第39話 神々の宴

 案内された先は、ブドウ畑の一角にもうけられた清雅な休憩室ラウンジであった。女主人たるアナが待っていた。いつものピンク色のネコ姿だ。


 ラウンジの屋根と壁は、ブドウを用いた緑のカーテン。

 葉をとおした穏やかな日の光が、拭き清められた花崗岩かこうがんのテーブルとアカシアの椅子を照らしていた。

 奥には小さな掛け流しの水道があり、ライオンを模した蛇口から清水が心地よい音を立てながら流れ落ちていた。


「どうぞ、おかけくださいな」


 そうアナにうながされ、明人は奥側手前のイスに座った。ベルはそのもう一つ奥だ。

 千星が皆のために給仕をつとめた。

 みずみずしいブドウの乗った銀の皿と、さわやかな香気を放つ茶の入ったティーカップを、それぞれの席の前においた後、彼女も自分の席に着いた。


「ありがとう。なつかしいな。かつては私の神殿にもよくブドウが供えられたものだ」


「ベルは大昔の中東で信仰されていたんだっけ。神殿もそのあたり?」


「ああ、主に東地中海だな。三千年前あたりは神殿に私を崇める人々が満ちあふれていた。だがなにもかも移ろうものだ。今や神殿は痕跡がわずかに残るばかりとなり、当時の祭司や信徒たちもすべてこの世を去っている。消滅したわけではなく形を変えただけ、とも言えるがな」


 ベルが静かに言って明人と千星を見、ブドウの実をひとつぶ口にした。


 三千年前。

 言葉にすると簡単だが、気が遠くなるほど昔である。日本はまだ縄文時代だ。仏教やキリスト教もまだ存在しない。


(そういえば三界も発生自体はその頃だっけ)


 と思いだした。良くも悪くも、なんのかかわりもなさそうなほど太古の出来事が因縁となり、現代を生きる明人たちに結果をもたらしているわけだ。


 水の流れるすずやかな音が静かに響く。

 そよ風に揺らされて、ブドウの葉がざわめいた。


 明人もベルにならってブドウを口に含んだ。

 口の中で粒を潰すなり、豊かな香りと鮮やかな甘みが口の中に広がった。


(おお……)


 まさしく神々のブドウであった。

 あの貪食界の料理も遠く及ばない。

 改めて本来なら一生をかけても届かぬほどの光栄に浴していることを知った。

 今自分が席を得ているのは、神々の宴なのだ。


「あの地もずいぶん様変わりしました。……争いの絶えない点だけは、当時と同じですけれど」


 千星の隣でアナが苦笑して言った。


「そうだな。あのころも、やれ私を奉じろ、いや光の神を奉じろと、互いの祭司や神官がさんざん揉めていたものだが、それが一応収まったと思ったら、今度はまた別件で揉め続けている。彼も苦りきっていよう」


「光の神?」


「私と同じく、当時あのあたりで崇められていた神だ。善神の中の善神で、知恵や真実、公正などを司っている。公正を司る関係で超然主義をできる限り守るから、お前が知遇を得ることはおそらくないと思うが、もし関わることがあったら敬っておくと良い」


「へえ。でもいいの? 他の神様を敬っても」


「かまわんよ。私も彼も気にしない。人間とちがって神は人の支配に興味などないのでな。たしかに当時のあの地でそんなことをしたら、互いの祭司や神官が顔を真っ赤にして詰め寄ってきたかもしれないが、それはあくまで彼らの事情だ。私や彼の本意ではない」


 とベルは肩をすくめ、茶をすすった。

 彼は神であるが神職に手厳しい。


「当時のあの地において、神職は人々の指導者でもありました。したがって『どの神を崇めるか』は『誰に従うか』とほぼイコールだったのです。兄様を崇める祭司たちと光の神を崇める神官たちはきわめて険悪な関係だったので、下手に相手の神を崇めようものなら裏切り者扱いされかねなかったのですよ」


 とアナが補足した。

 やはり色々しがらみがあったわけだ。古代なら宗教の力が強いだろうから大変だったろう。神社と寺をちゃんぽんにして御朱印スタンプラリーができる現代日本と一緒にしてはいけない。


