鏡守

第1話

本文

 だが、その安堵はほんの束の間のものでしかなかった。


 午後九時。風呂から上がり、髪を乾かしながら美羽は自分の部屋に戻った。ベッドに腰掛け、スマホをいじっていると、ふと机の上に違和感を覚えた。


 ――あれ? このノート、こんなところに置いたっけ?


 それは作詞ノートだった。いつも鍵付きの引き出しにしまってあるはずのものが、なぜか机の真ん中に開いた状態で置かれている。しかも、開かれているページには、見覚えのない文字が書かれていた。


 《ワタシノナマエヲ カエセ》


 赤黒いインクで殴り書きされたようなその文字は、明らかに自分の筆跡ではなかった。


「……なにこれ……」


 心拍数がまた上がるのを感じた。震える手でノートを閉じ、元の引き出しに戻そうとしたとき、不意にスマホが震えた。


 画面には通知が表示されていた。


 【ミラー】

 「あなたはどちらですか?」


 そんなアプリ、入れた覚えがない。動揺した美羽は即座にアプリを閉じ、アンインストールしようとしたが、なぜか削除できなかった。


 そして、そのとき――


 背後から、“ガリ……ガリ……”と、何かを引っ掻くような音が聞こえてきた。


 振り返ると、クローゼットの鏡扉がうっすらと曇っている。誰も触っていないのに、そこには指でなぞられたような線が描かれていた。


 美羽は思わず息を呑んだ。曇りの中から、じっとこちらを覗いている“自分の顔”が見えたのだ。


 だが、それは確かに“自分”でありながら、何かが違っていた。


 笑っているのだ。口角を不自然なまでに引きつらせて、にやりと――まるで嗤うかのように。


 「――返して。わたしの居場所を」


 鏡の中の美羽が、確かにそう言った。


 その瞬間、部屋の蛍光灯が一斉に明滅を始め、机の上の小物がひとりでにカタカタと揺れだした。


「やめてっ……来ないで……!」


 美羽はベッドから飛び降り、鏡に背を向けるようにして部屋を出ようとした。だが、扉の取っ手がびくともしない。


 ロックはしていないはずだった。


「開いてよっ……!」


 パニックの中で何度も扉を叩く。背後では、鏡がバリンと音を立ててひび割れた。


 「返して……」


 割れた鏡の破片の一つに、血のような赤銅色の瞳が映り込んだ。


 その瞬間、美羽の記憶が一部フラッシュバックした。


 ――鏡の中に引きずり込まれる直前、鏡の向こうの“もう一人の自分”がわずかに微笑んだこと。


 ――すれ違うとき、あれが“意図的”にすり替わったこと。


 ――今、ここに居る自分は……もしかして……


「わたしの方が、鏡の中……?」


 頭が真っ白になった。恐怖と混乱の中で、美羽は床に膝をつく。


 そのとき、部屋の扉が突然ガチャンと開いた。


「美羽っ!? 何してるの? ドア、開いてるわよ!」


 母親の声だった。だが、美羽が顔を上げると――そこには、見知らぬ女性が立っていた。


 彼女の顔には見覚えがない。だが、美羽の方を見て「美羽」と呼んだ。


 「……誰?」


 美羽が震える声で尋ねると、女は怪訝な表情を浮かべて言った。


 「何言ってるの、ママよ? どうしたの、変なこと言って」


 女の後ろには、見慣れない男――父親だという男が立っていた。けれど、美羽の記憶の中の父とはまるで別人だ。


 美羽は恐怖を噛み殺しながら、問いを発した。


 「……今日って、何年、何月、何日ですか?」


 女――“母親”は、さらに困惑したようにスマホを取り出して言った。


 「2027年の……11月8日よ。どうかしたの?」


 ――2027年?


 美羽の意識が遠のいていった。彼女が鏡に引き込まれたのは、確かに2025年の皆既月食の夜だったはずだ。


 時間が、世界が、ねじれている。


 今の自分は、本当に“桜庭美羽”なのか?


 鏡の中から出ていったあの「もう一人」は、今どこで――何をしているのか?


 そしてこの場所は、どこなのか?


 美羽の絶望の旅が、静かに始まった。



#ホラー小説

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