【恋愛】「言葉」「夢を追う」「潔癖」

 夢を追う人間は多いけれど、叶えた後もなお夢を見続けられる人間はどれぐらいいるのだろう。

 たとえば理想と現実のギャップに失望するかもしれないし、現実になった途端にそれが『義務』となって重荷に感じるかもしれないし、到達したことで情熱が消えてしまってその後虚無に陥るかもしれない。

 そういった可能性を無視できないから、「夢は夢のままでいい」と言う人が一定数以上いるのだろう。

 その中で、自分の場合は一体どれに当てはまるのか。

 ──夢を叶えたのに、こんなに寂しい気持ちになるとは思わなかった。



 昔から、将来の夢は「お嫁さん」だった。

 毎日家を切り盛りして父を見守りながら支える母と、どんなに忙しくても家族サービスを怠らず母を大事にする父を見てきて、自然とこんな家庭を作りたいと思うようになった。

 特に、お互いに対する尊敬と思慕の念が常日頃から滲み出ており、それが嫌味でも見せつけでもなく純粋な本心からだと子供ながら理解できたので、自分も愛し愛されて結婚したいという思いをずっと抱いていた。

 だからこそ、一生を添い遂げるならこの人がいいと初めて感じた男性からプロポーズされた時は、信じられないぐらい幸せで不安なことなど何もなかった。

 このまま何の陰りもない幸福な日々が続くのだと信じていた。


「はぁ……」

 思わず重いため息をついてしまい、慌てて口元を押さえた。

 そろそろと辺りを見回すと、どうやら誰にも聞き咎められなかったようで安心する。

 耳障りの良いBGMと、ささめくような会話が流れており、先ほどの場違いな空気を上手く消してくれたようだ。

 昼下がりの午後、それほど客席の多くない店内は、買い物帰りの母親達や時間に余裕のある学生達で八割方埋まっている。

 その中の一人である自分も、優雅にティータイムを過ごす主婦だと思われているのかもしれない。

 最近家の近くにできた雰囲気の良いカフェに、毎日のように足を運ぶようになったのはここ一ヶ月のことだ。

 一度入ると、甘いケーキと香ばしいコーヒーの匂いに鼻腔をくすぐられ、小腹を満たした後もつい長居してしまう。

 おかげでよく来る客の顔を何となく覚えてしまい、自分も同じように覚えられているかもしれないと若干の気まずさを抱えるようになった。

 それでも通ってしまうのは、持て余した時間の潰し方がわからないのと、一人でいる寂しさを紛らわせるため以外の何物でもない。


「結婚しても続けたいなら仕事を続けていいんだよ」と言われたけれど、それを断って勤めていた会社をやめた。

 最初は慣れない家事をこなすことに精一杯で、仕事との両立なんてとてもじゃないけれどできなかったに違いないとしみじみ思ったものだ。

 それでも繰り返していればそれなりに身につくもので、効率よく行えるようになると、徐々に家にこもっているのが窮屈になり始めた。

 趣味と言える趣味がないから、時間があっても何をして良いかわからない。子供もおらずペットも飼っていないため、話し相手に飢えて声の出し方すら忘れそうになる。

 唯一の相手である夫には、多忙を極めて毎日帰りが遅いことを気遣う台詞しかかけられない。「大丈夫」と言いながら疲れたように笑う顔を見るたびに、せめて家では寛いでもらおうと話しかけることを躊躇ってしまうからだ。

 結婚するまではもっと楽しいことばかり想像していた。毎日作るご飯を「美味しい」と言ってくれたり、家事を手伝ってくれて空いた時間でゆっくりテレビを見たり、休日は二人でラフな格好をして散歩したり。

 それが、想定してなかったわけではないけれど、あまりにもかけ離れた生活模様に戸惑い、だんだん自分を殺していくことが増えた。夫が仕事を頑張っているのは家のためだとわかっているから不満を言えず、かと言って必要とされている実感も湧かず、自分の存在価値さえ希薄になっていく。

 今では、守るべき場所である家から逃げるためにカフェに日参する体たらくだ。

 結婚のきらきらしい表側だけに憧れ、潔癖なまでにそれが全てだと思い込んでいた自分は、地に足の着いた生活がそこに存在していることに、今になるまで気づかなかったとんだ愚か者だった。


