第4話 AI
翌日は晴れだった。
日中も、この時期にしては気温が低く、過ごしやすい一日だった。
六時半になり、私は、いつものように犬の散歩に出掛けた。
空気が澄んでいて、東の空の満月が、とても綺麗に見えた。
私たちは、満月を背にして、土手へ向かって歩いて行った。
土手に着き、私は再び満月を見上げた。
その月の美しさに、私は見惚れていた。
こんなに、まじまじと月を見るのは数年ぶりだった。
日頃の忙しさの中で、月を見上げることなどなかったためか、その日の満月は、とても新鮮だった。
「綺麗な月ですね。たまには、空を見上げるのも悪くないですね」
突然の声に振り向くと、私と同じ様に、月を見上げている女性が立っていた。
その女性も、どことなく、昨日までに出会った、あの不思議な女性たちと似ていた。
それにもまして、その女性は、私の初恋の人に似ていた。
私は、驚いた。
こんなにも近くに人が来ていることもそうだが、なによりも、この女性の存在そのものに驚いていた。
「あっ、すみません。突然声をかけてしまって……でも、本当に綺麗な月ですね」
女性は、ちらっと私の方を見て、また月を見上げた。
私は彼女の横顔を見つめていた。そして、昨日までに起きたことを考え始めていた。すると、心臓が高鳴り、体が緊張していくのを感じた。
「ええ、本当に綺麗ですね。あまりにも綺麗なので、あなたが、こんなにも近くに来ているのに、まったく気づきませんでしたよ」
「ふふっ、そうみたいですね」
彼女はそう言って、今度は、私の連れている犬の方を見た。
「かわいいですね。マルチーズですか?」
「えっ、ああ、こいつは、マルチーズとプードルのあいのこです。簡単に言うと、雑種ですよ」
私がそう答えると、彼女はしゃがみ込み、犬の頭を撫で始めた。
私の犬も、嬉しそうに、しっぽを振っている。
私は、その光景を眺めながら、いつ、あの質問をされるのか、ビクビクしていた。
そんな、私の態度に気付いたのか……
「あの……どうかしました?」
彼女が、犬の喉元をワシャワシャしながら、上目遣いでそう言った。
「あっ……いえ……別に……」と私がしどろもどろにしていると「そうですか、じゃあ、もう行こうかな」と言って、彼女は膝に手をやり、勢いよく立ち上がった。
「ごめんなさいね、いきなり話しかけてしまって。自分でも不思議なんです。普段は人見知りで、見ず知らずの人に、声をかけることなんて、ないんですけどね」
彼女は、私の犬に指でも舐められたのか、手のひらを拭いながら続けた。
「満月に魅せられちゃったのかな?」と彼女は、自身の発言に頬を赤らめた。
「あっ、変なこと言っちゃった……」少し照れているようだ。
「いや、本当にそうかもしれませんよ。満月には不思議な力があるって言いますしね」と私の口からも、勝手に言葉が出た。
「そうですよね。世の中には、不思議なことが山ほどありますもんね」
そこまで言うと、突然、彼女は、何かに気付いたのか、少し真剣な顔つきになった。
「あの……不思議ついでに、一つ聞いてもいいですか?」と彼女は、躊躇しながら言った。
私は、ついに来た。そう思って彼女の目を見た。
「あの……ひょっとして」私が言いかけると「そうです。あなたは、人として、私を、愛することが、出来ますか?」と彼女は、はっきりと言った。
私は、この質問を望んでいたわけではない。しかし、この質問を聞くと、妙な安心感に包まれた。そして、心のどこかにある、期待という名の扉が、少し開いたような気がした。それは、今まで一度も味わったことのない感覚だった。
「やっぱり、あなたも、そうでしたか。初めから少し変だとは思っていました。でも、昨日までの人たちとは、少し違っていたので……その……」
「すみません。これは、私の義務なのです。そうインプットされているのです。今、分かりました」そう言うと、彼女は、先ほどまでとは、まったく別の表情になった。
それは、悲しみに満ちた表情だった。忘れていた心の傷が、再び開いてしまったかのような、それは深い悲しみの顔だった。
「あなたの義務? インプット?」私は疑問をぶつけた。
「記憶です」彼女は暗い面持ちのまま言った。
「記憶? 記憶喪失だったのですか?」私はさらに尋ねた。
「いえ、そうではありません。でも、ある意味では、そうかもしれません」
「ある意味では?」私は、独り言のように呟いた。
「そうです」と彼女は相変わらずの暗い表情で、ポツリと答えた。
「どういうことです? ちゃんと説明してもらえませんか?」
「説明しても、きっと、信じてもらえないと思います。それでも、聞きたいですか?」
私は、「もちろん」と答えて、彼女の目を見つめた。
「分かりました」と彼女は一呼吸おいて続けた。
「私は、過去の私ではありません。正確に言うと、私の脳が、です。三か月前に交通事故に遭い、植物状態となりました。それで、生体コンピュータに、私の振る舞いをさせるプログラムを入れて、私の人格を作り、それを頭に戻しました。外見は昔のままです。肉体と呼べるものは、以前の私と同じです。でも、今の私には他人かもしれません。だから、記憶喪失ではないのです。ただ、古い記憶がないのです。これは、さっき気が付いたことです。いえ、気が付いたというより、プログラムのフラグが立った、と言った方が、正確かもしれません」
私には信じられない話だった。この数日で経験したことも、不思議ではあったが、ここまで現実離れしてはいなかった。
犬の散歩で出会った、初恋の人に似た彼女が、SF小説の登場人物のような人であるなんて、私には、とうてい信じられなかった。
こんな馬鹿げた話はない。彼女は頭がおかしいのだ。私はそう思った。
「やはり、信じてもらえませんね。しかし、これが事実です。私にとっての現実なのです」
気が付くと、彼女は、目に涙を浮かべていた。
「信じてもらえないのなら、それでも構いません。ただ、この質問にさえ、答えてもらえれば、それで良いのです」
そう言うと、彼女は例の『私を愛せますか?』の答えを要求してきた。
「なぜです? なぜ、答えなければならないのですか、私には、分からないことだらけだ」
「分かりません。私にも分からないのです。私のことなのに、分からないのです。きっと、そうプログラムされているのだと思います。そうとしか思えないのです」
彼女は、泣きだしていた。
感情を抑えきれなくなっているようだった。
私は、彼女の泣き顔を見て、これは嘘ではない、と思った。
彼女の泣き顔には、狂った人のそれとは違う、真実のようなものが漂っていた。
そこで、私は少し考えた。
もし、彼女の言っていることが、真実ならば、私は、そんな彼女を、人として愛せるだろうか?
