想い知るということ
さぁ、どうしようか。
悩んでみたが、どうにもならないものはどうにもならない。
学習机に載せた、手のひらにおさまるほどの小さな一枚の紙切れを見て、ため息を吐いた。
一昨日、知らない誰かに渡されたもの。
綺麗に折り畳まれた紙にはメールアドレスらしきものが書かれていたのだが。
(私、携帯電話とか持ってないし)
居候させてもらっているこの家にもネット回線はない。
織子姉さんなら携帯電話を持っているかもしれないが、他人のものを借りてまでしなければならないのかと聞かれたら、どうなんだろうと答えるだろう。
本人を見つけて聞くのが手っとり早いのだろうが、あのお嬢様(仮)の印象が強すぎて、あと二人の顔はうっすらとしか思い出せない。
私の記憶力は自慢じゃないが、よくはないのだ。
どうしよう。
これってかなり失礼だ。
せめて背格好だけでも思い出してみようと目をつぶったその瞬間、浮かび上がったのはあの後の会話。
神楽さんの、言葉。
『高千穂くん…ですか?』
『そうそう、わたしあれとは幼馴染みなんだ!』
遠目に見た通り、ハキハキと話す人だった。
職員室に行くがてら、神楽さんは私の荷物を半分持ちつつ彼とのことを教えてくれた。
神楽さんのお父さんと高千穂くんのお父さんが大学の先輩後輩で、小さい頃から付き合いがあること。
習い事(それはもうおそろしいくらいの量)を彼とこなしてきたそうだ。
『そのひとつがどうもしっくりきてね。道極めようかなって思ってる。そのこともあってさ、こないだまで留学してたんだ』
見かけよりだいぶ年上に見えたが、現在高校二年生で学校の姉妹校制度を利用して一年海外留学をしていたんだそうだ。
純粋にすごい、と思う。
自分の進む道に迷いなんてないのだろう。
(私には、無理だ)
なにもできはしない。
なにも決められない。
私は彼女たちには一生近づけない、景色のようなもの。
それに比べて、なんて眩しい存在だろう。
稀に、人の中から抜きんでて才能を持つ人間が生まれる。
それは、そう。
高千穂くんみたいな。
誰に言われずともわかる才能を持った人。
彼は、きっと描くために生まれた人。
それ以外に、なんの興味を持たない人。
彼は本当の意味で天才なのだ。
どうして、いままで私は平気な顔で彼のそばにいられたんだろう。
なぜ、凡人の私が近くにいられたんだろうか。
一番上の引き出しを開け、小さなスケッチブックを取り出す。
暇があれば眺めている、私の宝物。
これは、彼がくれたものだ。
私が、彼の絵が好きだから。
彼の描く絵は好きだ。
ただの平面な絵なはずなのに、どこか温かみがあって。
本当に、描くことが好きなんだと感じることができる。
ラクガキなどと言っていたが、埋められたどのページも素晴らしい。
曲線を指でなぞってみる。
「遠いなぁ…」
しかしいまは、自分との違いを見せつけられているようで、苦しい。
私と彼を隔てる壁は高くて分厚い。
乗り越えることなんて、できない。
(あれ、おかしいな)
そもそも、どうして彼と近づきたいと思ったんだろう。
知りたくないと、思ったのに。
知りたいとも、思っているの。
頭の奥が、ぐるぐるする。なんだろう。
はじめて来た町に迷いこんだ感覚。
右も左も、来た道すらわからない。
戻れないし、進むことすらできないような。
私は、なにをしたいんだろう。
まぶたを開ければ、目覚まし時計はいつも起きる時間をさしていた。
「お弁当つくらなきゃ」
私の朝は早い。
朝日がまだ見えないうちに起きて身支度を整えると、軽く朝食をとりながらお弁当をつくる。
おかずはほとんど昨日の夕飯の残りを再利用したもので、一からつくるのは玉子焼きくらいだ。
伯母さんは看護師なので夜勤明けで朝に帰ってくることが多いし、織子姉さんは料理をすると、ことごとく炭にするか鍋がお逝きになってしまうので、家では私が率先して家事をしている。
いつもなら料理好きな伯父さんがいろいろと教えてくれるのだが、今月は単身赴任中なのでいない。
三人分のお弁当とお味噌汁だけつくると、ソファの上に出していたダッフルコートを着て玄関を出た。
「えーっと」
なんだろう、これ。
いつものように人気のない下駄箱を通り抜け、誰とも擦れ違わずに廊下を渡るとがらんとした職員室に入った。
各教室の鍵は教頭先生の背後の壁にフックで引っかけられていて、空いたスペースでどこの教室が開いているかがわかるようになっている。
生徒なら誰でも持っていけるのだが。
(あ、このクラスはもう誰か来てるみたい)
朝早く来る人間はわりと限られてくる。
私のように日課になっているのだろう。
教室のドアを開けた私は息をのんだ。
「これは…」
窓も開けずに、それに駆け寄る。
黒板に描かれたものへと。
「見たことは、あるような…」
なにかの宗教画だろうか。
天使が飛び回っているような、そんな構図。
