第19話 螢の坂:『ノルウェイの森』『バンドリ!』5

 東京メトロの江戸川橋駅を出て、目白坂を上り切ると、目白通りとの合流地点に達することができる。そして、その付近に位置しているのが、ホテル<椿山荘(ちんざんそう)>である。

 椿山荘が位置している辺りは、十四世紀後半、南北朝時代の頃から、椿が自生する地で「つばきやま」と呼ばれていた。

 そして、江戸時代、ここには、久留里(今の千葉県君津市)藩の藩主・黒田氏の下屋敷が位置していた。

 やがて明治時代になると、明治十一年に山縣有朋がこの地を購入し、ここを自分の屋敷とし「椿山荘」と命名したのだった。

 大正時代には、大阪を本拠とする藤田財閥が、この地を譲り受け、戦後に結婚式場として営業を開始、平成四年には、フォーシーズンホテルズと業務提携を結び、この敷地内に<フォーシーズンズホテル椿山荘東京>が開業された。後に、二十年間の業務提携が切れた後、平成二十五年からは<ホテル椿山荘東京>と名称を変え、現在に至っている。

 椿山荘の庭園は、広く一般にも公開されており、誰でも自由に散策可能なのだが、コロナ状況下の令和二年六月、庭園の公開は、ホテルの利用客だけに限られていた。

 隠井にはこれが残念でならなかった。

 というのも、初夏における椿山荘の風物詩となっているのが螢で、隠井は、六月の雨が降らない宵の夜の螢鑑賞を毎年の楽しみにしていたのだが、今年は、宿泊客かディナーイヴェントの参加客以外には、螢を楽しむことができなくなってしまっていたからである。

 ちなみに、二〇二〇年の「蛍の夕べ」は、金土日に催されるため、椿山荘で蛍を楽しめるのは六月限りということになる。

 実は、隠井が、椿山荘の螢のことを知ったのは大学時代であった。

 一九八七年に発売された、赤と緑の表紙が特徴的な『ノルウェイの森』がベストセラーとなり、御多分に漏れず、隠井もこれを読んでいた。そして、大学入学後、『ノルウェイの森』の下敷きになった短編「螢」を読む機会もあった。

 「螢」にも『ノルウェイの森』にも、大学生の主人公(「螢」では「僕」、『ノルウェイの森』では「ワタナベ」)が住む文京区の男子寮が出てくるのだが、七月末、主人公が、インスタント・コーヒーの瓶を手に持って寮の屋上に上がる場面において、右手に新宿、左手に池袋を背景に、コーヒー瓶の底で螢が光っている様子が描かれている。

 文京区において左右に新宿と池袋が見えるとしたら、そこは関口台や目白台の高台であり、作中において固有名詞こそ明確に書かれてはいないものの、主人公が住む男子寮が、目白台に位置する<和敬塾>であることは明らかである。そのことを、隠井は、大学時代に、東京出身の友人から教えてもらい、和敬塾の近くまで行ってみたことがあった。それまで、地元に住んでいた頃にも、隠井はそれなりに小説を読んできたのだが、物語の舞台背景となった現実の場所に対して関心を抱いたことはなかった。思えば、これが、隠井にとっての最初の物語の舞台探訪であったかもしれない。

 <和敬塾>は、東京メトロの早稲田駅から徒歩で十五分、都電荒川線の早稲田駅から五分かからない所に位置している。

 都電の駅から和敬塾に向かう場合には、<新目白通り>を左折し、<豊橋(ゆたかばし)>を渡って、それから、約二百歩、百メートルほど直進した後、十字路で車道を右折し、少し進み、<肥後細川庭園>が見えた所で左折し、そこにある<幽霊坂>を上ると、その坂の右手に位置しているのが<和敬塾>である。ちなみに、左手が<目白台運動公園>である。

 あるいは、新目白通りに面している<リーガロイヤルホテル東京>を背にし、神田川に向かい、そこに架かる<駒塚橋>を渡って、<胸突坂>という急階段の坂を上ると、その坂の左手にあるのが<和敬塾>である。

 すなわち、和敬塾を、幽霊坂と胸突坂が挟み込んでいるような形になっているのだが、それらの坂の下にあるのが肥後細川庭園、坂の上にあるのが和敬塾という位置取りになっている。そもそも、和敬塾は、元々、細川家の下屋敷であった約七千坪の敷地敷内に一九五五年に設立された男子寮なのである。

 そして、胸突坂を挟んで、細川庭園や和敬塾の対面に位置しているのが<関口芭蕉庵>なのだ。

 関口芭蕉庵は、その名称が示しているように、文京区関口にある史跡で、ここは、松尾芭蕉が、神田上水の改修工事に携わった際に住んでいた住居跡である。この敷地内には、庭園、池、そして芭蕉堂などがある。コロナの影響で、しばらく一般公開は中止されていたのだが、二〇二〇年六月二十五日現在、無料で庭園内を散策することが再び可能になっていた。

