第73話 騎士
早朝に孤児院にソフィアを連れて戻ったシンは、真っ直ぐに院長の部屋に向かった。ソフィアが眠ったまま目を覚まさない事、調べ物がある為、どうしても今日は出掛けなくてはならない事を説明し、孤児院に一時的に住まわせて欲しい旨を伝えて頭を下げた。話しを聞いた彼は二つ返事で了承し、すぐにシンが元住み込みで使っていた部屋を自由にしていいと言ってくれた。
「ありがとう、院長……ごめん、勝手な事ばかり言って」
申し訳なさでいっぱいになり、シンはソフィアを抱きかかえたまま深々と院長に頭を下げた。しかし、彼は「水臭ぇよ!」と笑い飛ばして手を振って頭を上げる様に促した。
「俺とお前の仲じゃねぇか! それに、そもそも俺ぁ前にも連れて来て良いって言ったはずだぜ?」
「うん……そうだったね。けど、あの時僕は断ったのに、事情が変わったからって、」
「ははっ 事情が変わったんなら、尚更“前に断った”事なんか関係ねぇだろうが」
苦笑いをしつつ、院長は執務机から立ち上がってシンの前まで歩み寄った。
「気にすんな! ……で?」
「ん?」
急に声のトーンを落としてこそこそと尋ねる院長に、シンは目を丸くして首を傾げた。その反応に、もどかしそうに院長は小声で早口にまくしたてた。
「もしや、この子がシンの
「
「へぇえ!」
興味深そうに院長はシンの抱きかかえるソフィアの顔を見ようと覗き込む。……というのも、シンによる防寒対策できっちりとソフィアには首回りから頭に掛けてストールが巻かれており、零れた美しい銀の髪以外、顔は殆ど見えない状態だったのだ。
エルシオン院長が見ようとしているのに気づきながらも、シンはストールを外して彼にソフィアの顔を見せようとはしなかった。彼の事を信頼しているとはいえ、それでもシンはソフィアを他人……否、
結局あまり見えなかった院長は、少し残念そうに身を引いてから、シンの抱える全体像を見て感想を述べた。
「……ちっさいな」
「そうだね。多分、成人している人の中では小柄なんだと思う」
実際は“小柄”という言葉で収まる程のものではないのだが、敢えてシンはそう口にした。言いながら、腕の中の彼女に目を落とすが、彼女の瞼はやはりピクリとも動かない。僅かに眉を寄せて、シンは小さく息を吐いた。
そんな、今まで見た事もないシンの様子に、エルシオン院長は驚いて思わず零した。
「べた惚れだな」
その言葉に、きょとんとした顔でシンは院長の顔を見た。「自覚がねぇのか」と苦笑して口の中で呟いてから、彼はシンに部屋の鍵を渡した。
「あの部屋、ベッドは1つしかねぇけど、シンはどうするんだ?」
「ああ、1つで大丈夫。一緒に寝るから」
「ほぁ!?」
平然と爆弾発言をしたシンに、院長は奇声で答えた。
「い、いや、お前ぇ……その、もう、そういうアレなのか……?」
「? アレ?」
「つまりアレだ。……もう夜は、いつも一緒に寝てんのか?」
「そうだよ」
「まじか?!」
――エルシオン院長とシンの認識は異なるのだが、やはり修正する者はこの場にはおらず、院長は誤解したまま目を皿の様にしてシンと彼の抱く彼女を交互に見て「へぇ」だの「ほほー」だの意味の無い感嘆詞を繰り返した。それから、小さく咳ばらいをするとわざとらしく真面目な表情で頷いた。
「ま、まぁ、分かった。なら問題ないか」
「? うん、ありがとう」
「で、うちのスタッフには周知しといて問題ないか?」
ここの孤児院のスタッフは、手が空いた者が空き部屋も掃除する為、知らせていない事でシンがいない時に鍵開けて入る可能性がある。その事に気付き、シンは少し考えてから諾とした。
「でも、出来れば、僕がいない間はあまり人を近づけないでもらっても良いかな」
「おう、そりゃ構わねぇけど、何故だ? お前ぇはアレコレ調べ物で留守にするんだろ? いない間、誰か世話した方が良いんじゃねぇのか?」
「うん、そうなんだけど……少し事情があってね」
「そうか、分かった」
深追いをせずに承諾してくれる院長の懐の深さに内心で感謝しつつ、シンは言葉を続けた。
「あと、もし万が一、僕がいない間に“彼女の知り合い”って名乗る人が尋ねて来ても、部屋には絶対通さないで欲しいんだ」
「そりゃまぁ、構わないが……そんなヤツいるのか?」
「んー……そういう人が来るかどうかは分からないけど、念のため」
脳裏に金の髪の
院長の部屋から退出し、シンは住み込みで働いていた際に使用していた部屋へまっすぐに向かった。早朝という事もあってか、今のところ誰とも鉢合わせしていない。部屋の鍵を開け、すぐにドアと鍵を閉めると、シンはベッドにソフィアをそっと寝かせた。相変わらずピクリとも動かない彼女の頬を優しく指でなぞるが、その柔らかな感触とは反対に、瞼は固く閉じられたままだ。ともすればずっと頬に触れ続けかねない。意識してぐっとこらえてシンは彼女の頬から手を離し、屈んで眠る彼女に顔を寄せた。