テレビで見たことがあるような気がするが、知識に乏しいのでわからない。
色とりどりのチョークで描かれたそれは、大変見ごたえがあるものだ。
最後に彼が描いた、地獄の門に匹敵するくらいの。
だけど。
どうしてだろう。
(あまり、心が惹かれない…)
美しいけれど、それだけだ。
消すのにためらいはするだろうが、それより消すのが大変だろうなと思ってしまった。
これ、もしかして。
確証はないけれど。
小さな呟きが口からこぼれる。
「高千穂くんが描いた絵じゃない…?」
「正解」
「!?」
驚いて、振り返るとそこには。
私が開け放ったままにしていたドアから、一人の生徒が入ってきた。
「玖珂くん」
クラス違うのに、なぜいるんだろう。
玖珂くんと私は、一年と二年とも同じクラスだった。
これといって親しい友人のいない私だが、玖珂くんとはよく話すほうだと思う。
私は放送部だったので、式典やなにかの大会でマイクをセッティングしたり、音を流していたりと裏方に従事していた。
玖珂くんは生徒会副会長をしていたので、打ち合わせでよく話していたのと、クラスが一緒だったので先生にまとめて用事を言いつけられることが多々あったのだ。
「おはよう、岩戸さん」
私の中で、玖珂くんのイメージは和風剣士である。
騎士ではないな、と思う。
洋風ではなく、和風。
つり目がちな涼やかな目元と、癖のない真っ黒な髪。痩せても太ってもいない、筋肉質な体躯。
姿勢がとてもよいからか、立っているだけで存在感があるというか威圧感がある。
眼鏡がとても似合いそうだけど、視力はいいらしい。少し残念だ。
にじみでる厳格そうな雰囲気と、冷え冷えとしたオーラ(クラスメイト談)で周りの先生も恐々としているらしい。
実際は、そんなもの出てやしないのだけれど。
「おはよう、玖珂くん」
話してみるとわかるが、玖珂くんは柔和な人だ。
気遣いも過剰なほどしてくれるし、なにか問題が起きれば誰よりも早く来てくれるし。
そういえば。
玖珂くんは高千穂くんの友人らしい。
どうやって知り合ったんだろう。
接点があまりにもない。
彼はいつも寝ているか描いているか。
人と交流していることはそうない。
彼は、眠りの王子様。
玖珂くんが和風なら洋風かな。
いつだって眠そうな瞳は間近で見て、まつげが長くてびっくりした。
髪の毛はふわふわ柔らかそう。寝癖なのか天然パーマなのかがわからないのは羨ましい。
立つとわかるが、背は高い。お兄さんはあんまり高くないんだけど遺伝だろうか。
体つきは見た目よりしっかりしている。がっしりまではないけど。
見目がいいのだ、彼は。
人目を引く彼は、人の目を気にしない。
漂う空気はのんびりとしていて、一緒にいると流されてしまいそうになる。思考の外側に。
ただ、中身はあまり王子様らしいとは言えないのだが。
あんなざっくばらん過ぎる王子様だと、お姫様が逃げ出してしまう。
玖珂くんと同じく、話してみないとわからないタイプである。
「よくわかったね、岩戸さん。それ描いたのあいつじゃないよ」
「え、じゃあ誰が」
当たっていた。
でも誰がこんなこと。
横に並んだ玖珂くんは、黒板を指で叩いた。
「あれの友達数人。元美術部員でさ、昨日どれだけ似せて描けるかやってたんだよ」
「はぁ…」
変人の周りには変わった人が集まるんだろうか。
「あいつに見せる予定だったみたいだけど、その前に施錠されたらしくってさ。見つかるとまたあの事件みたいになるかもしれないから俺が消しにきたんだけど」
「私が来るのが早かったのね」
真面目だな、玖珂くん。自分がしでかしたわけじゃないのに。
なんか中間管理職みたい。
「よくできてるとおもうけど。下手に見えた?」
「上手だよ、とっても。ただ」
黒板を前に、私は悩んだ。
なんと言おうか。
あまりにあやふやな感覚でもって断じてしまったので、理由が見つからない。
違うところ。
彼との絵の違い。
「高千穂くんは、白のチョークしか使わない?」
いや、使ってたっけ。
あれ、どうだったっけ。
本当に残念な頭だ、私。
いや、たしかに白のチョークだけで描いていた。
「あともっと柔らかいというか?」
なんだか墓穴掘っていませんか、私。
柔らかいってなんだ。
「こう、もっとフリーダムな感じというかなんというか」
自分でもなにを伝えたいかわからない。
ニュアンスを、どうかニュアンスを受け取ってほしい。
「…惹かれるものが、なかったというか」
最終的に、そこに行き着く。
描いた人達には悪いけど、彼が描いたわけじゃないとわかってさらにそう感じた。
彼の絵じゃないと惹かれない。
彼が描いたからこそ、惹かれたんだ。
あの時も。
今でさえ。
「あいつの絵が、好き?」
「もちろん!」
好きじゃなければ、惹かれなかった。
黒板にあれだけ執着しなかったろう。
彼が描いていたから、私はそれを楽しみにしていたんだ。
(あれ?)
