ゾンビパニックはヴァンパイアに敵わない
蒼原凉
世界が変わった日
例えば、ある日突然学校にテロリストが押し寄せてきたり。あるいは、クラス中が異世界に召喚されたり。はたまた、世界中でゾンビパニックが起こったりして、そんな中で自分だけが一人活躍する。誰しもそんな妄想を抱いたことがあると思う。
だけどよくよく考えてみるとそんな状況になったところで冷静に対処できるようなそんなはずもなくて。きっと僕にできることはと言えば、何もできずに逃げまどったり、せいぜい冒頭でほんの少しだけ見せ場を作って死んだり、そんなことしかできないのだろう。
別に、人が嫌いってわけじゃない。人並みに彼女とかはほしいけど、でもそんなに親しくない人と仲良くするより、波長の合う人と一緒にいる方が気楽なのだ。そういう意味では化学部というのはとっても僕に都合がいい場所なのだろう。幽霊部員を除けば
「それじゃあ、
「はい」
国語教師の高橋に指名されて学級委員の
「——」
涼やかな声で彼女が言葉を紡ぎ出す。今読んでいるのは、阿部公房の砂の女だった。はっきり言って僕にはこの小説が全く理解できないわけなんだけどね。
とはいえ、僕は彼女に注目していた。というのも、妄想に飽きたら彼女の凛とした姿を眺めるというのを秘かな時間つぶしにしていたからだ。たぶんだけど似たようなことをやってる男子も多いんじゃないのかな。
そう思っていた。
「——とまあ、こんなわけで、『砂の女』はカミュの『異邦人』やカフカの『変身』と並んだ不条理文学として有名なわけだが――」
そう、不条理。まさに不条理だ。それは、いつも意図しないように突然訪れ、世界が変わっていってしまう。
ジリリリリリリリリリリン
「なんだ!? 火事か?」
ガタッと誰かが非常ベルに驚いて立ち上がる。
「落ち着け! 俺が様子を見てくるから何かわかるまで動かないように! くれぐれもパニックを起こさないように、いいな!」
高橋がそう言い残して教室を出ていく。そしてそのドアが閉まると同時に、時が動き出したようにみんなが口々に勝手なことを言い出した。
……いや、パニックにならないようにって言われたじゃん。こういう時勝手な行動をすると収集つかなくなるんだからさ。相楽さんも場を収めようとしているけど声が届ききっていないみたいだ。
そんな中で、僕には関係ないとばかりに机に体を預けていると、遠くから――たぶん階下から怒号のような声が聞こえてくる。というか、もっと大きなパニックが起こっていて、誰かが走るような足音がどんどん近づいてくる気がした。
そして、その音はどんどん近づいてきて。
「あ……、おい――ち」
「に――ろ?」
「だ。……びだ」
「ゆ――くん! しっ……して!」
「お……れたろ――よ!」
「くしょ、……でぞ――」
何人もの声が聞こえてきて、意味のある単語はほとんど聞き取れなかった。だけど、断片を紡ぎ合わせているうちに、一つの単語ができてしまう。
「『ゾンビ』!?」
「え、ゾンビって何!? 何があったの!?」
そこから僕のクラスにパニックが伝染するのは一瞬だった。
「おい、やばいぞ、逃げろ!」
「ちょっと、そんなものはやく!」
あっという間にカーストの上位にいるやつらから逃げ出していく。確かに、ゾンビからは逃げた方がいい。僕もそれに続いていく。
だけど、それではすでに遅すぎたんだ。教室を出たとたんに下から避難してきた人の群れに巻き込まれてしまう。一瞬にして身動きが取れなくなって、流されるまま倒れないように移動していくのが精いっぱいだった。
でも、当然のことながら最上階から逃げるには下に行くしかなくて。だけど下からは逃げてきた人の流れとぶつかってしまう。必然的に僕らは別の教室の中へと追い込まれてしまった。
「
「弥月先輩こそ、大丈夫でしたか!」
弥月先輩に声を掛けられる。どうやら弥月先輩もあの中から逃げ出してきたらしい。
「うん、ボクは大丈夫。それより、譲君は早く逃げた方がいいよ」
「いったい何があったんですか?」
「あんまり大きな声では言えないんだ。耳を貸してくれ」
弥月先輩の身長に合わせて少しかがむと、弥月先輩は驚きの内容を口にした。
「実は、ゾンビウイルスが拡散してしまったんだ」
「ゾンビウ――」
「し、静かに!」
口元を抑えられる。息が苦しい。
「すいません、咄嗟に」
