1-2節

 授業を終えた麓丸は、その足で道場へ向かった。正確には裏手の訓練場である。定刻通り、そこには歴戦の道場主が待っていた。

「師匠。今日もお願いします」

「うむ。ではまず、手裏剣術」

「はっ」

 相手に軌道を読まれないよう最小限の動きで、かつ正確に命中させるのが肝だ。主な用途は必殺ではなく、迎撃や牽制などの補助的役割だが、極めれば身体の自由を奪うほどの手傷を与えられる。麓丸の放った手裏剣は閃光のごとく、人型を模した的の、関節の継ぎ目を適確にとらえた。

「よし。では次、クナイ」

 クナイとは投擲するのみに非ず。近接戦闘において、攻撃力と有効距離を高めてくれる重要な道具だ。先端を突き刺す使い方もできれば、両の手で逆手持ちをして素早い攻勢を仕掛けることも可能。麓丸が得意なのは後者であり、軽業師のような挙動から繰り出される連続攻撃によって、みごと巨大わら人形はずたずたに引き裂かれた。

「よし。では次、火遁の術」

「できません!」

「よし。では次、水遁の術」

「できません!」

「よし。では次、土遁の術」

「できません!」

「たわけええええ!」

 一帯に心の叫びがこだました。天が轟き雲が砕けた。師のあご髭がぷるぷると震えた。だが、過去に何百と喝を浴びている麓丸は落ち着いたものである。

「師匠、もうすこし忍んだほうが」

「ああ、そうじゃな」

 咳払いをし、気を取り直した師は厳粛な顔つきで話をつづける。

「麓丸よ、お前の身体能力は認めよう。手裏剣、クナイ、身のこなし、どれをとっても申し分ない。同年代なら敵う者などほとんどおらんだろう」

「恐縮です」

「しかしじゃ。忍の極意とは術にある。いくら肉体が優れていても、術がなければ勝てない。こぶしで炎が殴れようか。剣で水を斬ってどうなるか。もちろん、忍とは敵と戦うのを主目的としない場合が多い。諜報活動、斥候や潜入を生業とするものじゃ。だが、敵と遭遇した際に、くぐり抜けるだけの力は持っておかねばならん。それが術じゃ。大気を練り、印を結ぶことで、 万有に通ずる事象を起こす。忍のみが使える特権と言えよう。術こそが極意であり真髄なのだ」

「でも使えないものは仕方ないですよ」

「そうなんだよ」

 急に脱力して、師はだらだらと七輪で餅を焼きはじめた。

「なんでそうなったのか、ほら回想」

 たとえ投げやりな言い方だとしても、師事しているからには拒むわけにいかぬ。なにより忍として尊敬しているのは間違いないのだ。

「こういうことがありました」

 麓丸の母こと曜子ようこは病気がちで、あまり体力がないため、息子たちが買い出しや炊事をやっている。二人に悪いからと、掃除と洗濯はこなしているものの、それくらいだ。けれど、昔は今より調子がよかったので、食事は曜子が作っていた。

 ちょうど唯良乃に忍のことを打ち明けた頃、ある日麓丸は台所にいた。何か用事があったわけではない。ただなんとなく、母が晩ごはんを作る様を見るのが好きだった。というより、その場にいるのが好きという方が近かったかもしれない。その証拠に、調理の香りは感じながらも、視線は居間にあるテレビに注がれていたからだ。

 麓丸は夕方の特撮番組を楽しみにしていた。ヒーローと悪の構図はわかりやすく、少年の胸を熱くさせる要素がたくさん詰まっている。麓丸も例にもれず、魅せられた一人だった。

 ただその日に限って、ふと気になることがあった。ヒーローの変身シーンである。浅はかで、理由のないうぬぼれにまみれていた麓丸少年は「おれにもできるんじゃないか」と思ってしまったのだ。

 もちろんそこは忍なので、変身ポーズを模倣するだけではない。いつか父に見せてもらった変化の術だ。変化の術とは名の通り、使えば自らの姿かたち、服装までも自在に変えることができる。夢のような力だが、たやすく習得できるものではない。まして分別のつかぬ子どもに教えるわけもなく、ゆえに父は、術の使用は本格的な修行が始まってから、それまでは真似事も禁止と、麓丸に固く言いつけた。はずだった。

 唯良乃に秘密を打ち明けたばかりで、どうにもゆるくなっていたのかもしれない。あるいはブラウン管の向こうにいるヒーローの勇姿に、いささか高揚していたせいかもしれない。ちょっとくらい、という気持ちに身を委ね、指をこねこね所定の形に結ぶと、念じてしまった。術を発動しようとしてしまった。