「なるほど……」


 相づちを打って、明人は淹れられた茶をすすった。

 と、


「あの。それで、今晩なんですけど……」


 緊張した様子で千星がそう切りだした。


「うむ、そろそろ本題に入ろうか。明人と千星に残された日数が限られている以上、なんとしても今晩中には闘争界を壊さねばならない」


 とベルが言った。


 明人は己の手のひらをテーブルの下でこっそり確認した。

 【3】とある。余命は残り三日、ということだ。

 破壊した貪食界と同じく、後に控えた虚栄界にも二日かかるとしたら、闘争界にかけられるのはあと一日である。ベルの発言はそれを踏まえたものだろう。


「あ、いえ、それもなんですけど。透良をどうするのかな、と思って」


「む」


 難しい顔でベルが黙った。

 アナがだまったまま茶をすすった。


「透良、か」


 複雑な思いが胸を渦巻くのを感じながら、明人は名をつぶやいた。

 敵同士になったが、どうにも彼女を憎みきれないのだ。同年代の少女だからなのか。どこまでも突き抜けているあの性格のゆえか。


 襲われもした。だが助けられもした。

 明人を銃で撃ったあのとき、透良は単に隙があったから撃っただけなのだろうか。それとも明人を拒絶したかったのだろうか。


「透良が撃ってきたのは、ショックだった?」


「どうかな。最初は、たしかに『裏切られた』って感じたけど」


 明人が聞くと、千星は物憂げな顔で応えた。


「あのていどは武略のうちでしょう」


 隣のアナがバッサリ切り捨てた。戦神らしい苛烈さである。

 さすがに千星は少し鼻白んだ風だったが、やがて首を振った。


「でも、そこじゃないんだ。正直言えば、あの子はどこか自分と似ているって感じていたから、さ。こんな関係になったことには、思うところが色々あったわけですよ。うん」


 なぜか千星は途中からですます調で語った。

 だが『色々思うところがある』のは今も同じなのだろう。千星はうわのそらで空になったカップを口元に持っていき、途中で気づいて手を戻した。

 そして言った。


「私、できれば透良を『こっち側』に引き戻したい」


 それは、かつて透良が千星を自分の側に引き寄せようとしたように、だろう。

 だがその言葉には力がない。できるかどうか自分でも自信がないのかもしれない。


「俺たちは闘争界の鍵である女王の王笏を壊すだけでいい。あいつを討つ必要は別にないわけだし、望みはありそうだけど」


 と明人は言った。

 その後どうするのか、明人にも答えはない。だが、少なくとも、そうできるのが一番のはずだと思った。

 透良もまた明人や千星と同じく三界に囚われた者だ。自分たちだけ助かればいいというものでもないだろう。


「うん」


 明人の言葉に、千星がうなづいた。心なしか嬉しそうでもあった。


「問題は透良がそれを求めるかどうかだな。女王の王笏を手にしたことで、彼女は戦いと死に魅入られた人々の遺志を引き継いでしまっている。後戻りできなくなる一線をまだ越えてしまっていないと期待してよいかどうか。それに、あのセネメレクと呼ばれていたハエの男も黙って見ていることはなかろう」


 ベルが難しい顔で言った。

 もっともな懸念である。錯乱した様子ではあったが、それでも杖を守ろうとする意志を見せていた。かならずや妨害に回ってくるだろう。

 それに千星を狙っていたらしき点も気になる。透良を助けようと無茶をして千星を殺されてしまったのでは意味がない。


「私は反対です。透良自身の意に沿うかどうかも問題ですが、それ以前に『杖だけを狙って』などと手加減しながら戦えるほど甘い相手ではありません。むしろ全力で戦ってもこちらが負けかねない相手ですよ、クイーンとなった彼女は」


 アナが容赦なく切り捨てた。


 びく、と千星が体を震わせた。

 それでも反論しないのは、アナの戦神としての戦力判断をそれだけ信用しているからだろうか。


「それに私としては、むしろ全力で迎え撃ちたいのです。彼女も今ごろは気づいているでしょう。己の人生の価値を戦いのうちに見いだす者にとって、私の巫女である千星ちゃんと、兄様の預言者である明人さんは、この上ない好敵手であると。もちろん、彼女が命を惜しんで杖を差しだすなら、杖だけ壊せばよいと思います。しかし、もしも彼女が一世一代の最高の相手に己の全てを賭けて挑もうとするのであれば、その願いにこちらも全力で応えるのが礼儀でしょう」


 それはきっと、敬意と言い換えてもよいのだろう。

 戦神らしい意見であった。


 明人は口をひきむすんだ。

 ベルも千星も重いため息をついた。

 きっと透良は死闘を望む、と二人も思ったのだろう――明人と同じように。

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