「いや、いいよ。それより問題はゾンビウイルス? ですよね」
「ああ、そうなんだ」
「それって、どういうものですか?」
「一般的な映画に登場するゾンビと考えてほぼ差し支えないよ。外見的な特徴は肌が青白くなり、徐々に緑色へと変わっていく。それから思考能力が著しく低下して自我が無くなるから、映画のゾンビみたいに両手を垂らしたゾンビスタイルで行動する。ただ、罹患していない人を見つけたら襲ってくるから要注意だよ」
「か、感染はどうなんですか? やっぱり噛まれたらゾンビ化するんですか?」
問題はそこだ。ゾンビウイルスと言ってもどうやって感染するのかわからない。噛まれたとして無事なのか、他に感染経路はないのか。
「そうだね。より正確に言えば、ゾンビウイルスに罹患した人の体液が血液に入ることで感染する。ゾンビの血液が皮膚に付着したり、血液を飲んだりしても感染しないから大丈夫だよ。まあ、噛まれたら唾液が傷口から入るからダメだと思うけど」
「飲んでも大丈夫なんですか? 口腔内って粘膜ですけど」
「それだと開発が大変だったからね。だから傷がないなら『ピー』しても大丈夫だよ」
その下ネタは今言うべき時じゃないです。というか、誰がゾンビと『ピー』するというんだ。
「そんなことより、血清的なアイテムはないんですか? 噛まれたら100%発症ですか?」
「ボクの知る限りだけど、罹患して発症しなかった例はないよ。症例が少ないからまだ何とも言えないけどね。それと、一応だけど抗体なら……」
「ゾンビだ!」
誰かが叫んだ。びっくりして教室の入り口を見ると扉を開けたゾンビがバリケードにぶつかっていくところだった。痛覚がないのだろう。あちこちをぶつけても関係なく吶喊してくる様子はやっぱり生理的な恐怖を催させる。しかも、襲ってくるゾンビは制服を着た生徒たちだ。モップを構えた男子生徒もそのまま動けずにいたし、僕だってそうだった。
「……君、譲君! しっかりして!」
「はっ。で、でも弥月先輩! ど、どうしたら」
「とりあえず逃げないと」
先輩にそう言われて窓の外を見る。ここは4階――最上階だ。飛び降りたとして、足を挫くかもしれない。今は外にはゾンビはいないけど、足を挫いたら逃げられない。いや、でも……
「排水管です! 排水管を伝って下りればうまく逃げられるはずです!」
窓を開ける。
「先輩、早く!」
「いや、ボクは大丈夫だから譲君から……」
「何言ってるんですか! 大丈夫なわけないでしょう!」
「でも……」
言い渋る先輩をせかすようにして体を持ち上げる。
「みんなも早く外に!」
言い終わる前に一斉に動き出す人、人、人。混乱が起こらないように避難誘導をしなきゃ。
間に合え、間に合えなんて思いながら一人ずつ窓の外へ出していく。女性から優先して。どうでもいいけどタイタニックでこんなシーンがあったなんて思った。
「ダメだ、もう持たない!」
その言葉と共に机を積み上げただけのバリケードが突破される。ようやく僕の番が回って来た時だった。近くの男子生徒が襲われるのを見ても僕には何もできなかった。
慎重に、慎重に。一歩一歩手足を動かしていく。だけど、ゾンビはすぐそこまで迫っていて汗で手足が滑りそうだ。
そう思って、足元を見ていたら、近づいてくるゾンビに気づかなかった。
「危ない!」
誰かの声がして。
ゾンビが飛びついてくる。僕の喉笛めがけて、
それを、かわそうと体をひねる。
ゾンビは、窓枠に阻まれてこれ以上外に出てこられない。
大丈夫、大丈夫だ……
「あ」
体を振った反動だったのか、
手が滑って、
すべてがスローモーションになって。
落ちるんだって僕は自覚した。
「キャアァァァァ!」
そのまま地面に叩きつけられる。ゴフッっと息が吐き出された。視界がくらむ。息が、上手くできない。なんか、手先の感覚もない。体が冷たい。寒い。体温が奪われていくようだ。だけど、そのくせ陶酔感が襲ってくる。
このまま死んでいくんだってわかった。ここで、ゾンビの前に時間を稼いで転落死するんだって。そう。
「譲君! しっかり、しっかりして!」
声が、聞こえた。弥月先輩だ。
「弥月先輩……に――て」
弥月先輩の泣きそうな顔が見える。そう思った瞬間、僕の視界は暗闇に吸い込まれていった。
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