調略戦

十二月二十日 岐阜城

「何、勝豊殿が病に倒れただと!?」

 織田信孝は頭を抱えた。現在岐阜城に籠る兵は信孝の兵五千ほどに、援軍として訪れた柴田勝豊(勝家養子)率いる三千を合わせて八千。

 対する包囲軍は羽柴軍二万に摂津衆や近江衆の一部、離反した美濃衆などを加えた三万五千ほど。要害を誇る岐阜城は簡単に落ちる様子はなかったが、それでも敵が大軍であることや美濃衆が敵対していることへの城内の動揺は激しかった。そんな動揺が伝わったのか、勝豊は病に倒れたという。


「とはいえ恐れるべきは城が落ちることよりは調略か……。良勝、城に敵の手の者が入らぬよう注意せよ。また滝川殿の加勢も近いと伝えて士気を鼓舞せよ」

「はい、かしこまりました」

 信孝は家臣の岡本良勝に命じる。すでに美濃衆が次々と寝返っている今油断はならなかった。

 そもそも嵌められたとはいえ今回の発端を作ってしまった張本人である良勝はある意味一番動揺していた。もし城が落ちるか信孝が降伏すれば自身も責を免れないのではないか、という思いを持っていた。


 良勝は持ち場に戻ると改めて信孝の命令を伝え、さらに士気を鼓舞する。すると部下の一人が、敵方の間者と思われる者を捕えたと報告してきた。ちなみに美濃衆が敵味方に別れているため、敵方の者を入れないことはかなり困難である。逆に信孝方の間者も秀吉軍に紛れ込んでいた。


「おぬしが羽柴の間者か!」

 良勝は連れて来られた男に問いただす。すると男は動じる様子もなく懐から書状を取り出した。

「こちらを岡本様に」

「何だと!? とりあえずそやつを牢に放り込んでおけっ!」

 まさか自身に調略が及ぶとは思ってもいなかった良勝は驚いたが、すぐに間者を牢に連れて行かせると、人払いして書状を開いた。


『岡本良勝殿

先日の件であるが、恐らく誤解か何かであると考えているが、勝長殿からの訴え故兵を挙げざるを得なかった。とはいえ、信孝様が未だに三法師様を離さずに籠城を続けるのは不届である。そのため、我らとしてもこれ以上戦いを長引かせたくない。もし和議に骨折りしてもらえるならそれ以上の咎を与える気はない。ただし、もしあくまで抵抗を続けるのであれば決して許さぬ故よくよく考えるように。

                                         羽柴秀吉』


 要するに信孝を降伏させれば良勝は許されるが、あくまで抗戦すれば絶対に許されないということである。そもそも、もし秀吉を退けたとしてもこのままでは原因を作ってしまった良勝は今後良い扱いは受けないだろう。しかも秀吉の要求は離反ではなく和議を進めるだけだ。意を決した良勝は信孝の元に向かう。


「信孝様、やはり兵の動揺は激しく、長らくの抗戦は難しいものと思われます。ここは一度和睦を受け入れ、柴田殿と滝川殿の挙兵に合わせて再起を図るべきかと」

「何!? それは三法師を引き渡すということか!?」

 案の定良勝の進言に信孝は声を荒げる。

「はい、かくなる上は三法師様を抱えていることは何の利益にもなりません。三法師様を引き渡すことで和睦し、時間を稼ぐべきかと」


 良勝の言葉に信孝は首を捻る。確かに言葉には一理ある。しかしこの件を引き起こした良勝がこのことを言い出すのは違和感があった。

「しかし良勝、もしおぬしの身柄を引き渡せと言われたらどうする」

「それで和議がなるのであればいかようにでも」

 身の安全が保障されている良勝はためらいなく言い放つ。良勝の忠臣ぶりに感心しかけた信孝だったが、秀吉が兵を挙げたと聞いた時の良勝の慌てぶりを思い出すと違和感がある。良勝が退出した後、一応信孝は家臣の幸田孝之に良勝の元を探らせた。