「ソフィア……待ってて」
万感の思いを込めて囁き彼女の額をそっと唇を落とすと、シンは彼女から離れ、
* * * * * * * * * * * * * * *
部屋を出て階下に向かうシンの背中に、驚きの含んだ声が掛かった。
「シンさん?!」
振り返ると目を丸くしたミアが立っていた。その周りにはセアラと幼い子ども達もいる。
「やぁ、おはようミアちゃん」
「おはようございます。――あ! あの、昨日はありがとうございました」
「どういたしまして。もう痛いところは無いかな?」
「はい、もうすっかり!」
「そっか、良かった」
胸を撫で下ろして微笑むと、ミアの頬がほんのりと朱に染まった。
「えっと、あの……シンさんは、今日は孤児院にいらっしゃるんですか?」
「いや、これから、昨日ミアちゃんが
「えっ」
シンの言葉に、ミアは目を瞠った。昨日教えた場所――それは即ち、
「なるべく早めに行った方が、痕跡が残っている確率が上がるからね」
「そうですか……あ! あのっ もしよろしければ、私もご一緒しましょうか? 場所なら覚えていますし」
「いや、万が一があるといけない。ミアちゃんは孤児院で待ってて」
「……はい」
キッパリと断ると、ミアは肩を落とした。そんな彼女に、シンは柔らかく微笑んで補足を口にした。
「僕一人ならどうとでもなるからね。危なくなったら逃げるし、大丈夫だよ」
「はい。……あの、本当に、お気をつけて」
「あはは、ありがとう」
不安そうに目を潤ませるミアに笑顔で応じると、シンは
孤児院を出ると、シンは己の宣言通りにクナートの南門へと向かった。孤児院からは
「……さて、と」
小さく呟いて、シンは辺りに目を配った。門の先はちょっとした広場の様に
「あそこかな」
「……獣型の
口にしてから、違和感に顔を
「足跡だけじゃ分からないな。……一応、大きさと形を紙に書き留めて、後でティラーダ神殿で調べるか」
考えをまとめる為に口に出しながらベルトポーチから羊皮紙を出そうとした――直後、シンは全身が総毛だった。
「!」
考えるよりも早く、反射的に地面を蹴って後方――町の南門の方へとシンが飛び
「――
通常、深い森の奥や、山林に生息する
『ギャァア!!!』
短く叫び、
しかし、次の瞬間、予想外の事が起こり、シンは思わず目を瞠った。
「!?」
音もなく、林の奥から――更に3匹、
まずい、と脳裏に危険信号が明滅する。脊髄反射で防御態勢を取った直後、眼前の
「くっ」
構えていた
シンの心は決まった。
「それまで、持ちこたえてみせる」
幸い、持久力と生命力には自信がある。
* * * * * * * * * * * * * * *
「ちょっと、何やってるの?!」
「うわ、やべ! 見付かった!」
孤児院の2階、元空き部屋で――今日からシンが寝泊まりする部屋の前で、ドアの隙間から中を覗き込もうとしていたレックス、オースという名の少年2人は、唐突に背後から尖った声を掛けられて飛び上がって振り返った。
「って、なんだ、セアラじゃん」
「なんだとは何よ」
黒髪を短く切ったツンツン頭のレックスが、ほっとした様に言った言葉に、セアラは腰に両手を当てて仁王立ちしたまま詰問した。その言葉に、錆色の髪を後ろで一つに束ねた少年――オースが返した。
「だって、ミア
「だよな。2人に似てきたんじゃねえ?」
「そう? だとしたら嬉しいけど……――って、はぐらかさないで。何してるのよ、そこ、シン
呆れ顔で両腕を組んで軽く睨むと、2人は「いや」「だってさ」などともごもごと言いながらチラチラとお互いの顔を見合った。
「なぁ、セアラ知ってるか? 中、誰かいるんだぜ」
「え?」
思いがけない言葉に、セアラは目を丸くした。彼女は知らないという事に気付き、少年2人は優越感からかしたり顔で言葉を続けた。
「おれ達、見たもん。今日の朝早く、シン
「そうそう」
「見たって……どこで?」
嘘でも言っているのか、とも言わんばかりの問いかけにむっとしながらレックスが答える。
「窓からだよ。ピートが朝方に小便行きたがったからさ、おれとオースでトイレ連れてったんだ。その帰り、廊下の窓から見えたんだ」
「僕達より小さく見えたから、新しく
「気になるじゃん」
「ねー?」
結託して弁解する2人を交互に見て、セアラは眉を顰めた。
「でも、大人が私たちに何も言わないって事は、何か事情があるかもしれないでしょ」
