【初恋フレグランス】

 先生がいつも付けていた香水の匂いを忘れられない。

 あれは初恋の香りだったから。


「英語ってね、世界一簡単な言語なんだよ」

 初めての授業で、先生が言い放った言葉だ。英語が苦手だった僕が、春から通い始めた個別指導塾で担当になったのが、当時女子大生になったばかりの彼女……先生だった。


「こんなに難しいのに?」

「じゃあさ、君、これ読める?」

 クリップボードに挟んだ紙に、サラサラと先生は、この様に書いた。


『一月一日は日曜日で祝日でした』

 日本語で書かれた一文を見て、先生ぇバカにしてんの?と言うと、先生は、いいから読んでみて、とささやいた。分ったよ、となか不貞腐ふてくされて僕はその一文を声に出して読んだ。


「いちがつついたちはにちようびでしゅくじつでした」

「ほら、凄くない?」

「何が?」

 先生は、その一文の「日」と書かれた部分にアンダーラインを引いた。


「いちがつつい『たち』は『にち』よう『び』でしゅく『じつ』でした」

「あ……」

 僕はようやく先生の言わんとしてる事に気付いた。


「たった一つの漢字にこれだけの読み方があって、君はそれをマスターしてるんだよ?それに対してアルファベットは26文字。日本語は平仮名、片仮名、常用漢字を含めるとどうなるんだろうね?」

「……」

「ほら、簡単に思えてきたでしょ?しかも文法には一定の法則がある!簡単だから世界中で話されてる言語なんだよ」

 英文科に通う先生がキラキラした瞳で言うのを見て、僕は思わず何度もうなずいた。

 

 そんな風に始まった先生との授業。個別指導塾の土曜日の早めの時間帯は、僕を含めて数名しか通っていない。皆、土曜日はプライベートに使いたいってのが、本音なんだろう。だから、その時間帯に行われる授業では、僕は先生を独り占め出来た。大学に入って初めて染めたと言っていた栗色の長い髪の毛は、ダメージを殆ど受けてなくてサラサラ。金色のピアスに、同じく金色の細いネックレス。私、シルバーが似合わないのよ、と先生はよく笑って言っていた。


「中間テスト、どうだった?」

「あー、これ」

 中間テストが終わった次の日、テストの結果を渡すと、先生は満面の笑みで僕の肩を強く叩いた。痛いな、と思いながらも先生の天真爛漫てんしんらんまんな笑顔を見ると痛みが消えた。まるで麻酔だ。


「凄く成績上がってるじゃない!平均点まで、あと少しね!」

「まあ、僕が本気だせばこんなもんだよ」

「生意気!私の教え方が上手いからだよ」

 そう言って、お互いに見つめ合って笑った。


 この時には、もう先生に惚れていたと記憶している。何故なら先生の気を引きたくて、毎日必死になって英語を勉強していたからだ。確かめてみると、実際に成績が伸び始めたのが夏休み前。こんなにも短い時間で、恋心に火が点くなんて僕はなんて惚れっぽいんだろうか。


 先生の魅力はなんと言っても、その笑顔。少し歯並びが悪くて、笑うと見える八重歯が、僕にはとても可愛らしく見えた。ただの高校生の僕からは、女子大生って響きだけで凄く大人っぽく感じてしまう。それ以上に彼女の持つ知性や品性は輝いていて、先生のする雑談に耳を傾けているだけで、毎日胸がおどった。そんな先生はいつも柑橘系の香りをまとっていた。その香りが又、彼女の知性的なイメージを強くさせた。


 けれど、先生には彼氏パートナーが居たし、かく言う僕にも彼女パートナーが居た。彼女は高嶺たかねの花だ。手を伸ばしても届きやしない。


 先生の通う大学は県内でも偏差値が高くて有名で、僕は先生と同じ大学に行けたら良いな、って野望を胸に抱いていたけれど、現状では到底叶いそうになかった。


 夏休みに入って、夏期講習が始まった。毎日の様に先生と会える。それだけで頑張れた。僕の彼女に、夏期講習で忙しくなる事を伝えると、ちょっと寂しいな、と拗ねていた。毎晩の様に通話してるのに。


「ねえ、先生の付けてる香水ってなんてやつ?」

 授業中、僕が素朴な質問を口にすると、先生は少し戸惑って言った。


「なに?ちょっと匂いキツいかな……」

「あ、そうじゃなくて良い匂いだな、って思っただけ」

「嬉しい事言ってくれるじゃない。Dolce&Gabbanaってブランドのライトブルーって香水よ。男物の香りなんだけど、気に入ってて使ってるんだ」

 僕は少し勘ぐってしまって、思わず疑問を口にしてしまった。


「ひょっとして、彼氏とお揃いとか?」

「え?」

 鳩が豆鉄砲を食ったような表情をした後に、先生は少し頬を赤く染めて頷いた。





 最悪だ。嫉妬で胸が焼けた。





 お盆休みになって、一週間だけ夏期講習が休みになった。僕は彼女を自分の家に呼び出して、昨夜、ドン・キホーテで買ったドルガバのライトブルーをプレゼントした。丁度、付き合って一年目の記念日の数日前で、記念日は夏期講習で会えないと思うから、今渡すね、と言い訳をした。


