第82話 呪
――時刻はとうに正午を過ぎているはずにも関わらず、中央広場の鐘楼は無音だった。
この町に来てからそんなに月日が経っていないソフィアであっても、その光景は異様に感じられた。無意識に両手で己の腕を擦ると、傍らに立つシンが
「ソフィア、大丈夫?」
「何が」
「顔色が悪いから」
「地顔よ」
「もう、そんなわけないでしょ」
そっけなく答えるソフィアに、シンは困った様に苦笑した。その表情が、何だか困った子供を見る様なものに感じられて、ソフィアはむっとして言い返そうと口を開いた。だが、その前に別の場所から声が上がった。
「シンさん、ソフィアさん」
「シンさん、ども! ……っと、何だ、ソフィアも来てたのかよ」
鋼を鍛えて紅色に着色した特注の鎧を着用したネアと、
「あれ、シュウカちゃんも戦ってくれるの?」
「ああ。今は私もこの町の冒険者だ。それに、この町の人々には恩義もある。今戦わずして何とする」
「そっかぁ、ありがとう」
無邪気にシュウカに向かって嬉しそうに破顔するシンを見て、ネアは「相変わらずですわねぇ」とやや呆れ気味に呟いて苦笑した。それからすぐに表情を引き締めると、この場にいる面々を順に見てから口を開いた。
「一応、この辺りに集まっている冒険者の束ね役はわたくしになりました。よろしくお願いしますわね」
彼女の言葉に、皆は一様に頷きを返した。それを確認してからネアは話しを続けた。
「さて、わたくし達の担当は西側の守備になります。攻撃は自警団のギルバート・タウンゼント団長が先陣を切り
「ん? ワーゼン?」
シンから小さく漏れた声に、ネアは説明を中断して彼の方へ顔を向け、「何か?」と問う。話の腰を折った事を彼女に詫びつつ、シンは疑問を口にした。
「ワーゼンへ……“救援”って、どういう事?」
「あら、シンさんはまだご存知なかったんですのね。今朝に掛けて西門で
「あ、うん」
ご存知も何も、そこで大立ち回りをしていた内の1人なのだが、説明するのが面倒だったのかシンは素直に頷いて先を促した。
「
「マジか?!」
思わず、といった
「皆さんご存知の通り、ワーゼンは芸術の国――つまり、武力を殆ど持たない国です。城を守る騎士が何とか門を守り食い止めているそうですが、そう長くは持たないでしょう」
ネアの説明を聞きながら、ソフィアは昨夜の事を思い返していた。――西門の守護騎士と言い争っていた男性は“ワーゼンのオルソン”と名乗っていた。
(“ワーゼン”って国の名前だったのね)
「
ぽつり、と低く呟く。その、彼の普段とは異なる声音に、ソフィアは思わず彼の顔を見た。――そして、言葉を失った。常であれば柔和な微笑みを湛えているその横顔は固く強張り、眉間には深い皺が寄っていたのだ。彼はソフィアの視線に気づく様子も無く、独り言の様に続けた。
「……似てる」
「? 何がです?」
シンの言葉に、訝し気にネアが首を傾げた。その問いが聞こえているのかどうかは分からないが、彼は眉間に皺を寄せたまま口元に拳を充て、考え込んだ。
「
「ガラコ……? 何です?」
「いや、もう十分ピンチなんじゃねーの? ……この状況って」
テイルラットで生を受けたネアとシアンは、シンの言わんとすることが分からずにそれぞれ疑問を
一方、ヴルズィア生まれでありながら外の世界を知らずに育ったソフィアではあるが、“
(
思案するソフィアに気付く事無く、シンは固い表情のまま口元に片手を当てて更に眉を
「
「何ですって?」
「え? ちょ、ちょい待ってくれシンさん!