彼が、描いていたと知らなかったら。
私は、どう感じていたのだろう。
「私は」
「二番煎じなんて生温いわよ!」
「!?」
玖珂くんが話しかけてきたときより驚いた。
半開きだったドアを勢いよく開ききり、小柄な姿が飛び出してくる。
腰よりも長い、二つにわかれたおさげ。目が見えないほどにレンズの分厚い眼鏡。
まるで昔の漫画から飛び出してきたような格好だ。
流行を全力で逆行しているため、周囲から確実に浮いて見える。
「朝早く出たと思ったら、なんか楽しそうなことになってるわね!」
「なんでいるんだよ…」
玖珂くんが頭を抱える。
なぜだろう。
あの人は。
「会長さん?」
元がつくが、生徒会会長だ。
かなり頭が切れる人らしく、学生スピーチやディベートなどで何度も全国に行っている校内でも有名な才媛だ。
どうして、そんな人がここに。
彼女は私にびしりと人差し指を向けた。
「そうよ、岩戸天鞠。三年七組出席番号十九、誕生日は敬老の日で好きな色はパステルカラー! 食べ物の好き嫌いは特になし!」
「!?」
なぜ知っているのだろう。
打ち合わせなどは玖珂くんがやっていたので、多忙な会長とこうして面と向かって会話するのは初のはずである。
「調べればわかるわよそれくらい。ホントはもっと調べようとしたんだけど」
「調べるだけでなんであんな騒ぎになるんだよ」
「追いかけてくるから悪いのよ」
なんの話だろうか。
会長は玖珂くんを鼻で笑うと、私の前に立った。
本当に小さいな。
あと眼鏡重そう。
「ええと」
思わず、顔が下に向く。
悪い癖だ。あわてて顔をあげようとしたら、会長の小さな手のひらが私の顔を両手で挟みこんだ。
「この間は茶々が入ったから言い逃げになったわね。あのねぇ、別に知らないのは悪いことじゃないのよ?」
「え…」
思わず、固まる。
私の心にわだかまっていた、言葉。
『あなたもしかしてなにも知らないの!?』
言い返せなかった。
私は何も知らなかったから。
彼のこと。
「無知は罪って言うけどね。それよりわたしは知らんぷりや、知ってる振りしてなーんもわかってない奴の方がよっぽど罪だと思うわ」
にやりと、会長は笑う。
私の顔は、いまどんな表情をしているのだろうか。
「知らないならいまから知ればいいじゃない。わからないなら聞けばいいじゃない。気になったなら調べなさいよ。勉強と一緒よ、努力しなきゃ身に付かないものだってあるわ」
努力。
そうか、私は。
彼を知る努力を怠ってきたんだ。
「私…」
泣いてしまいそうだ。
下に向きかけた私を、会長が止めた。
「顔を上げなさい。悪いことなんてなにもしていないんだから。あとわたしにあれだけ言い返せるなら、そこそこ根性あるって思っていいのよね?」
「はい」
はい。
はい?