 彼女は涙を流して喜んでくれた。その涙に胸が痛んだ。彼女は早速付けてみるね、と言って手首にライトブルーを振りかけた。その香りは、初恋の香り。僕は彼女にキスをして、そのままベッドに押し倒した。


 優しくしてね、と彼女は覚悟を決めた目で言った。僕は女性経験があったけれど、彼女には男性経験がない。罪悪感で胃痛がする。今、抱きたいのは彼女ではなく先生だ。それを彼女で誤魔化そうとしていた。それでも、もうどうしようもない位に僕は欲情していた。下半身に大量の血液が流れていく。




 その日、僕は彼女の初めてを奪った。




 夏期講習が再び始まって、久しぶりに先生に会った。先生を一目見るなり、僕は驚いて言葉を失くした。あれだけ長くて綺麗だった髪をバッサリと切っていたのだ。ショートカットの先生は、悲しいけれどロングヘアだった時よりも似合っていて、どこかはかなげな雰囲気をしていた。


 それ、どうしたの?と僕が聞くと、先生は力の入っていない微笑みを浮かべて、彼氏と別れたのよ、と言った。先生にとっての不幸が、僕にとっては幸運だった。最低なのは分かっているけれど、これは千載一遇せんざいいちぐうのチャンスだと思った。


 ちょうど先生の誕生日が一週間後に迫っている。僕は最低な作戦プランを立てる事にした。八月の誕生石はペリドット。ネットで自分で買える範囲のネックレスの値段を調べた。シルバーが似合わないって言ってた先生の為にゴールドを選ぶ。二万円弱。これならなんとかなる。


 誕生日当日、僕はポケットに先生へのプレゼントを忍ばせて授業を受けた。授業には全く集中出来そうにない。別れた筈なのに先生が付けているライトブルーの香りにいらついた。まだその男に未練があるのかと思うと、嫉妬で狂いそうだ。


 授業が終わった後、先生にちょっと話があるんだけど、と言って外に呼び出した。先生は、どうしたの?と心配そうな表情を浮かべながら、僕の顔を覗き込んだ。


「あの……これ、どうぞ」

「え?なにこれ?」

「誕生日プレゼントだよ」

「えー!?ありがとう!」

 小さな箱に入れてある、僕の精一杯の想いがこもったプレゼントを先生は軽く受け取った。そりゃそうだ。中身が石付きのアクセサリーなんて思ってもいないだろう。


「何かなあ。開けてもいい?」

「んー。家に帰ってから開けて」

「わあ、楽しみだな」

 先生はいつもの天真爛漫な笑顔になって、今にも飛び上がりそうだった。それを見れただけで、僕は幸せな気持ちになる。


 この想いよ、届け。


 家に帰って携帯を見ると、彼女から通話したい、とメッセージが来ていた。何故だか僕は気分が乗らなくて、今日は忙しいから明日でも良いかな?と返事を返した。彼女から泣き顔のスタンプが送られてきて、それを謝罪のスタンプで返す。ああ、多分もう彼女への気持ちが冷めてきているんだな、と自覚した。


 次の授業に向かう時、僕は緊張で吐きそうだった。先生はどんな顔をするんだろう。あのプレゼントで僕の気持ちに気付いてくれるだろうか?


 塾の前で先生が待っていた。


 僕はドキドキしながら、先生に頭を下げた。こんにちは、と言うと先生もこんにちは、と挨拶を返してくれた。


「あのさあ、前に貰ったプレゼントなんだけど」

 先生は早速、本題に入った。僕は、はい……、と少し気弱な笑みを浮かべた。


「受け取れない。ごめん」

 彼女はポケットから、僕が送ったプレゼントを小さな箱に入れて返してきた。分っていた。彼女がネックレスを付けていなかった時点で。




 僕の初恋は、こうして終わってしまった。




 その後も、先生の授業を受け続けた。毎日が地獄だったけれど、いつかこの想いが届く事を信じて、必死で勉強を続けた。


 凍えるような冬の日。試験当日、先生はわざわざ試験会場に来てくれて、使い捨て懐炉かいろを手渡してくれた。僕はそれを握りしめて、試験を受けた。結果は合格。本当にギリギリだった。


 結果が出た日、春から、先生の後輩になります!と塾に報告に行った。他の先生も塾長も凄く喜んでくれた。人生で一番輝いた日だと思う。嬉しくて泣いたのは初めてだ。


 春になって、僕は彼女と別れた。先生への想いを断ち切れなかったのだ。僕は通っていた塾でバイトを始めた。先生は卒業してしまって、もうほとんど会う事はなかった。それでもまだ先生の事が好きだ。


「ねえ、先生の付けてる香水の名前ってなんていうの?」

 ある日、担当している女生徒から質問されて、僕は内心焦った。


「Dolce&Gabbanaってブランドのライトブルーって香水。どうして?」

「いい匂いだな、って」

「そうでしょ?この香りはね、僕の初恋の香りなんだよ」

 僕がそう言うと、女生徒は少し切なそうな顔をした。


 ああ、この香りは彼女の初恋の香りにもなってしまうのだろうか。

 僕がまだ、あの人を忘れられないように。






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