雨の向こうは恋の調べ
川上桃園
ヴァイオリンは世界を駆けた。
気がつけば、霧深い竹林で、ヴァイオリン片手に一人佇んでいた。
竹はどれも雪の重みで大きくしなっている。空や足下、息まで白かった。
ここ、どこだろう。
私は音大生。大学でレッスンを受けていたのは覚えている。必死で練習したのに、全然講師から合格をもらえなくて落ち込んだ。
言われることはいつも同じ。
君の音は優等生。君の演奏で僕の心は震えない。
結局、時間の半分のところで先生は切り上げ、私はまた一人で練習に打ち込んだ。
それで。それから……どうしたんだっけ。
そこがどうしても思い出せない。
ともかく私はヴァイオリンケースを探した。
ヴァイオリンは繊細な生き物だ。霧があるような高湿度の中ではカビが生えやすく、急激な温度の変化でニスが割れてしまうことだってある。
そんなに高価なものではなくとも、私にはアルバイトでお金を貯めて買った大事なヴァイオリン。ほかに荷物も持たないででかけることは、普段からなかったはずが。
「ない……」
ヴァイオリンケースは見つからなかった。仕方なく両手でしっかりと抱える。
見渡せど、誰もいなかった。
しなりにしなった竹がぶるんと体を震わせて、雪を振り落とす音がやけに大きい。
しかし、幸いにも近くに誰かが雪道を通った足跡を見つけた。
辿っていくと、柴垣に囲まれた茅葺きの庵のような建物を見つけた。神社仏閣の庭園で見かけるものによく似た、とても古風な造りをしている。
門らしきところから敷地内に入った。そこから一つ角を曲がったところで。
「客人かね」
神社にいる禰宜が着ているような、昔の衣装を身につけた人が、縁側で立膝をついてこちらの方に顔を向けている。
若い男の人の声だった。こんにちは、というと、彼は首を傾けて、
「妙齢の女人の声がする。珍しい。それに普通の人とは違う声の響きだね。おいで」
男の手招きに、警戒しながらそろそろと近づいた。
相手の顔が段々と明瞭になってくる。育ちのよさそうなすっきりとした顔立ちだが、あることに気がついた。
男の目の焦点は、決して私と合わないのだ。
「今までにない匂いまでする。そなたはどこから来たのかね」
住んでいる町の名をいうと、男は柔らかな声で「知らないなぁ」と言った。
「それは月の都の名前か、そうでなければ蓬莱山の地名かな。どちらにしろ、遠いところから来たのだろうね。さあ、もっと近くへ」
もう一歩だけ踏み込んだ。唐突に、男の冷たい手が頰を撫でた。鼻筋や、口元、目元を確かめるように滑っていく手。いやらしさなんて微塵も感じさせないから、私は驚くばかりだった。
「仙女の顔立ちは、こういうものかな」
男は大真面目に呟いた。
「もったいない。美醜などというものはとうにわからなくなってしまったから、絵にも描いて残しておけないね」
曇りのない、真っ黒できれいな瞳だった。しかし、何も見えていない。男は盲目だったのだ。
男は手を離し、口調を改めた。
「こんなところまでよく来ました。人の少ないうら寂しいところだが、ゆっくりしていってください」
「……ありがとうございます。あの、恐れ入りますが」
私はおそるおそる口を開いた。
「ここはどこですか」
「
宇津田山。聞いたことがない。
「それは何県ですか?」
「県? 大陸から昔からある政の区分けのこと? わたくしの知る限り、この国では使われておりません」
「………えっ。日本、ですよね」
「そう呼ばれることもありますね。わたくしたちは、
騙されているのだろうかと疑った。何年もずっと音楽漬けの毎日だったとはいえ、一通りの常識は身につけている。これは明らかにおかしい。詐欺か、ドッキリか。
だがこんな時にも腹は減っていた。くるる、とお腹の音がこだまする。なんて品のない音だ。恥ずかしい。
これを聞いた男は手を己の背中に回し、あるものを差し出した。
「人の食物は食べられますか」
竹の葉に包まれた小さな握り飯が二つ。自分がどういう状況に置かれているのかわからないので、ありがたく一ついただいた。
握り飯を齧った瞬間に米の味が広がる。それはよく知っているようでいて、知らない味のように感じた。
「そこの
「いえ、そこまでは……」
「本当は己でやるべきですが、申し訳ありませんね。こんな身の上ですから、一人で何かするのにも難儀しております。仙女様にはご不便をかけますね」
「十分です。突然お邪魔してしまったのはこちらなので」
ふと私は思い立った。
「何かお手伝いできそうなら言ってください。やります」
「仙女様は心が美しいのですね。しかれば、わたくしを庵の内まで連れていってもらえませんか。濡れ縁と庇の間の段差につまずくのが怖いのです」
「いいですよ」
手元のヴァイオリンを濡れ縁の上にそっと置き、男の手を取った。その手はふっくらと厚みがあり、大きかった。
「すぐ前に段差がありますから、大きく足を出してください」
「ふむ」
御簾の内まで入った。
