第61話 重い扉の向こう側

 結局、ベッドに入る前にソフィアは一旦部屋の外へ出て、宿の沐浴を利用してから薄浅葱色の寝間着に着替える事にした。

 身支度を整えて部屋に戻ると、シンは彼女が部屋を出る時と変わらず、ベッドの淵に座り込んだままじっと考え事をしていた。


 部屋のドアを閉め鍵を掛けるが、反応はない。ならば、と邪魔をしない様にあえて声を掛けず、彼女自身もシンとは反対側のベッドの淵にそっと腰掛ける。そのまましばらく、部屋の中を漂う光の精霊ウィル・オー・ウィスプを眺めていた。

 その間も、シンはソフィアに気付いているのかいないのか、沈黙を守っていた。


 余程口にしづらいのか、それともシン自身の中で話したいことがまとまっていないのか、どちらなのか――それとも全く異なる理由なのか、ソフィアには見当もつかなかったが、いずれにせよ、かすつもりは毛頭ない。

 話がしたいというのはシンであり、ソフィアとしては、彼が何らかの理由で言いたくない、または言えないのであれば聞かなくても問題はないのだ。



 30分ほどそうしていただろうか。身体が冷えて身震いをすると、ソフィアは小さく息を吐いた。このままでは恐らく埒が明かない。ソフィアは沐浴をしたが、シンはそれすらせずに、ずっと身じろぎもせずに座ったままだ。恐らく自分自身よりも彼の方が身体が冷えているだろう――――そう思ったソフィアは、やや躊躇ためらった後、ベッドの襟元部分に重ねてあった柔らかい布を手にとると、シンの思考を邪魔しない様に彼の背中から肩口にその布を羽織らせた。


「!」


 ハッとした様にシンが振り返る。緑碧玉の色の双眸が吃驚した事を隠そうともせず、丸く見開かれた。一方のソフィアは、何となくばつが悪そうに視線を逸らした。


「……その……邪魔して悪かったわね」

「ううん、僕こそごめん。多分あれから、結構経ってるよね?」


 焦って肩に掛かった布に手をやりながら、シンはソフィアの方へ身体ごと向き直った。他人の気配にさと熟練ベテラン冒険者らしからぬ慌てぶりに、ソフィアは反応に困って眉をしかめる。


「いえ、そんなには……30分くらい、」

「え、そんなに?! あ、じゃあ僕、すぐに着替えるから、ちょっと待ってて!」


 あわたただしくシンは肩の布を手に取り、ソフィアの肩に掛け直した。別に明日でも、と声を掛けようと口を開いたソフィアだったが、その前にシンが「すぐ着替えるから!」と言い放ち、止める間もなく薄暗い部屋の中を真っ直ぐにクローゼットの方へ向かって行ってしまった。

 夜目が利くシンは、光の精霊ウィル・オー・ウィスプが1つだけ漂う薄暗い部屋の中を、昼間と変わらずに動き回る事が出来る様だった。つい彼を目で追ってしまっていたソフィアだったが、僅かな布擦れの音を耳にして急いで視線を逸らす。ソフィア自身は夜目が利かないため、薄暗い室内の離れた位置に立つシンの姿は人影程度にしか見えないが、それでも着替えている気配を感じて尚、視線を向け続けるのは何となくはばかられた。


 それにしても、そんなに急ぐ必要がある話しなのか、内容を知らないソフィアには分からない。小さくため息を吐くと、仕方なしに目を伏せたまま彼の準備が出来るのを待った。



「ごめん、お待たせ! って、ベッドに入ってて良かったのに……寒かったでしょ」


 寝間着の綿の長上衣に着替えたシンが、小走りでベッドの淵に座るソフィアの前へやって来、彼女が止める間もなくその細い両肩にそっと触れて顔をしかめた。


「随分冷えてる」


 ポツリと言うと掛け布団を素早くめくり、有無を言わさぬ勢いでそのまま布団にソフィアを押し込んだ。


「ちょっとシン!」

「とにかく、入って。このままじゃ風邪を引いてしまう」

「~~っそれ、口で言えば済む話しでしょ?!」


 もちろん、どうあがこうとシンの力に抵抗できるはずもなく、あっけなく布団の中に押し込まれたソフィアは抗議の声を上げる。だが、シンは悪びれもせず「こっちの方が早いから」などと、よく分からない理屈を口にして、そのままベッドの反対側へ回ると自身も布団の中に入った。