つい返事をしてしまった。
言い返したことなんてあっただろうか。
言い返したら終わり。みたいなことになりそうなんですが、会長には。
「イイコト、思いついたわ」
その言葉に顔を上げると、そういえば横にいた玖珂くんが顔が固く強ばってらせて言った。
「なに考えてるか知らんが、やめろ」
「まぁ、これくらいの変更なら大丈夫よね」
どうも聞こえていないようで、会長は私の頬から手を引きながらぶつぶつ呟いた。
「あ、あの」
頭が、一気に入ってきた情報でパンクしそうになる。
私は、なにからはじめなければいけないんだろう。
くるくる、その場を回っていた会長がピタリと止まった。
ひらりと、スカートがはためく。
「特等席、用意してあげるわ!」
「開式の辞、起立!」
パイプイスが軋む音がする。
来賓か保護者が立ち上がったのだろう。
人数が多いので、生徒はいつも教室で使っているイスを各々並べている。
吹奏楽部の演奏と共に、卒業生が入場してきた。
一クラスずつ男女で二列を成して入場する。
人数が多いので、立っている在校生はきついだろう。
全員が席に着き、再度立ち上がって礼をする。
「卒業証書授与」
端に座っていたクラス分、数人が立ち上がる。
この学校では、ひとりひとりに手渡しはしない。
数年までは校長の希望もあってやっていたそうだが、時間がかかりすぎて保護者から苦情がきたそうだ。
(ずいぶんと扱いが軽くなったな)
卒業証書授与式なのだから、そこに時間がかかるのは仕方がないだろうに。
その後は、練習よりも倍以上に長い校長式辞が続く。
ようやく終われば、来賓紹介とよくは知らない議員からの祝電祝詞披露。
そして、ようやくここで在校生送辞。
送辞を贈るのは現生徒会長の男子生徒だ。
練習通り、堂々としたものだった。
(すごいなぁ…)
卒業生答辞は小柄な元生徒会長。
手元の紙などに目線は下げない。一度も言いよどむことなく礼を返した。
大きな拍手と共に、壁際の席に帰ってきた会長は私を見て小声で言った。
「さ、いってきなさいな」
「………」
口の端、あがってますよ会長。
私はパイプイスから立ち上がると、足が震えそうになりながら壇上に上がった。
マイクのセッティングをしたことはあっても、ここに立つことになるなんて思わなかった。
どうして、こんなことに。
オンになったままのマイクに、ノイズが混じらないようにして、言う。
「卒業記念品授与、しばらくお待ちください」
私の声で卒業生が立ち上がり、練習と同じように真ん中にスペースが作られていく。
本来なら、私もあの中にいたのだが。
『わたしがやるはずだったけど。まぁさして難しくもないから大丈夫ね。言質はとったわよ』
『え、ええ、えええ!?』
あれよあれよと、止める玖珂くんと教師陣を会長が丸め込んで、私はいまこんな場所にいる。
昨日の今日で、頭の中はもうパンクしてしまいそう。
渡された紙に書かれた言葉は少なかったが、緊張で真っ白になりかけた。
実は、いまだに私はなにが起きるか知らされていない。
教えられたのは、最初と最後に言う言葉だけだ。
床に敷き詰められるのは、長く大きな黒いフェルト地ようなもの。
練習だとここまでだったのだが。
数人が、奥から幅広い巻かれた紙を運んでくると、端に重りを乗せると広げていく。
それは。
(漢字、だ)
大量の漢字。
正方形の紙に、円を描くようにしてありとあらゆる漢字が書きこんである。
そして、中央に不自然にある何も書かれていない空間。
(こんな、使い方をしたんだ)
集められた漢字一文字。
組み合わされて、熟語のように書かれているものもある。
ざわつく人波の向こうから、一人の男子生徒がなにかを持って紙の前に立った。
無造作に道具を横に置くと、膝をついて顔を上げた。
その時、凝視していた私と視線が重なった。
彼だ。
この一週間校内を探しても見つけることができず、用事もないのに家に行くのもはばかられて会うこともできなかった彼だ。
ようやく、会えた。
そらせずにいる私に、驚いたのか少し目を丸くした彼は。
私に向かって、微笑んだ。
時間が止まったような感覚。
あの笑顔を、私は前にも見なかっただろうか。
見惚れてしまわなかっただろうか。
彼の描く絵よりも、惹かれなかっただろうか。
もっと見てみたいと、思わなかっただろうか。
(そうか、私は)
彼が描く絵が好きなのは、きっと。
彼の絵だから、好きなんだ。
彼が描いたから、好きなんだ。
それは、ようするに。
(私は、高千穂くんが好きなんだ)
固まっている私を見て首をかしげながら、彼は大きな筆を取り出すとたっぷりと墨の入った硯に浸した。
ざわめき立つ観衆の中、彼は一息に漢字一文字を書いた。
空けられたスペースに、埋まるための漢字を。
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