「円座(わろうど)のところまでお願いできますか?」
「わろうど?」
「仙女様は畳の上にお座りください」
わろうど、がわからなかったが、枯草で編んだ丸い敷物が目に入ったので当たりをつけて案内する。
裸足で敷物に触れた男は満足そうに胡座をかいた。私は置いてきたヴァイオリンを持ってきて、畳の上で正座した。
内部は古めかしい調度品がいくつか並べられているのみで、簡素な作りをしている。
男との間にはちょうど鉄瓶が乗る火鉢があって、そこで暖をとることができた。
「随分と助かりました。実は今、常日頃世話をしてくれている者が外に出ております。こういう時は杖を持って用を足しますが、こんな時に限って内に忘れてきてしまいました」
「大変でしたね」
男はかすかに笑う。
「よいのです。代わりに仙女様をお招きすることができました」
「私は、そのような者では……」
なんとなく訂正しないできたことを口にする。
「ただの落ちこぼれの音大生です」
男は不思議そうに首をひねる。
「わかりませんね。わたくしには、仙女様が光り輝いているように見えます。たしかに身体の目は何も映しませんが、心の目は仙女様が美しいものであると訴えております」
……すごいことを言われてしまった。こんな人、私の人生の中で会ったことがない。
「白湯は飲まれますか」
「……いただきます」
火鉢の近くに木製の椀があったので、鉄瓶をそっと傾けて白湯をもらった。ふわ、と白い湯気が上がる。
「はぁ……」
「少しは心も凪ぎましょう。疲れた時はゆったりと構えた方がよい按配に物事は進むものですよ」
男は目元をくちゃくちゃにして微笑んだ。そうすると、また印象も変わって人情味あふれる面持ちになる。
相手が見えないのをいいことに、私は白湯をすすりながら相手を観察した。
「わたくしはね、元は都の方に住まいがありますが、どうにも肌に合わないでここに移って、静かに暮らしております。都は、音が多くて落ち着かないんですよ」
「そうなんですね」
よくわからないまま相槌を打った。
「宇津田山は、古くから仙境に近いものとされております。この山の頂から都の反対側を臨めば、海中の蓬莱山が見えるとか。仙女さまと出会うのもある種の必然かもしれません」
「へぇ……」
何ともファンタジック。
もちろん私は仙女なんて大層な人になった覚えはないけれど。
私は仙女を想像した。
天の羽衣を纏い、無重力に飛翔するその姿。
花のような
気まぐれに地上に降りてきた彼女は、人の男に恋の一つもしたかもしただろう。
しかし、いつかは別れが来て。月の夜、かぐや姫のように去る。その胸に哀しみを抱えたまま。
もしも私だったらどうするのだろう。涙をこらえ、さようなら、と別れの言葉を告げられる?
想像すると、身を切られるように辛いのに。
あれこれと思ううちに、うんと演奏がしたくなってきた。体がむずむずと疼く。
やっぱり私は音楽が好きらしい。心の中をばたばたと駆ける感情を解放するには、楽器が必要だ。
すぐさまヴァイオリンを構えると、男は何かを察したように、私に顔を向けた。
試しに弓を弦に滑らせる。ーー大丈夫。
「あまり聴かない音がするね」
「ヴァイオリンですよ。もしかしたら驚くかもしれませんね」
唇の端が釣り上がるのが自分でもわかる。
「目一杯驚いてください」
抒情感をたっぷりと効かせ、伸び上がる高音。
一音目から男の目が溢れんばかりに見開かれた。それを見るのが楽しい。
思いつきの曲を次から次へと弾いていく。
なんでもいいのだ。感情が乗りさえすれば。
ーー君の感情表現は優等生すぎるよねぇ、と、コンクールで言われ始めたのは、高校生ぐらいだった。
昔は出る大会で優勝を総なめし、ご近所でも評判のヴァイオリンの天才少女ともてはやされ、新聞やテレビの取材も受けていた。自分で越えられない壁はないと思っていたあの頃は、コンクールで指摘されたささいな弱点など、すぐに克服できると思っていたのだ。
だが、数年後の今も同じような言葉を浴びせかけられている。端的に言えば、「君の演奏、つまらない」だ。
それにムキになればなるほど空回り、いつしか周囲の学生から置いてけぼりを食らうようになっていた。
今、レッスンを受けている世界的バイオリニストまで口癖のようにこう言うのだ。
「恋をするといいよ。我を忘れて没頭して、馬鹿なまねをすればいい。内に内に秘めて鎮火する感情が、人を動かせるわけがないんだからさ」
それをあまりにしつこいぐらいに言うから、かっとなって返したことがある。
「私の恋人はヴァイオリンです! それ以外はいりません、全部!」
「ばかやろう、ヴァイオリンとは結婚できねえよ!」
そのまま喧嘩別れ。しばらく口を利かなかった。あの時は本当に「アロハシャツのアフロオヤジ」を見たらじんましんが出た。
私は本気でヴァイオリンと恋をする気だった。実際に、ヴァイオリンのために色々なものを削ぎ落としてきている。