 その様子を布団から半分顔を出したままチラリと横目で見て、ソフィアは小さくため息を吐いた。どうもシンの様子が、いつもにも増しておかしい。今日はこのまま眠った方が良いかもしれない。――そう思い、それを伝えようとシンの方に顔を向けた時、先に彼が口を開いた。


「そっちに行ってもいい?」

「……はい?」

「ソフィアの近くに」

「……」


 いつも抵抗しても勝手に来るくせに、何を、と呆れ交じりに頬を引き攣らせるが、彼なりに、何かについて踏ん切りがつかずに悩み、迷っている様子が伺い知れて、ソフィアは口をつぐんだ。


 しばし沈黙した後、苦虫を噛み潰した顔で「勝手にしたら」と告げると、少しだけシンの表情が明るくなった。いそいそと布団の中を移動して、そのまま彼女のすぐ傍に身を寄せる。

 シンの方が宿から湯も借りていないし、部屋の中でずっと座っていたのだから、自分よりずっと体が冷えているだろうと思っていたソフィアだったが、その予想に反して彼の身体はいつも通り己よりも格段に温かい様だ。触れずとも間近に来るだけで伝わる体温に、思わずほっと小さく安堵の息を吐きだしてしまった。


「……ごめんね、さっき」


 囁くように、掠れた声でシンがポツリと詫びた。意図が分からず、訝し気に視線を上げて問うと、シンは微苦笑しつつ付け足した。


「自分で話があるって言ったくせに、ソフィアの事、放っといちゃって」

「……別に気にしてない。それに、話す準備が整ってないなら、別に今日じゃなくてもいいし、あたしとしては、あなたが言いたくないなら言わなくても構わない」

「ううん。今日、今、話しがしたい。――ソフィアは?」

「? 何が?」

「眠くない?」

「よく分からない。……でも、まだしばらくは起きてられると思う」

「そっか」


 そう口にしてから、再びシンは黙り込んだ。そうしてしばらくの間、再び沈黙が訪れる。


 光の精霊ウィル・オー・ウィスプの柔らかな光にぼんやりと照らされた仄暗い静かな室内。己のすぐ傍らにあるシンの胸からは穏やかな鼓動がかすかに聞こえる。得も言われぬ安心感がソフィアを包み込み、油断するとつい眠りそうになる。――否、このままでは間違いなく眠ってしまう。

 微睡まどろみにとらわれそうになるのをこらえようと、ソフィアは両目をぎゅっと強く閉じてから、勢いよく瞼を上げた。その勢いのまま、いい加減に寝るか話すかハッキリするよう、文句を言うべくシンの顔をそのまま見上げた。――――が、思いがけず、こちらをじっと見つめていたシンと目が合った。

 いつから見ていたのか分からない彼の眼差しは、躊躇ためらいと、そして、それ以上によく分からない強さでソフィアをとらえる。困惑したソフィアは、それを受け止めきれず、たじろいで反射的に身を後ろに逸らそうとした。だが、それを許さないとばかりに、シンの両手が伸ばされソフィアを抱き締めるように包み込んだ。


「ちょ、ちょっと」


 何度もこうしてシンの腕の中に閉じ込められることがあったが、未だに慣れない。ぎょっとして身をよじるが、彼は離そうとしなかった。それどころか、とんでもない事を言い始める。


「……このままで話してもいい?」

「はぁ?! 何を……」

「ソフィア、身体冷えてる……」


 文句を言おうと口を開いたソフィアだったが、抱き締めたまま彼女の小さな頭に頬を摺り寄せて目を閉じ、苦悩しているようなシンのそのさまに、言葉を飲み込んだ。何だかんだで、自分もほだされている、と何度目かのため息を心の中でつきながら、ソフィアはシンの気が済むまで好きにさせる事にした。