「お待たせしました。苺のショートケーキとブレンドコーヒーになります」


 黒髪をポニーテールにまとめた店員が、注文したメニューを運んできた。

 この店で一番よく見かける子だ。きっとアルバイトに入る時間と重なっているのだろう。いつも爽やかに微笑んで対応してくれる。

 おそらく十歳近く若い年の子に、仕事上で丁寧に扱われたからといって癒されている自分もどうかしていると思うけれど、ささやかな息抜きとして大目に見てほしい。

 と、誰にともなく言い訳しながら、「ありがとう」と感謝を示した。

 彼女は笑みを深めて一礼し、両手でお盆を持って踵を返す。

 その時、目の前をするりと何かが落ちていった。

「待って。リボンが解けたわ」

 彼女がゴムの上から結わえていたピンクのリボンが緩んだのだろう。

 床に着地したそれを拾うと、慌てて持ち主が受け取って頭を下げた。

「失礼しました!ありがとうございます」

「気にしないで。とても素敵なリボンね」

「本当ですか? 一目惚れして買ったんですけど、これを付けると気分が上がって、仕事がきつくても頑張れる気がするんです。自分の選んだことに後悔したくないから」

 少し恥ずかしそうに笑って、「バイトぐらいで大袈裟な、って思われるかもしれませんけど」と付け足した彼女の言葉が、じわじわと体内を駆け巡った。

 もう一度お辞儀をしてキッチンに戻っていく背中を見送る間も、落ち着いたトーンの声が頭の中で繰り返される。


 彼女は自分の決めたことに対する責任を持ち、それを全うするためのモチベーションを自ら生み出していた。

 他の誰でもない、彼女自身が選択したことだから。

 それに比べて自分はどうだろう。

 専業主婦になることに納得して家庭を支える道を選んだのは誰だった?

 結婚してから不満や不安が出てきても、口を噤むことを自分に課したのは?

 どうせ夫は忙しいからわかってくれない、言っても意味がないと、最も大切な人を信じなかったのは?

 決めてきたのは他でもない自分だ。

 それを認めようともせず、改善しようともせず、ただ無為に時間を使っていたことを思い返して猛烈に情けなくなった。

 理想を求めるなら、夢を見続けるなら、まず自分から選んだ道を確かなものにし、またそれを一緒に歩きたい相手に伝えて、示していかなければならなかったのに。

 いつだって現実は己の決断した結果を映し、そこから更に決断を重ねていくものなのだ。

 その時の気持ちを整えておくのも、もちろん自分の役割で。

 年下の女の子から、自己憐憫に浸っていた檻を激しく揺さぶられた気分だった。

 まだ間に合うだろうか。今からでも、望みを口にして良いだろうか。

 そのために、自分にできることは。

 ショートケーキを味わうのもそこそこに、未だかつてないほど短時間でカフェを出ると、足早に家へと向かった。



 午後十時。

「ただいま」という挨拶を耳にして、香澄かすみは鍋の火を止めた。

 リビングの扉が開くと同時に振り返り、「おかえりなさい」と穏やかに労う。

「ご飯、すぐ食べられるよ」

「本当? ありがとう。着替えてくる」

 これまでは夫が帰宅してから料理を温め直していたのを、前もって会社を出る時に連絡してもらい、時間を見計らっていたのだ。

 本当は今までも帰ってきてすぐに食べてもらいたかったのだけれど、それすら遠慮して「お願い」できなかった。

 もし面倒がられたらどうしようとか、そこまでしなくても良いと拒絶されたらどうしようとか、返ってくる反応が怖くて聞く勇気すら持てなかった。

 それを振りきって自分の願いのためにメッセージを送るのは、とてつもない緊張を強いられた。けれど、素直に「今から帰るよ」という返信が届いて大きく安堵したと同時に、必要以上に怖がっていた自分にも気づいた。

 思い込みで世界を作っていたのは香澄自身だったのだと。

「何か部屋が綺麗になってない?」

 普段着に着替えた夫が不思議そうに訊ねた。

 実はカフェから帰ってきてすぐ、散らかっていた物を片づけて手早く掃除を済ませた。最近さぼっていたため、空気が淀んでいたのも気持ちを沈ませる要因の一つになっていたのかもしれない。やっぱり家を綺麗にして気分よく生活したいと、香澄自身が強く思ったから実行したのだ。