 その芭蕉庵の北に隣接しているのが<蕉雨園>である。この名は、<芭蕉庵>の<蕉>と、この庭園に立っている石碑<五月雨(さみだれ)塚>の<雨>から一字ずつ取っているのだそうだ。

 ここは明治三十年に、維新の功労者、土佐出身の田中光顕の旧邸で、現在は講談社の持ち物となっている。残念ながら、ここへは関口芭蕉庵から通り抜けることができず、現在、一般公開もされていない。

 ただし、中に入ることはできなくとも、その外装の一部を塀の外から垣間見ることはできる。その蕉雨園を特徴付けているのが<蔵>である。

 そして、この蔵に、隠井は見覚えがあった。

 この「蔵」こそが、アニメ『BanG Dream!(バンドリ!)』の第一期から第三期を通じて、幾度となく物語の舞台背景として再登場しているからである。

 『バンドリ!』において、バンド「Poppin'Party(ポピパ)」のキーボード担当の市ヶ谷有咲が、自宅から学校までの往復のために、彼女の祖母が営む質屋「流星堂」に近接している階段坂を上り下りしたり、その坂から続く橋を渡っている姿が描かれている。

 ポピパは、普段のバンドの練習、「蔵練」には、有咲の家の庭にある「蔵」の地下を利用しており、この階段坂をメンバーが通っている姿もまた、アニメの中ではたびたび描かれているのだ。

 ここで<現実>を参照するために、神田川の早稲田周辺を散策してみると、ポピパのメンバーが何度も使っている、有咲の家へと続く橋と坂が、<駒塚橋>と<胸突坂>であることが分かる。しかし、この坂を上り切った所には、現実には質屋は存在せず、外から垣間見える<蕉雨園>も、有咲の家の様相と外観が完全に一致しているわけではない。すなわち、これは、虚構上の微調整なのだが、位置や外観の一部、特に「蔵」が、<蕉雨園>をモデルにしているのは確かであろう。

 このように、胸突坂の左手には、村上春樹の「螢」や『ノルウェイの森』の舞台背景になっている<和敬塾>、右手には、『バンドリ!』の市ヶ谷有咲の家「流星堂」のモデルとなった<蕉雨園>が位置している。

 つまり、<胸突坂>の周囲は、その左右に、村上春樹、松尾芭蕉、そして『バンドリ!』という、たしかに、時代もジャンルも異なるのだが、様々な文学的・物語的要素が混交したような空間になっているのだ。

 そして、村上春樹の小説「螢」や『ノルウェイの森』における、七月末の男子寮の場面に螢が出てきているのは、胸突坂に近接する<椿山荘>において、毎年、六月に螢を放っているという現実に由来しているのも明らかであろう。

 しかしながら、残念なことに、二〇十〇年十二月に日本で公開された、松山ケンイチ主演の『ノルウェイの森』の映画においては、原作とは違って、螢は出てきてはいない。

 そして『バンドリ!』第一期、その後半は、このエッセイの一つ前のエピソードで言及したように、夏服のストーリーラインは、六・七月が時期的背景になっているのだが、ここにも螢は出て来てはいない。

 しかしである。

 有咲の家の蔵に飾ってある絵画の中に、円形の光の玉を描いた抽象画があり、螢の事が頭に残っていた隠井には、それが螢の表象であるように思えてしまった。

 また、ポピパのメンバーが目指すライヴハウスのステージの輝き、ステージ上のライトも、客席側のペンライトも、物語の中では「星」と表現されてはいるが、そうした光を、椿山荘の<螢>が変化したものとみなすのもまた、「いとをかし」かもしれない。


<参考資料>

<WEB>

「ホテル椿山荘東京について 」「ほたるの夕べディナーセレクション2020」,『椿山荘東京』,二〇二〇年六月二十五日閲覧.

『和敬塾』,二〇二〇年六月二十五日閲覧.

「関口芭蕉庵」,『文京区』,二〇二〇年六月二十五日閲覧.

<書籍>

村上春樹,「螢」,『螢・納屋を焼く・その他の短編』所収,東京:新潮社,一九八四年.

村上春樹,『ノルウェイの森』(上)(下),東京:講談社,一九八七年.

<映像資料>

映画『ノルウェイの森』,監督:トラン・アン・ユン,配給:東宝,二〇十〇年公開.

アニメ『BanG Dream!(バンドリ!)』第一期~第三期,二〇一七年一月期,二〇一九年一月期,二〇二〇年一月期.

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