どんどん話を進めるシンに、ネアとシアンは目を白黒とさせているが、ソフィアは“グラエラ”という町の名に覚えがあった。彼女が元いた世界ヴルズィアの西、商業都市エランダ――その北にある港町だ。実際に行った事はないが
そこで、ソフィアは愕然とした。
(――
「最初に……
「ああ、昨日の昼間、南門のすぐ外でシンさんが襲われてさ。まぁ、俺を含む冒険者一同で追い払ったけどな!」
ソフィアの問いに対し、シアンが答えた。――彼に悪気は無かったのだが、"シンが襲われた"事に驚いたソフィアは表情を
「南門の近くでミアちゃんが襲われたって聞いて、……調べてみようと思って。それに、南の森にはキャロルさん達が住む家もあるから、出来たらソフィアの事をアレクに診てもらえたらって思って。その為には、まず今も
言い訳がましいシンの言葉に、今度はネアが目を三角にした。
「ちょっとシンさん? “ソフィアさんの事を診てもらう”って、何かありましたの?」
「え、何すかそれ! 聞いてないけど?!」
虎の威を借る何とやら、ではないにせよ、シアンも便乗して口を尖らせる。2人に詰め寄られ、シンはたじたじと後ずさりながらも「あはは」と笑ながら受け流そうとした。その様子に、更にネアは目を釣り上げた。
「笑って誤魔化さないで下さいます?」
「うーん、いや、でも、もう大丈夫だから。ね? ソフィア」
「あたしは元から何ともないわよ」
助けを求める様なシンの目に、取り付く島もない返答をして顔を背けると、ソフィアはそのままネアの方を向いた。
「……それで、話しを戻すけど。自警団の団長の人が突破した後、どうするつもりだったの?」
「あら、わたくしとした事が、話しが大分脱線していましたわね。失礼しました。ええ、ギルさん率いる自警団の精鋭が西門の
「待機……って」
「もちろん、
しかし、その途中で唐突に鐘楼の鐘が鳴った。
――刻限を告げる時の様なのんびりとした音色ではなく、鋭くけたたましいものだ。
「うわっ!?」
あまりの音にシアンがぎょっとして短い驚きの声を上げる。ソフィアも動揺を隠せないままきょろきょろと辺りを見回した――が、その直後、誰かに強い力で腕を掴まれた。危うく悲鳴を上げかけたが、その相手が固い表情をしたシンと気付いてソフィアは声を飲み込んだ。
シンに腕を掴まれ動けないソフィアの近くで、シアンが未だにきょろきょろと辺りを見回している。
「え? え? なん――」
「シアンさん! シュウカさん! 武器を!!」
言われた言葉の意味に頭が追い付かず、ポカンと立ち
――そこから更にワンテンポ遅れてシアンも腰の細剣を抜き放ち、
「シンさん、これってもしかして」
「“警鐘”だ……」
「へ?」
シンの言葉に、目を見開いてシアンは
「
「――!!」
一瞬目を
「シン! あたし達も行かないと!」
「僕は行くけど、ソフィアは残って」
「はぁ?! さっきと話しが違うじゃない!」
「そうだよ」
短く返された固い言葉に、ソフィアの肩が跳ねる。反射的に見上げたシンの顔は苦悶の表情を浮かべていた。
「周りを見て」
その言葉に、ソフィアはハッとして辺りを見回す。――
「
いつになく、ソフィアの腕を握りしめるシンの手に力が込められ、その痛みに彼女は困惑して言葉を失った。それに気付く様子もなく、シンは
「――町中に出た冒険者達は、
ぐぐ、とシンの指に力がこもる。
「……危険なんだ。――ソフィアを、危ない目に
押し殺したように発せられた、熱のこもったその言葉の語尾が僅かに震えている様に聞こえて、ソフィアは何も言えずに
彼女が黙ったままでいる事を承諾と取ったのか、シンは彼女の細い腕を握る手をゆっくりと
「ここで待ってて」
「でも、」
「何があっても君は僕が守るから」
「そういう、ことじゃな……」
「何をしておるんじゃ! シン!!」
ソフィアの言葉を
「ぐだぐだしている場合じゃなかろう!」
「うん、分かってる。……じゃあソフィア、ここで待っててね」
2人の様子に気付いたシェラは片眉を上げて彼らを交互に見た。
「……何じゃ、この小娘は行かないのか」
「ソフィアはまだ
「まぁそうじゃな。足手纏いになるじゃろうな。――ならば、何故おぬしはここに
「そういう訳じゃないけど、僕らと違ってソフィアは修羅場には慣れていないから」
「そんなもの、
鼻を鳴らしてシェラはソフィアの方を見た。
「緊急事態で不安だからと言ってシンに甘えるでないぞ小娘」
「甘えてなんかない。……ただ、あたし達も行かないと、って……」
「なるほどな、
ソフィアの反論は彼女の心情を悪化させただけの様だった。はぁあ、と大きくため息を吐くと、シェラは
「おぬしが行くと言って、シンがはいそうですか、と頷くと思うか? この状況で? 暗に引き留めている様なものではないか!」
断言をされてソフィアの心は揺らいだ。
(そういうつもりじゃなかったのに……シンはそう思ったの?)
