第80話 夜明け前
「何だよそれ……違うだろ」
しんと静まった空気を、凛としたソプラノが打ち破った。
言葉に詰まって視線を地面に落としたままだったソフィアは、ハッとして声の方へ目を向けた。そこには、シェラやミアの方へ向き、両手を腰に当てて仁王立ちするアレクの姿があった。その整った横顔にはハッキリと怒りの色が浮かんでいる。その感情を向けられた2人は、彼女が言わんとすることが分からずに困惑して顔を見合わせている。
張り詰めた空気の中、アレクが次に口を開く前に、先にソフィアが口を開いた。
「分かったわ。……シンが戻るまで、ここにいる」
「おい、ソフィア!」
むっとした様に振り返るアレクを目で制して、ソフィアはミアとシェラへ顔を向けた。
「ただ、孤児院の中には入らない。……建物の裏手に
「何じゃと? ……それはまるで、私たちがおぬしを締め出した様ではないか」
言外に“悪者に仕立て上げる気か”と言わんばかりに
「いいえ。……あたし、他人が大勢いる場所では休めないのよ」
そのままアレクへチラリと目を向けると、彼女は苦虫を噛み潰した様な表情でガシガシと頭を掻いた。
「それについては私も知ってるし、嘘じゃない。
彼女の言葉は
「駄目だよそんなの」
「危ないよ」
「すごく暗いし」
このままでは自分たちが一緒にいると言い出しかねない子どもたちに、アレクがニヤリと笑って見せた。
「ソフィアには私が付き添う」
しかし、それでも子供たちは不満げだ。その表情を見て、アレクはわざとらしく小さく咳ばらいをすると胸を反らして仰々しく言葉を重ねた。
「いいか? 私はな……何と! シンから、留守の間ソフィアを守る事を任されるくらい、ものすごーく強い冒険者なんだぞ! 私が強いのは知ってるだろう? レックス」
「あ、ああ……シン
「な!」
頷くレックスと満面に笑みを見せるアレクを交互に見たセアラとオースは、納得した様に
孤児院の裏手にある
後からついて来たアレクが僅かに眉を顰めて口を開くが、少し迷ってから何も言わずにソフィアの隣へ少し間を空けた場所に立ち、背中を木肌に寄り掛からせた。
孤児院の窓から漏れる灯りのみで照らされた裏庭は、建物周辺だけが温かくぼんやりとした光があるだけだ。
春に近いだけあって、肌に触れる空気の温度は少し肌寒い程度ではあるが、ふとソフィアは大切な事を思い出した。
「アレク」
視線を動かさず、ソフィアは小さく背後にいるであろう者の名を呼ぶ。答えた声は大分眠そうなものだった。
「んー? なんだよー」
「あなたは中で休んだ方が良い」
「……ソフィアは入らないんだろ?」
「……」
「なら、私も入らない」
「アレク」
「いや、ここは折れないぞ。大体なぁ、私がどんだけ冒険者生活長かったと思うんだよ。現役時代なんか、ほぼ野宿なんだぞ。むしろ、ここは地面は柔らかいし木陰だし、
「……アレク、」
木に寄り掛かったまま頭の後ろで手を組んで目を閉じ、動いてなるものか、と言葉を重ねるアレクに、静かな声が重なる。その真剣な声音に、アレクは内心でほんの僅かに驚いて瞼を上げた。少し離れた場所に立つソフィアはいつの間にかアレクの方へ身体ごと向いて立っていた。
「夜が明けるまで、きっとあと数時間よ。ずっと立ったままじゃ身体に良くない」
「なら、ここで横になるよ」
事も無げに言うと、アレクはすとんと腰を下ろすとそのまま横になろうと地面に手を置いた。
「そうじゃなくて、身体を冷やすのは良くないって……」
言いかけて、ソフィアは何かに気付き言葉を切った。その緊張を帯びた表情にアレクは
「どした?」
「……音が、」
言いながら、ソフィアは町の方へ向き直り、両耳に手を添えて聞き耳を立てる。――間違いなく、遠い場所で途切れ途切れに耳慣れない何かの音がする。しかし、ソフィアの耳では上手く聞き取れなかった。
「――駄目。よく聞こえない……でも、こんな夜中に聞こえる様な音じゃないと思う」
「どっちだ?」
いつの間にかソフィアの傍らへやって来たアレクが声を掛けてくる。少し躊躇った後、ソフィアは南の方角を指した。それに頷いて応えると、アレクはそっと精霊へ呼びかけの言葉を紡いだ。
「“精霊よ、彼の地へ赴き、風に乗せてその
辺りは無風にも関わらず、ふわりとアレクの髪やスカートが柔らかな風に
「――
「え」
「南門が破られている! エルテナ神殿の神官と、多分、南区に残ってた冒険者が応戦中だ」
「――!!」
“エルテナ神殿の神官”
その言葉に、ソフィアの身体が凍り付いた。脳裏に
「ちょっ おい待て、ソフィア!!」
慌てて止める声が背後で聞こえたが、すぐに小さくなった。
* * * * * * * * * * * * * * *
夜目が利かない為、真っ暗な道を転がる様に
孤児院は南区の路地を入った場所にある為、間もなくエルテナ神殿へとつながる大通りが見え――すぐに大勢の人垣が目に飛び込んできた。その中に、見知った修道服姿の女性を見つけてソフィアは叫んだ。
「アトリ!」
「えっ あっ ソフィアさん?!」
彼女は振り返ると、吃驚した様に小さな瞳を真ん丸にして声を上げた。ソフィアはそのまま彼女の元へ駆け寄り、素早く彼女の姿を
「ソフィアさん、ここは危険です。
「っあたしは冒険者の端くれで、あなたは違うんだから、避難するのはあなたの方でしょ」
息を整えながら顔を顰めて言い返すと、アトリは少し迷ってから口を開いた。
「……私は
「でも」
尚も食い下がるソフィアの言葉を、別の声が遮った。
「アトリ!」
長い黒髪を頭上に束ねた、褐色の肌をした女性だ。その女性は2人に駆け寄るとソフィアに目を留めて「あら?