 翌日、良勝の元を探らせた孝之が蒼い顔で現れる。

「信孝様、岡本殿が昨日敵方の間者を捕えたという報告は受けておりますか?」

「いや、そんな報告は受けておらぬが」

「岡本殿はその者を牢に入れて尋問しているとのことです」

「おのれ」

 証拠はないが、敵方の間者を捕えてその日に意見が変わるなど、内通しているも同然である。

「すぐに良勝を呼べ!」

 信孝は良勝の元へ兵士をやった。


「信孝様が何やらお怒りでお呼びになっておりますが」

 使者となった兵士の報告に良勝は表情を変えた。後ろめたいことがある以上察するのは早い。そして本能寺の変直後に津田信澄が討ち取られた事件を思い出す。あの時のことを考えれば場合によっては即手打ちもありえる、と考えた良勝の行動は素早かった。自身の家臣たちを引き連れて城を出ると、羽柴軍に身を投じた。

 それを聞いた信孝はさすがに愕然とした。配下となって日が浅い美濃衆ばかりでなく、自身の家臣からも内通者が出るとは思っていなかった。こうなった以上良勝の言う通りにすべきかとも思ったが、逆に一度城を明け渡してしまえば家臣たちは自分を見限って秀吉につくのではないかという恐怖もあった。


「信孝様、柴田殿が参っております」

「何と。体は大丈夫なのか?」

 そこへ現れた柴田勝豊は依然として体調が悪いのか、顔は白くなっており、信孝の元に現れたのもかなり無理をしての様子であった。

「だ、大丈夫か?」

 思わず信孝も心配の声をかけてしまう。

「いや、体調は問題ありませぬ。それよりも信孝様、ついに岡本殿まで城を抜けたと伺いまして」

 勝豊はややかすれた声で言った。


「せっかく援軍に来ていただいたのに面目ない」

「それについてはそれがしも役に立たず申し訳ございません。しかしそれもあって思うのです。これ以上の抗戦は難しいのではないかと。この状況で養父上の軍勢が近江に現れるまで持ちこたえるのは不可能でしょう」

「……」


 信孝は絶句した。まさか援軍に派遣されてきた勝豊にそのようなことを言われるとは思ってもいなかったからだ。しかし勝豊が養父の勝家や勝家が重用している佐久間盛政とうまくいっていないという風聞は聞いたことがある。勝家がそのような意見を言うはずはないと考えると、おそらくは勝豊にも秀吉の手が伸びているのだろう。

「勝豊殿、とりあえず休まれるが良い。病の時は得てして悲観的になってしまうものだ。その件については検討しておく」

「はい、分かりました」

 勝豊は覚束ない足取りで自室に戻っていくのだった。和議はしない方がいいというのは確かだが、ここまで味方ががたがただといよいよ和議に追い込まれるのではないか、と信孝は苦悩する。


 しかし、順調に信孝方を切り崩しているかに見える秀吉は秀吉で焦燥していた。頼みであった信雄は未だに参戦する気を見せないし、伊勢では滝川一益が不穏な動きを見せている。

「良勝め、せっかく罪を許してやろうというのに役に立たない奴め」

 秀吉は岡本良勝が何の働きもせず城を抜けて来たことに激怒していた。

「ですが岡本殿の件で城内の士気は落ちています。勝豊殿も我らと和睦するよう説き伏せておりますれば、もう長くはもたないと思われます」


 官兵衛の言葉に秀吉は頷く。すでに城内の主だった者には一度は調略の手が伸びており、それは柴田軍も例外ではなかった。

「早くこちらの蹴りをつけて一益を討ちたいのだが」

 秀吉は信孝が三法師を引き渡せばそれ以上は何も求めず、速やかに和睦して一益を謀反の疑いありとして討つつもりであった。そして雪解けまでに信孝と一益を片付けて万全の状態で勝家との決戦を迎える予定だった。


 和睦を検討する信孝、焦燥する秀吉とそれぞれの思いを抱えながら激動の天正十年は暮れていった。しかし翌年正月、信孝の和議打診より先に滝川一益挙兵の報が両者に届くこととなる。

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