義人の月

柚須 佳

第1話 AA

 ある日の夕方、私はいつも通りに、犬の散歩に出掛けた。

 大通りの街路樹に沿って歩き、突き当りの駐車場を右に曲がり、最初の交差点を左折して、住宅街の小道に入った。

 ここから先は、スクールゾーンとなり車の交通量は少ない。

 私は右手に持つリードを少し緩め、犬が気ままに走り回る姿を、小走りに追っていった。

 しばらく走り続けると、橋の袂に着いた。が、私たちがその橋を渡り、川向うの街に行くことはない。橋の中腹から左右に伸びる土手を行くのが、私たちの散歩コースだからだ。

 私たちが、ちょうど、その土手歩いていると、数メートル先から私たちの方へ一人の女性が向かって来た。

 その女性が、私の前で急に立ち止まると、突然「私を愛せますか?」と尋ねてきた。

 私はあっけにとられて、その女性を見つめていた。

 その女性は、肌が白く、髪は長い黒髪で、Tシャツにジーンズ姿だが、着物を着せれば、まさに日本人形とでも言いたくなるような雰囲気だった。

「私を愛することが出来ますか?」と再び、その女性が尋ねてきた。

 私には何のことかさっぱり分からず、どうしてそんなことを私に尋ねるのか、と聞き返した。

 すると女性は、「わかりません、ただ、あなたにお尋ねしているのです」と言って、すがるような目になった。

 その顔は、全てを魅了するような神秘的な美しさを秘めていた。

「その質問に、答えなければなりませんか?」私は、さらに聞き返した。

「ええ、あなたは答えなくてはなりません。いえ、あなたには答える義務があるのです。ですから、どうか仰ってください。私を、愛せますか?」

 やはり私にはよく分からなかった。なぜ私にそんな義務があるのか、なぜ女性がこんな質問をするのか、私には、どうしても分からなかった。

 だが、上目遣いですがる彼女を見ていると、不思議とそんなことは、どうでもいいように思えてきた。美しい顔、美しい胸、美しい脚、全てが美しい彼女を見ていると、とても彼女を愛せないとは思えなかった。


「愛せると思います。あなたのような美しい人なら、私は愛せるでしょう」


 私が言うと、その女性は、それが当然だというような顔つきになった。

「そうですか。でも、私が、今あなたの前にいる私が、本当の私でないとしたら……それでも私を愛せますか?」

 また、訳の分からないことを、その女性は言った。

 そして、右手で自身の左腕を掴むと、私の目の前で、いきなり肩の辺りから、左腕を外してみせた。

 私は突然のことに酷く驚いて、思わずのけ反り、引きつった顔になってしまった。

「義手です。少し驚かせてしまったようですね。どうですか、この通り、私の左腕は私の肉体ではありません。それでも、私を愛することが出来ますか。人として私を愛することができますか?」と言って、その女性は、少し微笑んだ。

 私は彼女の左腕のない姿を見つめていた。

 しかし、これといった嫌悪感はなかった。

 なぜだか、義手などは、どうでもいいことに思えた。

 そんなもので、彼女を愛せなくなるとは思えなかった。

 それよりも、彼女の美しい微笑みが、私の心を奪っていた。

「変わりません。義手だからといって、あなたを、愛せなくなったりはしません。なぜだか、あなたを見ていると、そんな気にはなれません。あなたのような美しい人なら、何があっても愛せると思います」

 それが私の本心だった。自分でも何を言っているのか分からなかったが、私は、その美貌にあっさりと敗北していた。

「そうですか。ありがとうございます」と女性が事も無げに言うと、右手に持っていた義手を、左肩にはめた。そして、軽く会釈をすると、最後にまた微笑んで、私の前から去って行った。

 私は、その後ろ姿を見つめながら、現実の世界から、駆け下りて行く自分を感じていた。

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