 いつになく機嫌の良い妻を訝りながらも、空腹だったのか、結構なハイスピードで夫が食卓に並んだ料理を平らげていた。


「ねえ、慎也しんや

 一段落ついたところで思いきって声をかけると、目を丸くしてこちらを見つめてきた。

「珍しいね、名前で呼ぶの」

 結婚してから何となく名前で呼ばれなくなり、それに合わせて夫の名前を呼ぶことも減っていった。

 でもそれも胸の内で燻っていた不満の一つで、本音ではつき合っていた頃のように名前で呼び合いたかった。きっと言えば同意してくれたと思うのに、拒否されることを恐れて流されるままになっていた。

 そんな風に、夫に嫌われたくなくて我慢していたことがいくつもある。

 そして最大の不安が、


「私は、あなたの妻としてちゃんとやれてるかな? 家庭を、あなたを支えられてるかな?」


 母のように、陰に日向に父を手助けする伴侶になるのが夢だった。それを貫くために専業主婦になった。ただ、そこで生じる責任をきちんと引き受ける覚悟がなかったから、夢が歪んで見えるようになってしまった。

 おそらくこんなことは日常的に起こり得るのだろう。そこから自分を俯瞰して考え直すのも、きっと自ら意識しなければならないことなのだ。

 時には、普段から自分を見てくれている他者の意見を伺うことも。

 香澄の突拍子のない質問に、慎也はますます驚きながらも口を開いた。


「家に帰ったら香澄が『おかえり』って言ってくれて、ご飯作って待ってくれてて、掃除や洗濯も欠かさずしてくれて、俺のことを考えて話題を振ってくれて。十分以上に支えられてるよ」


 思いがけず称賛を浴び、不意に涙がこぼれそうになった。

 頑張ってきたことが報われて、それをはっきり言葉で表現してくれて、これ以上ないぐらい満たされる。

「逆に無理してないかって心配になることがある。俺に気遣って言いたいことを言えてないのかもしれないとか、本当は外で働きたいのに我慢して主婦に徹してくれているのかとか」

「そんなこと思ってたの……?」

「香澄は忍耐強いから、俺の我が儘を優先して自分を後回しにしてないかなって。思ってるだけで黙ってた俺が悪いんだよな。ごめんな」

 まるで予想していなかった慎也の心中に、呆然としながらも首を横に振る。

「もしも香澄がもう一度仕事をしたいと思うのなら、全力で応援するよ。今まで香澄に頼りっぱなしだった家事も、俺も少しずつやっていって負担を減らすようにする」

 ああ、これが香澄の結婚したいと思った人なのだ。

 素直に話せば耳を傾け、香澄の意向を尊重してくれる。ほしい時には、それに相応しい言葉をくれる。知っていたのに、香澄が瞳を曇らせていたせいで、夫の誠実さを受け取っていないだけだった。

 それが改めてわかった今、怖いことは何もない。

 香澄を丸ごと受け止めてくれると、再び信じられたから。

「今すぐじゃなくてもいいけど、やっぱり仕事をして社会と繋がってたい。もちろん家のことも疎かにしないって約束する。でも、疲れた時は休んでいいよって言ってくれたり、ちょっとでも手伝ってくれたら嬉しい」

 やっと形にできた望みを、慎也は大きく頷いて「約束する」と答えた。

「でも、本格的に働くのはもう少しだけ待ってくれるか?」

「何か問題でもあるの?」

 気になる一言が出て、急に不安に襲われる。

 眉尻の下がった香澄を見て「違うんだ」と否定すると、ゆっくりと慎也が両手を組んだ。


「家を建てないか」


「……え?」

「もうすぐ資金が貯まりそうなんだ。最近は大きな仕事も引き受けてたから、次のボーナスも期待できるし」

「もしかして毎日遅くまで残業してたのって、そのため?」

「まあ、家を持つのは男としての夢っていうのもあるけど。一軒家なら、香澄の願いも叶えられるかなと思って」

「私の願い?」

「つき合ってた頃、『犬を飼いたい』って言ってただろう」

 まさかそんな些細な話を覚えていたなんて。

 自分ですら忘れかけていたことを、ずっと胸に秘めたまま実現しようとしてくれていたのか。

「仕事が落ち着いたら本格的に動き出そうと思うんだけど、どうかな? どこに住みたいとか、どんな間取りが良いとか、考えておいてくれる?」

「……うん!」

 香澄の顔を覗き込んでくる慎也に勢いよく抱きついた。

「うわっ」と声を上げながらも、危なげなく受け止めてくれる。

 それがまるで慎也の度量の広さを表しているようで、香澄はますますきつく抱き締めた。



 夢が叶った後も、夢を描いて幸せを広げていくことはできるのだ。

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