その言葉に、レックスとオースは顔を見合わせて肩を竦めた。
「あーあー、出たー セアラの良い子ぶりっこ!」
「セアラは気にならない?」
「そういう問題じゃないでしょ。必要な事なら院長先生がちゃんと私たちに教えてくれるはずだから、」
「なら、俺らの事はほっとけよ。俺ら気になるもんなー?」
「ねー?」
「ちょっと!」
部屋を覗こうとするのを止めない少年たちに、セアラの眦が釣り上がる。
「やめないと、院長先生に言うわよ?!」
「どうせ殆ど見えねーよ」
「なら見なきゃ良いじゃない!」
レックスとセアラが言い合いをしている間に、オースはドアの隙間から中を覗き込もうとしたり、鍵穴から覗き込もうとしたり、アレコレ試している様だった。
「ちょっと、オースもやめなさいよ!」
「うーん、やっぱり見えないみたい」
「な?」
「な? じゃない! 見える、見えないの前に、覗こうとするのが良くないって言ってるの!」
実際、セアラとレックス、オースはそんなに年は離れていない。それなのに頭ごなしに叱る様な口調で言うセアラに、レックスとオースは不満げに口を尖らせた。
「何だよ、えっらそうに」
「大人に言われた通りにばっかりやってても、面白くないけどな、僕は」
そんな2人を見て、セアラは眉間に皺を寄せた。
「別に偉そうになんか……」
「あ!」
文句を言いかけたセアラの言葉を、オースの短い声が遮った。思わず、セアラもレックスも、オースに注目する。
「外だ!」
「え?」
異口同音に聞き返す2人を置いて、オースは駆け出した。慌てて2人も後を追う。玄関を飛び出し、孤児院の北側にある庭へ回ると、オースは1本の大きな木を指した。
「この木! 登れば、あの部屋の窓から中が覗けるよ、きっと!」
「おぉー! オース、あったまいいな!」
「何言ってるの?!」
彼の言葉に、レックスは喜んで飛び上がり、セアラは目を剥いた。
「去年、僕この木登ったよ。シン
「なら、間違いないな。おれも木登り得意だ!」
「ちょ、ちょっと……」
狼狽するセアラを余所に、2人は大きな
「やめなさいよ! 危ないってば!」
「へーきだって」
「あ、あの窓だね」
「どれどれ……」
もどかしそうに見上げるセアラなど気にも留めずに、レックスとオースは太い枝に跨って身体を安定させると、窓からシンの部屋を覗き込み……――息を呑んだ。
突然黙り込んだ2人に、セアラは訝しげに声を掛ける。
「ちょっと、ねえ、どうしたの?」
「……」
「……」
「ねぇってば!」
「……」
「……」
表情は見えないが、わざと無視している様子ではない。「2人の様子が変だから、なんだからね」とぶつくさと自分に言い訳をしながら、セアラも
怪訝そうに2人の顔を順に見てから、セアラも躊躇いがちに窓の中へ目を向ける。
「わ……」
思わず、セアラの口から小さな感嘆の声が漏れた。
大きなベッドの上に埋もれる様に、小さな“子ども”が眠っていた。3人より幼い年嵩に思われるその人物は、白磁の頬に長い睫毛、つんと整った鼻梁に、小さいながらもふっくらとした薔薇色の唇で、見たことも無いような美しさを持っていた。まるで銀細工の様な長い髪は、窓からの日の光を受けて淡く輝いて見える。
「エ、
「でも、シェラ
視線が少女に縫い付けられたかのように逸らす事が出来ず、しばらくの間3人は、木の上からじっと見つめていた。その間、少女は全く動かず、静かに眠り続けたままだ。そこでふと、セアラは呟いた。
「おひめさま……?」
「え?」
「悪い魔法にかかって眠り続けるお姫様の物語、前にミア
「!」
3人は顔を見合わせた。――レックスとオースも、今よりもっと幼い頃に眠る前に読んでもらった事があり、知っている物語だった。
人目を避ける様にしてシンが連れ帰った事、シンはとても強い冒険者である事、院長が何も言わない事、院長もとても強い冒険者だった事、孤児院のスタッフが知っている様子が無さそうな事――などなど。
そして、子どもたちの脳裏に、共通の文言が思い浮かんだ。
――この子は“悪者から守るためにシンが連れてきたお姫様”なのではないか?
木から降りると、3人は顔を寄せた。
「絶対そうだ」
「うん、間違いない」
頷き合う。
「シン
「他のヤツらには秘密にしなくちゃだぞ。どっから漏れるか分からねーからな」
「うん、約束」
同時に片手を前に差し出し、重ねる。
「おれ達は今から、お姫様を守る
レックスが声を顰めつつも力を込めて言う。その言葉に、セアラとオースも力強く頷いた。
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