 しばらくじっとしている内に、触れ合っている部分からゆっくりと温まって来た。前述の通り、そもそも、シンは普段から体温が高い。筋肉量が多い為か、体質なのか分からないが。――逆にソフィアは、いつも体温が低く、身体が冷えるのも早かった。

 そんな2人が身を寄せ合っていると、中和されて2人の体温を足して2で割った温度になりそうなものだが、いつもそうはならず、圧倒的にシンの体温が勝り、ソフィアの身体はいつもぽかぽかと温かくなるのだ。


「本当に眠くない? 平気?」


 壊れ物に触れる様な優しい手つきで、ソフィアの頬を大きな手がそっと撫でる。先ほどから、ついうとうとしそうになっていたソフィアは慌てて取り繕う様に不機嫌そうに「平気よ」と返す。恐らくバレているだろうが、シンは深く追求せず「そっか」とだけ答えて微笑んだ。

 このままではシンは、自分を眠らせる事を優先しそうに感じ、彼女は先手を打つ事にした。


「話しって、何?」

「うん……」

「今日のシアンとの話しで、何か気になる事があったの?」

「……まぁ、そうだね」


 問いかけに対し、曖昧な相槌を打ちつつ言い淀むシンに、ソフィアは柳眉を寄せて言葉を続ける。


「シアンと何かあったの?」

「ううん、それは……うーん、あったというか、……何ともいえないんだけど」

「何よそれは」


 呆れ声で言い返し、シンの顔を見上げたソフィアだったが、思っていたより真剣な表情を見て目を丸くする。


「ソフィア」


 笑みを消した、素の表情でシンはじっとソフィアを見つめた。


「君にとっては嫌な話しかもしれないんだけど」

「? え?」


 思いがけない言葉に、思わず間の抜けた声を零す。そんな彼女を、シンは抱き締める腕に力を込めた。


「……でも、どうしても、確認したい」

「? 何の事?」


 少し息苦しく感じ、身動ぎをしつつソフィアは顔を顰めて尋ねる。逡巡した後、シンは恐る恐る口を開いた。


「君のヴルズィアにいた頃の話しを聞きたい。今、ここで」

「え?」


 思いがけない言葉に、ソフィアは絶句した。頬に手を添えたまま、シンは静かに続けた。


「……前から、ソフィアの事をちゃんと知るために、聞きたいと思ってた。でも、ソフィアが話したいって気持ちになってからって思ってた。――けど、そういう訳にも行かなくなってきたかもしれないんだ」

「……どういう、事?」


 身体の内側に氷の塊が滑り込んだかのように、ソフィアは小さく身を震わせ、辛うじて聞き返す。そんな彼女の様子を、腕に抱いているからこそすぐに感じ取り、シンは顔を歪ませた。


「……嫌、だよね」

「い、嫌っていうか……聞いて楽しいものじゃないから」

「楽しむために聞くんじゃないよ。それに、興味本位でもない」


 鼻と鼻が付きそうなほど顔を寄せ、真剣な眼差しでそっと紡がれる言葉に、ソフィアは戸惑ったように視線を彷徨さまよわせた。正直、話したくはない。だが、以前にシンの過去の話を聞いておいて、自分の事を話さない訳には行かない、ともう一人の自分が己を叱責する。


「……」


 表情を強張こわばらせたまま黙り込むソフィアを、じっと見つめたままシンは眉を下げた。


「駄目かい?」

「……」

「ソフィア」


 優しく髪を手で梳きながら、シンは努めて柔らかく彼女の名を呼んだ。だが、


「言いたく、ない」


 絞り出すように口を突いて出た言葉に、ソフィア自身が驚いた。無意識に口元に震える握り拳をあてがい、押し付ける。一方シンの方は、少しだけ碧色の目を瞠った後、申し訳なさそうに呟いた。