僅かに視線を泳がせた後、ソフィアは横目でシンを見た。――彼は何とも言えない顔をしてソフィアとシェラを見ている。その姿に、ソフィアの胸は鈍く
(……困らせて、いる……)
くらり、と
どうしていいか分からないが、とにかくシンを引き留める素振りを見せてはならないと感じ、ソフィアは彼に声を掛けた。
「シン、あたしに気にしないで良いから、早く町に――」
「じゃから! その言い方! 「気にして」って言ってるようなものではないか。全く、とんだ
「え」
「ちゃんと相手の事を考えて、引くべき時には引く、そして相手の事を思い遣る! まぁ、ミアと違っておぬしに全部は出来ないじゃろうが、最低限、他人の迷惑になる事はやめてくれ」
「めいわくって……」
次の言葉が出て来ず唇を噛んで俯くと、困ったようなシンの声が頭上から降って来た。
「ソフィア、お願いだからここにいて。――すぐに戻るから」
じくり、と再び心が
顔を上げられずにいると、「放っておけ! 行くぞ!」と吐き捨てる様なシェラの声と共に、2人の気配が離れていくのが感じられた。
残されたソフィアは、少し時間が経ってから、シンに強く握り締められた腕を手で擦った。
――そこにはもう、痛みも熱も残ってはいなかった。
* * * * * * * * * * * * * * *
「うそ、どうしてこんな――」
「おとーさん、怖いよぅ」
「どこか安全な所に……誰か、誰か助けて……」
そこかしこから恐怖に
「おい、アンタ俺達家族を守ってくれ!」
「いや、俺は……」
「冒険者だろ?! 金を払う。雇うから!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「ねぇ、さっきの鐘は何? 何でさっき武器を持った人たちが広場を出て行ったのよ……ねぇ!」
「奥様方、落ち着いて……」
「貴方、自警団なんでしょ?! どうにかしてよ!!」
ほうぼうで押し問答の声が上がる。
少し前までは平和そのもので、中央広場には
考えれば考える程、悪い方向にしか思考が働かず、ソフィアは重い息の塊を吐き出した。
(シン達がここを出てから――鐘楼の鐘が鳴ってから、もう大分経ったわ。多分、あと1時間もすれば日が暮れるんじゃないかしら……なのに、まだ誰も戻って来てないみたい。それに、状況の説明も無いから、色んな憶測が飛び交ってる)
冒険者達が
そんな息苦しい空気の中、明るい声が耳を打った。
「ソフィア!」
ハッとして振り返ると、やわらかな栗毛をざっくりと三つ編みにして横に流したアレクと、彼女を気遣う様に寄り添うキャロルが、人々の間を縫って歩いて来た。ソフィアから無意識に安堵の声が漏れる。
「アレク」
「おっす! どうなってる?」
「何が」
「ちょっと前に鳴ったのって、ここの鐘楼の鐘だろ? 町に緊急事態が発生した時に鳴らされるっていう」
「……ええ」
どことなく強張った表情で目を伏せるソフィアに、アレクとキャロルは無言で視線を合わせた。それに気付かず、ソフィアは少し思案してから2人に簡単に現在に至った経緯を説明した。
「シン……達、
「そっか、えらい急展開だな」
「キャロル、ルーフォスはどんな?」
「今、西区の大橋付近の上空です。……自警団の団長殿を中心に奮戦中の様ですね」
「シン達はいる?」
「いえ、見当たらない様です」
「んじゃ、別の道か、――南門辺りかもしれないな。よし、私もちょっくら」
腕まくりをしつつ戦いに参入する気満々のアレクに、キャロルが微笑んで「サンディ」と低い声で名を呼んだ。――微笑んではいるが、彼の目は笑っていない。
「――中央広場へと続く道を残っている冒険者、自警団、その他戦える者で塞ぎ、警備する必要があります。広場にまで流れ込まれては、手が付けられなくなりますからね」
「確かに。……よし、ソフィア。お前は南門に繋がる道を頼む! 私は西門の方、キャロルは他の連中に知らせて――」
「私が西の道を見張ります。サンディが他の皆さんに説明を」
反論を許さない強い口調でキャロルに言われ、アレクは渋々頷いた。その反応に僅かに苦笑してから、彼は彼女の栗毛をひと房手に取り口づけた。
「貴女には
「ちぇっ こんな時ばっか上手い事言って……分かったよ。でも、終わったら私もお前んトコ行くからな!」
言うや否や、アレクはふわりと身軽に
その場に残ったキャロルとソフィアは、しばし彼女の様子を見守っていたが、しばらくするとどちらともなく顔を合わせ、頷き合うと己の為すべき事をするべく動き始めた。
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