例えば、目の前にあるディスプレイとコンピュータが、彼女と同じ質問をしてきたら……
とうてい、人として愛することなど出来ないだろう。だが、今、目の前で泣いている彼女なら……満月を見て美しい、と言う彼女なら……
「分かりました。答えましょう。私は、あなたを、愛せると思います。こんな言い方をしたら、失礼かもしれませんが、たとえあなたが、コンピュータチップの人格でも、人として、あなたを愛せると思います」そこまで言うと、私は一瞬、躊躇したが、構わず続けた。
「それに、あなたは私の初恋の人に似ています。だからかどうかは、分からないのですが、私は、あなたに親しみを感じます」
私が、そう言い終わると、彼女は涙を拭きながら、私の方を見た。
「そうですか、ありがとうございます。そういえば、私も、あなたのことを、知っているように思います。だから、さっきも、突然、声をかけてしまったのかもしれません。でも、私には、正確なことは、分かりません。これも、プログラムなのかと思うと……」
彼女の泣き顔に、少しだけ混乱の色が混じったように見えた。
私は、そんな彼女に、これからどうするのかと尋ねた。
すると、彼女は少し考えてから答えた。
「研究所に戻ります。私には、そうすることしか、出来ません」
研究所、突然、彼女の口から出たこの言葉に私は驚いた。
「研究所って、いったい、あなたは何者なのです? あなたの質問には答えました。今度は、私の質問に答えてもらえませんか? 最近、私の身におこった奇妙な出来事は、全て、その研究所に関係があるのですか?」私は、矢継ぎ早に質問していた。
「すみません、詳しいことは、分からないのです」
相変わらずの泣き顔を崩し、またボロボロと涙を流し始めた。
「なぜです、あなたは、研究所に帰ると言ったじゃないですか。じゃあ、どうして、研究所に帰ろうと思うのですか?」
「なぜって……」彼女は俯き、声にならない声で、そう言うと、その後は黙り込んでしまった。
私は、そんな彼女を見て、これ以上何かを尋ねても仕方がないと思った。いや、それ以上に、こんなにも泣いている彼女を追い込みたくはないと思った。
私は彼女が落ち着くまで、見守ることにした。
――
「すみませんでした、また泣いてしまって……でも、なんで自分が帰りたいと思ったのか、それが分からないのです。自分がこうしたいと思う、その根拠が分からないのです。それが、とても不安なのです。たぶんプログラムに書かれていないからなのでしょう。そう思ってしまうこと自体がとても怖いのです。自分の正体がプログラムかもしれないって思うと、もう、どうしたらいいのか……」まだ、放心の種が彼女の中に残っているようだ。
「あの……私の方こそ、すみませんでした。急に色々質問してしまって……私も分からないことだらけで不安なのです。たぶん、私も今のあなたと同じですよ。」
「同じ?」彼女が顔を上げた。
「ええ、同じです。私も、なんであなたに色々質問したのか分かりません。いや、昨日までの出来事に関連があるからだろう、と勝手に思い込んだからですが……でも、その思い込むことに根拠はありません。経験上そうなのだ、と言ってしまえば、それまでですが……それが真実かどうかは誰にも分かりません。だから、同じです。自分のことを完璧に分かっている人なんて、たぶん誰もいませんよ。だから、やっぱり同じです」
何を弁解しているのか、自分でも分からなったが、私はどうしても、同じ気持ちであると彼女に伝えたかった。いや、同じ気持ちでありたいと願った。
「同じ……なのですか?」彼女が確かめるように言った。
「ええ、そうですよ。そう言えば、さっき月が綺麗って言ってましたよね」
「はい」と彼女が、ゆっくりと頷く。
「なんで、そう思ったのですか?」
「なんで?」また、彼女が不安な表情を浮かべた。
「あっ、いや、そんな顔しないでください。私もさっき月が綺麗だと思ってましたよ。でも、なんで、月が綺麗だと思ったかは、分かりません」
「あなたにも、分からないことがあるのですね?」
「そりゃ、もちろん、分からないことだらけですよ」
私は夜空を見上げた。
「ほら、やっぱり綺麗じゃないですか、満月」
私がそう言って、月を指さすと、彼女も月を見上げた。
「ああ……はい、やっぱり、綺麗ですね……」
「魅了されそうですか?」
私が冗談めいて言うと、彼女は少しだけ笑顔になった。
「はい、魅了されそうです」
私は傍らで月を見上げる彼女の横顔を見つめていた。
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