 その結果どうなったか。当然、麓丸が思う通りにはならなかった。しかも自力で解けない。大人たちが手を尽くし、高名な忍に来てもらったり、御百度参りをしても、何をどうしても解けなかった。修行を積み、術のなんたるかを学習した現在に至ってもそれは変わらない。印を結んだところで、うんともすんとも言わなくなってしまった。右手はかろうじて正常なのだが……。

「ちょっと貸せ」

 麓丸の左手をとった師匠は、人差し指をつまむと上にひねった。すると、なんと第一関節から先だけが九十度回転してしまった。血は出ず痛みもない。上側でしっかり繋がっている。しかし断面がおかしい。周囲が黒い上に、小さな穴が空いているのだ。

 そのまま師匠が手を持ち、焼けたばかりの餅に向かって傾けると、指の中から液体が出てきた。これも血ではない。真っ黒な液体である。一見すればとても猟奇的な光景に違いない。ところが麓丸は平気な顔をしているし、あろうことか師はその餅をかじってしまった。

「うん。美味い」

 一体どういう仕組みと因果でそうなったか。失敗した時の話なので、推測の域は出ない。だが、麓丸が術を使ったのは台所だった。台所の椅子に腰掛け、居間のテレビを見るその間にはテーブルがあり、上にいろんなものがあった。まな板しかり包丁しかり、そして、調理に使う小瓶が並んでいた。だからなぜそうなったのかという、説明をつけられなくはない。しかし、あまりに度し難く、間抜けで、あっていいことではなかった。

 餅に合うといえば醤油であり、すなわち左手の各指が調味料入れになってしまったのだ。

「便利なんだがなあ」

 師は感慨なげに言った。「いかんせん代償がな」

「おれも使えたらなと思いますよ。使えるようになった時のアイデアも考えてるくらいです。しかし無いものねだりをしてもどうにもならんでしょう。原因だっておれにあるわけですしね。だからこそ、あるものを磨き、どうにか賄わなければと思っているのです」

「はいはい、ご立派」

 幼少の頃のことゆえ、すでに麓丸は割り切っているものの、師匠のやる気は削がれっぱなしである。

「知ってる? 雹隠嵐蔵ひょうがくれらんぞうといえば、けっこう名の知れた忍なんだが」

「知ってますとも。師匠の術は一級品です」

「その一級品が伝わらないんじゃあなあ。お前さんの親父と旧友のよしみで師匠などやってはおるが、今となっては後悔しとるよ。だって修行以前の問題だもん」

「もんはやめましょう、師匠」

「あーあ、あの嬢ちゃんが弟子ならよかったのになあ」

「それは言ったらだめなやつです、師匠」

「おーい嬢ちゃん。出ておいで。餅をあげよう」

 嵐蔵が周囲に呼びかけると、道場の床下からするりと唯良乃が現れた。

「いただきますわ」

「どこにいるんだお前は」

 麓丸の言葉をよそに、二人は和気あいあいと餅を食べる。

「嬢ちゃんなら師匠のしがいもあったんじゃがな」

「ロクの体たらくでは無理もありません。わたしったら才能のかたまりですもの」

 この点に関して、麓丸はぐうの音も出ない。十年前に修行をはじめ、ここで師匠の術を見てきたわけだが、それはつまり唯良乃も見ていたということだった。調味料呪いのせいで術が使えない彼とは違い、いや、それを差し引いてもおそるべき速度で、唯良乃はどんどん吸収していった。しまいには、高位の術とされる変化の術や分身の術まで、あっさり会得してしまったのだ。身体的に優れているとされる麓丸にぴったりついていけるほどだから、体力面も引けをとらない。本職の彼よりも、忍としてはよほど上だった。

 何をやっても完璧にこなす唯良乃は、両親に能力を認めさせる形で、執事らの監視を止めた。自由を手に入れたわけである。ただし彼女は忍ではなく、あくまで麓丸をつけ狙うために身につけたので、忍として力を行使することはない。その点も、かえって麓丸からすれば悔しいのだが。

 左手の惨状を初めて見たとき、唯良乃は爆笑した。思うさま指をいじりながら、一ヶ月ほど毎日笑っていた。今でもたまに思い出し笑いをするくらいだ。麓丸にとって、あれほど嘲笑されたのは他にない。ああいう大事件を待ち望んでいると知って腹も立つ。けれども実際問題、一番困るのは、師匠のやる気がないことかもしれない、と思うのだった。

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