「そっか……うん、そうだよね」

「……」

「ごめん、嫌な事を聞こうとしちゃって。……無理しないで」

「ちがう」

「え?」

「無理とかじゃ、」


 語尾が震える。


 実際、あの頃の記憶を思い出す事は、ソフィアにとって苦痛でも何でもなかった。

 だが、あの頃の話しをする事で、万が一つにでもシンに憐れまれたり、同情心が芽生えたりしたらと思うと、腹の底が冷える様な恐ろしさを感じた。――――それは、彼を縛る枷になりかねないのだ。


「……あなたに、余計な事を、知られたくない」

「え?」

「あたしは、」


 言いさして、黙り込む。そのまま言葉が出てこない彼女の小さな背中を、シンはそっと撫でた。出会った当初よりはマシになったものの、それでもまだ細く華奢な背中は、小さく震えていた。


「あなたには、恩がある」

「? え?」

「仇で返したくない……」

「ちょ、ちょっと待って、どういう……」


 口元に握り拳を押し当てたまま、震える咽喉でぽつりぽつりと零すソフィアの言葉に、シンはらしくもなく狼狽して声を上げた。


「恩とか、仇とか、何の話し?」

「っあたしは……! ヴルズィアあっちの世界での事なんて、何とも思ってない……っ でも、シンは、聞いたら絶対、気にするじゃない……っ」


 ひりつく咽喉から辛うじて声を絞り出したソフィアの声は、湿り気を帯びていた。


「ひつよう、な事があるなら、答える――それだけじゃ、駄目なの?」

「ソフィア」


 とうとう水色の瞳から大粒の涙が零れる。シンは困惑したように彼女の頬を伝う雫を指でぬぐった。


「何が必要で、どれが鍵か、分からないんだ。――だから、全部教えて欲しい」

「……」

「僕に……恩があるって、……仇で返したくないって、それって僕が君の過去を知って、君に縛られるんじゃないかっておそれてるって事?」

「!」


 明らかにぎくりと身体を強張らせるソフィアに、シンはゆっくりと微笑んだ。


「あのね、ソフィア。――僕にとってソフィアの過去は、今の君を形作るという意味で大切ではあっても、必要不可欠、と言う訳じゃないよ。――ただ今回は、これからの事に必要だから聞きたいだけ」


 改めて彼女の身体をしっかりと腕に抱き、「それにね、」と、よく通るテノールで語り掛ける。


「僕はもう、とっくに君に縛られてる。――それ以上に、僕が君を縛ってる。前に言ったでしょ? 絶対に離れるつもりはないって」


 ね、と微笑んで顔を覗き込むシンに、困惑顔でソフィアは目を伏せたまま視線を彷徨わせた。それを見て、シンは笑って言葉を続けた。


「もう僕の心は決まってるんだから、何を聞いても変わらないよ。だから、安心して」

「あ、あんしん……して、って……」


 あまりにも清々しく言い切るシンに、呆然として――――出ていた涙まで引っ込めて、ソフィアは目を丸くした。それから、じわじわと苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、小さく首を横に振る。


「……安心、できない、わよ」

「そう?」

「だって、それは、ちがう……」

「違わないよ」

「あたしの事で、」

「うん」

「嫌な思いをして欲しくない」

「いいよ、させて」

「え?」

「嫌な思い」

「……え?」

「させていいよ。……大丈夫」

「……」


 かたくなに閉じられた、頑丈な心の扉を、優しく、だが諦めず何度もノックするかの様に、シンはソフィアの不安が滲んだ言葉に応じ続けた。


「ソフィア」

「……」

「僕を信じて」


 万感の思いのこもったシンのその声に、震えて縮こまっていたソフィアの心が奮い立つ。きゅっと唇を真一文字に結ぶと、彼女はようやく俯いていた顔を上げた。


「思い出せる、範囲で――――だけど、」


 ともすれば震えそうになる声を何とか堪え、ソフィアは語り始めた。――ヴルズィアでの記憶を。

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