「だんだん前線が下がってきてるから神官のラインも後退して。それと、怪我人が出たわ。薬草の手当てじゃ無理。悪いけどお願い」
「はい!」
アトリが大きく頷くと女性は頷き返し、喧騒のする方へ駆け出した。それを追おうとし、しかし足を止めるとアトリは振り返ってソフィアを見つめた。――灰紫色の瞳が心配そうに揺れている。
「ソフィアさんは
「でも、あたし……っ」
「町の人に戸外へ出ない様、人手を
彼女にしてはやや強引に会話を終わらせて、そのままアトリは先ほどの女性の後を追って駆けて行った。
今は日が昇る前だ。確かにこのまま朝を迎え町の人々が目覚めて、何も知らずに家の外へ出たら――答えはおのずと知れる。このままアトリを追って
自身の無力さにぐっと歯を食いしばり、ソフィアは踵を返――そうとした。
「ソーフィーアぁ~~」
「?!」
ごつん! と頭上にげんこつが降って来た。反射的にげんこつを食らった場所を両手で押さえ驚いて振り返ると、鬼のような形相をしたアレクが仁王立ちしていた。
「こんのバカ! 何一人で突っ走ってんだ! あぶねーだろ!!」
「う……」
言葉に詰まり視線を落とすソフィアを見て、彼女は少しだけ呆れた様に、だが困った様に柔らかく微笑んだ。
「んで? クナートの人達に外に出ない様に知らせるんだって?」
「え、どうしてそれを」
「耳は良いんだよ」
言いながらアレクは己の片耳を指でつまんでウィンクした。そのタイミングで、ふわりと彼女の耳元の髪が風も無いのに揺れる。――恐らく、まだ先ほどの精霊の力が持続しているのだろう。
「
つまり、窓を閉め切った無風の屋内ではその恩恵に預かれないという事だ。
「やっぱ人力に頼るしかなさそうだ。となると、冒険者の店に行くのが一番だな」
「近くに
「よし、ならそこへ行くぞ! 案内よろしく!」
「待って、孤児院にも知らせなきゃ」
「確かに。……西門に
つまり、エルシオン院長も、ミアやシェラも、この夜、町で何が起こっているのか把握していない。そして孤児院はここからやや離れてはいるが、同じ南区に建つ。少し考えてから、アレクは苦い顔をした。
「私が知らせに走った方が良いか。――でもソフィア、いいか? くれぐれもおかしな真似するなよ?」
「おかしな真似って……」
ジト目で反論しようとするソフィアを手で制して、アレクはずずいっと顔を寄せた。
「いーか?! お前が
西門でアレクへ向かう
「むしろ、怪我なんかした日には、シンが暴走して誰も止められなくなるんだからな絶対」
「……? シンについてはさすがに暴走はしないと思うけど、
いやするだろ暴走! と突っ込むアレクを
「人手を
その言葉にアレクは少し思案してから「分かった」と頷くと、ひらりと踵を返して来た道を駆け戻って行った。少しの間見送ったソフィアも、すぐに
走っているとすぐに“剣と鳥”をモチーフにした、
冒険者の店の酒場は基本的に24時間営業の為、1階部分の窓は
「ん? お前……」
出入口に立つローブ姿に長髪の
「おい! 待ってくれよルーヴェ! ――あ! えっ? ソ、ソフィア?!」
店の中から先ほどの男を追って来ようとした背の高い赤髪の男が、ソフィアに目を留めて顔を赤らめた。しかし、ソフィアの方は生憎見覚えのない男だ。訝し気に見上げると、更に彼は
「どうしたんだ、こんな夜更けに……っ 危ないから中に入ってた方が良いぜ! じ、じゃあ!」
だとしたら、既にこの店の冒険者は出払っているかもしれない。その可能性に気付いてソフィアは顔を強張らせた。――ここが駄目なら、他の冒険者の店へ、――例えば、少し西寄りにはなるが、
「ソフィアじゃないか! どうした」
「!」
思案していると、唐突に店内から声が掛かった。豊かな黒いアフロの頭髪と無精ひげ、夜にも関わらず黒い色のついたガラスを使った眼鏡を掛けている謎の風貌の男性――
「ああ、知らせは入ってる。今、店に泊まってたルーヴェとディックを応援に向かわせた。あと、店の連中は町の人間に外に出ない様に知らせに回らせてる」
「!」
既に動いている事を知ったソフィアは瞠目し、それから気が抜けてふらりとよろめいた。ぎょっとした店長がこちらへやって来る。
「おっ おい! 大丈夫か?」
「え、ええ……問題ない。……ここの店の人達だけで足りるの?」
「先に他の冒険者の店にも連絡を取った。――けどな、どうも西区でも何かあったらしくてな……西寄りの店の連中は出払っていた」
「え」
(まだ西区での戦いが続いているの?)