それが時に苦しくもあるけれど、たまにすべて報われたかのような瞬間がやってくる。自分はどこまでもいけると確信する瞬間、目の前の視界は世界の果てまでも開けていく。私は、その刹那を見るためにヴァイオリンを続けているのだ。
ヴァイオリンの演奏中、男はじっと曲に耳を澄ましていた。
そしてヴァイオリンが最後の一音を響かせた時、「もっと聴いていたいな」と男はぽろりと零した。
感が高ぶったのか、男の目の際が赤くなっていた。
私はどういうわけか動揺し、弦に力を入れてしまった。すると、ぷちん、と弦が切れた。
途端に、ぶん、とひどい耳鳴りがして、目の前の景色が遠ざかっていく。
映画に意識を没入していたのに、エンドロールで映画館の席に座る自分に気づくと疲労感と虚脱感でくたりとなる、あの感じがした。
◇
ーー視界は白かった。
私は、なぜか白い天井を眺めている。体は仰向けになっていた。
「お目覚めですか?」
私の顔を覗き込んだのは、白衣の看護師だ。
「ご自分の名前、わかりますか?」
「
「おいくつですか?」
「二十歳です」
そんな、二、三の質問を答えた後で、看護師はにこりと微笑んだ。
「記憶の混濁もそんなに心配なさそうですね。精密検査も異常がなかったようですので、先生の診察が終われば早く帰宅できますよ。本当に良かったですね。あれだけ派手に車に衝突されたというのに、傷一つないなんて、本当に奇跡的な出来事ですよ」
なんと、私はレッスン帰り、横断歩道の真ん中で、信号無視の乗用車にはねられたとのこと。
救急車で運ばれたが、大きな怪我はなかった。しかし、事故の衝撃のためか意識を失ったまま、目覚めなかったという。
そして、二日経って目覚めたらしい。
事故の記憶はさっぱりなくなっていた。
ちなみに、ヴァイオリンは車にはねられまいととっさにケースごと道路脇の植え込みに投げていたようで、まったくの無傷だった。
……いや、本当は少し違う。眠っていたせいで腕がなまってしまうからと、練習のためにヴァイオリンを手に取った時、弦が何もないのに一本切れた。
不思議な出来事だと思いながらも、私は無事に退院し、また普通の生活に戻った。
弦を直した直後には先生とのレッスン時間が待っていた。
練習室には丸椅子の上で足を組んで偉そうに踏ん反り返っている先生がいた。とりあえずひいてみなよ、と先生に促されるがままに、ヴァイオリンを構える。
練習ができていない状態でどこまでできるだろうと不安だった。
が。弾き始めの一音で、ぞっとする。
何これ。おかしい。なんで。
私だけではなく、先生も愕然と顎を落としている。
「おい。まるで別人じゃねえか。めちゃくちゃよくなってるよ。恋を知り染めし乙女の初々しさと片思いのむくわれなさがすごくよく出ているねえ」
練習曲を終えてから、先生は珍しく私を手放しで褒めてくれる。けれど、私はそんな気にもなれない。胸にこぶしを当てて、しかめ面だ。
ーー恋を知り染めし乙女の……。
真実、そうであったなら不毛な話だと思うのだ。あれは夢の中の人だった。その名前さえも知らない。
あの人は、最後どんな表情をしていたのか。何も思い出せないというのに。
◇
ーー彼の目は、ぼんやりと光の明暗を感じ取ることはできる。
夕刻頃。彼の庵に帰る者がいた。
「院。遅れて申し訳ございません。ただいま戻りました。ご不便はございませんでしたか?」
閑散とする庵に響く声は、いつも世話する下人のもの。
「十分だよ。それよりもそなたは惜しいことをしてしまったね」
「へい? 何がでしょう」
「つい先ほどまで仙女がいらっしゃったのだ。妙なる天の調べを奏でてらした。もう少し早く戻れば、そなたも目にできただろうに」
「はあ。そりゃ、ようございましたね」
下人は困惑の声だ。
「うむ。そうだ、あれを持ってきておくれ」
「いつもので?」
「そうだよ」
下人は木の床をぱたぱたと鳴らして、奥から琵琶を持ち出してくる。
受け取った男は、撥で四本の弦を弾き下ろした。
じょう……と、重くて深い音が響く。
「ふむ……?」
奏でる音色が常と違って聞こえる。再度鳴らしても同じだった。こちらの方が音を耳に留めたくなる。しいて言えば、艶が出ている。
彼は己の聴覚と触覚を頼りに、この楽器に慣れ親しんできた。だから音を通して己の変化をすぐさま察することができる。
まして、この男は、当代一の琵琶の名手と言われていたのだ。
時に極上の音色は、天を轟かし、地を脈動させ、人事を転変する。
いずれをも知れぬ未知の土地を繋ぐこともあるだろう。
彼はあの仙女の顔を思い出す。
造作は見えなくとも、彼にはそこに強い光があるように感じた。千万の土地を照らす無量の光はこういうものかと感心するほどだ。そんな人物に会ったのは初めてだった。
もしも次があるのなら、ぜひこの琵琶と音色を交えてみたいもの。
男の願いが叶うのか。音楽の神のみが答えを知っている。
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