第22話 一番をあんたにあげる。
かっと頬が熱くなる。
おかしい。あれだけのビールで酔う訳がない。
「だってじゃ、あんたが探してたのはあの時のあたしってことになるじゃん! そんなの別人だよ!」
「何言ってんの」
「あたしはあの頃のあたしは嫌いだよ」
「あたしはあん時のあんたも今のあんたも好きだよ」
「別人だって言うじゃない!」
「何処が!」
「どうして!」
FAVの声はほとんど裏返っている。
「あん時のあんたが、ロックが好きで思いこんで、今のあんたを作ったんだろうに?! 今のあんたは過去も何もひっくるめたあんただ。それともあの頃のあんたは嫌いで今のあんただけが好きだって言った奴がいたっていうの? 冗談じゃない。ここにいるのは誰だ? 今、あんただろ? あたしが好きなのは、あの時のあんたと、それに続く今のあんた、たった一人だよ!」
TEARは一気にまくしたてた。
「だけどもっと好きなものがあったらどうするよ」
「もっと好きなもの?」
「あたしは欲張りだよ! 一番じゃなくちゃ要らない。あんたはそれをあたしに言えるっていうの?」
「……」
「ほら言えない。だったらそんなこと言うんじゃない」
「一番は音楽だ。それはあんたもそうじゃない。アレがあたしやあんたの行く方向を変えた。変えてくれなかったら今ごろどっかの屋上から飛び降りてるさ。あんたもあたしも、音楽無しじゃ生きていけない同類項だ。だからそれを引き合いに出すなんて卑怯だ」
「どーせ卑怯ですよぉ。つまんない奴だもの。こんな奴死んじゃえばいーんだ」
「もう一度言ってみな」
その台詞はFAVの酔った時の常套句だった。
いつもそんなことは記憶があるうちには言わない。だからいつもならTEARも放っておく。
だけど今は違う。FAVは素面だったし、相手も素面だった。
「今度そんなこと酔ってねえ時に言ってみな、はっ倒すよ」
「暴力女」
「何とでも言いな」
TEARは今にでも噛みつきそうな目になる。
「音楽は、何にも、変えられない。生きてくのに必要なんだ。それはあんたもそうだろ?! 違うとは言わせねえ」
「確かにそうだよ、でも」
「もしロックに出会わなかったらと思うと、あの時あんたに会わなかったら、と思うとゾッとする」
TEARは目を逸らした。
「いい奴だよ? あの親父は。確かに女好きで、しょーもないけれど、母親にとっては。母親にとってはとても頼れる奴だ。だから母親はこのまま幸せにしてやってほしいさ。でもあたしは」
「TEAR?」
「義理や何かでも譲れねえ一線って奴があるんだ。親父はあたしを型にはめようとした。それが幸せだと奴は信じた。危ない事何もなく、ただ野郎に守られて生きる人生って奴。その『幸せ』が簡単に得られるようなコース? いい学校、大人しい行動、適当な女子短大? ロックのロの字も音楽のおの字もなくって、ただただひたすら男を待って、結婚して子供を作って今度は子供のために延々尽くすって? いつの話だよ! お前は胸が大きくて腰が豊かだからたくさん子供が産めて育てられるなって? 何言ってんだ」
そうか。FAVは思い出した。彼女の肉体コンプレックス。
「こんなのはオフクロのただの遺伝だ。あたしが望んで欲しかった訳じゃない」
「嫌い?」
「嫌いだよ」
「だから?」
「え」
「だからあたしの身体が好きだって言うの?」
「かもしれない」
興奮したせいで額がやや汗ばんでいるのが判る。FAVはその額をタオルの乾いている所で軽くぬぐう。
「それもあるのかもしれない」
「それ『も』?」
「だから、一番―――」
タオルを持つ手を取る。
「音楽は何よりも一番だけど、人間の中なら、言えるよ。一番をあんたにあげる。どんな奴よりも、あんたに」
「何処が」
「全部」
「言ってみな、全部って言うなら。素面で」
そんな恥ずかしいこと、素面で。
自分なら絶対に言わない。言ってたまるか。
「はい」
あっさりと答えるとTEARは、取った手からタオルを外した。
その腕の白い内側に軽く唇を当てる。びくん、とFAVは身体を震わせる。
下側のさらさらした髪が軽く揺れる。
「まずこの折れそうな腕」
そしてつ、とその腕を取った手がその付け根へと向かう。
「いつも露骨なくらいに出てしまう鎖骨とか、薄い胸とか」
「―――」
そして腕を回してその胸を抱きしめる。強い力。
「こうしたら全部折れてしまうんじゃないかっていつも思ってた」
「変態」
「何とでも言って。あたしの半分もないんじゃない? でもすごく気持ちいい」
「気持ちいい?」
片方の手を背中から髪へと伸ばす。
「放っておくととりとめのないくらいあっちこっちへ行ってしまう髪も好き」
「猫っ毛なのよ」
「少し白すぎる肌とか大きすぎるくらいの目とか、薄い唇だとか、濃いシャドーがよくはまるまぶたとか――― 真っ直ぐなくせに、いつもあたしの方真面目に見たこともない瞳とか」
言われてFAVはぎくりとする。
「いつだってそうじゃない」
「それは」
「どうしていつも逸らすの? 嫌いではないでしょうに」
嫌いじゃない。
それはそうだ。嫌いだったらたびたび誘いはしない。
だけどそれはあくまで友達だからだったはずだった。一緒にいると楽しいからだった。時々見せる奇妙な態度が気になったからだった。
言われる言葉の端々が妙に嬉しいからだった。
―――え?
FAVは自分の考えの流れにぎくりとする。
その隙をつくように頬を両手ではさまれて、今度こそ視線がそらせなくなってしまう。
そうだ。
自分はいつも彼女から視線を逸らしていた。何で?
そんなの判っていた。でも判らないフリをしていた。ここで判ってしまったら自分は大混乱する。
それは困った。
「予定と違う」。
インシデントは好き。でもアクシデントには自分は弱い。
TEARにそういう感情を持ってしまうというのは自分にとって大アクシデントだった。
「あたしにどうしろって言うの?」
「別に」
TEARはあっさり言う。
「こういうあんたが好きだってことだけど」
「信じられるの?」
「どうして?」
今更。ここまで来て? ここまで来させたのに信じていないの?
そう言われたような気がした。
―――そうだ。
FAVは自分の敗北を自覚した。目を閉じる。
ずるずる、と自分の背中が壁からずり落ちるのを感じる。
でも頭が床にぶつかる気配はない。相手の手が下にあった。
ベーシストのくせにもっと手は大事にしなさいよこの馬鹿。
FAVは手を伸ばして黙って上を指す。
ああ、とつぶやいてTEARは電灯のコードを引っ張った。閉じた目の裏が暗くなる。そして。
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