キャロルの魔法で強制転移される直前に見た、深緑色の外套の背中が脳裏を
「それに昼間もな、南区で珍しい
「昼間?」
「ああ。居合わせた冒険者達で応戦して事なきを得たんだがな」
「……」
昼間に町の近くに
「ソフィアは南区で応戦中の誰かから伝令を頼まれたのか?」
「あ、ええ……アトリに、町の人々に避難を
「なるほど、アトリか」
そう言うアフロ店長の表情は柔らかかった。
「まさか、こっちがもう動いてるのを知っててあの人――」
「知ってたのかどうかは知らんが、いずれにせよお前さんを安全な場所に避難させようと考えたのかもしれんな」
「……」
「ま、この店は俺が残ってるから、お前さんは入って――」
「いえ、でも……あたしだけのうのうとしてる訳には」
「しかし、行っても仕方ないだろう? ここに残ってもらえりゃ、場合によってはまた伝令に出てもらうかもしれない訳だし、俺としても助かるんだがな」
「……」
反論に詰まって黙るソフィアの顔を覗き込んで、アフロ店長はニヤリと笑った。
「なぁに、もうすぐ夜が明ける。そしたら
「そうなの?」
「多分な。
「じゃあ、何故今回は町に来ているの?」
「それは分からんが……明るくなったら人間が大勢住む場所からは引くのが
言いながら彼はソフィアを店の中へ
「それに、見た所お前さん顔色最悪だぞ。店の中で座って少しは休め」
がらんとした酒場内の椅子を指し示し、店長はカウンターへ入って鼻歌を歌いつつ何やら手を動かし始めた。その様子をぼんやりと眺めてから、ソフィアは躊躇いがちに椅子に腰を下ろした。――座った瞬間、どっと疲れが押し寄せてくる。机に突っ伏しそうになるのを何とか堪えつつ、ソフィアは考えを巡らせた。
(レグルスと話をしてから……どのくらい時間が経ったのかしら。多分……倒れる瞬間に聞こえた、あたしを呼ぶ声は――シンよね。それで、そこから……あたしがなかなか目覚めないから、一人放っておくわけにもいかずに、孤児院に頼んだ……ってところなのかしら)
椅子の背もたれに寄り掛かったらそのまま泥の様に眠ってしまいそうな気がして、ソフィアは背筋をピンと伸ばしたまま両手を膝の上に重ねた。その手に視線を落とし、ソフィアは次に夢で見た事を順に思い起こした。夢にしては鮮明過ぎるそれは、目を閉じればすぐに映像として再生出来そうなほど
(……
――“
ありありと思い起こす事が出来る、悲嘆にくれる声。“
(……あたしは……死な、ない?)
そう考えてから、そんな馬鹿なことは無い、と
(でも、そうだとしたら、“
「おいソフィア、俺は休めっつったんだけどな……滅茶苦茶深刻な顔で考え込んでるじゃないか」
ハッと顔を上げると、アフロ店長が傍らに立っており、苦笑してソフィアの前に温かい湯気の立つミルクを置いた。
「疲れてる時に考え事しても、良い事無いぜ。こいつは伝令の礼だから代金不要だ。これ飲んで次の仕事があるまでちゃんと休め」
「……」
黙ってミルクの水面に視線を落とすソフィアに、店長は穏やかな声で「休むのも仕事の内だぜ?」と続けた。確かに、いざとなった時に疲労で動けない、反応が遅れた、等といった事があっては、孤児院に伝令に走ってくれたアレクにも申し訳が立たない。
「……分かったわ」
「栄養も補給する」
「……ええ」
「俺はカウンターにいるからな」
遠回しに“休むところは見ないから安心しろ”といったところだろうか。そういうと彼は言葉通りスタスタと元いた場所に戻り、洗った食器を布巾で拭き始めた。
この店にはまだ戦いの音は聞こえない。静かな店内で、アフロ店長の仕事の僅かな音だけがたまに耳を打つ。
温かいミルクにはほんの少し甘さと、独特な香りが加えられていた。少しずつ飲むと空っぽの胃袋からじんわりと熱が巡り、半分ほど飲んだ所でソフィアの意識はゆっくりとおぼろげになって行った。
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