ブストサル 第二巻

かつたけい

第一章 ビターチョコレート

     1

 鋭い、大きな叫び声が体育館の中を飛び交い、反響している。


 激しい速度で、あちらこちらへと目まぐるしく床を転がる一つのボール、それを追って何人もの女子たちが声を、身体を、激しくぶつけ合っている。


 わたしはラインの外に立って、彼女らのことを見ている。

 そして時折、手を打っては、指示や叱咤の声を飛ばす。


 千葉県立わらみなみ高等学校女子フットサル部。

 我々は、その部員である。


 いまは平日の放課後。

 いつも通りの、部活練習の時間だ。


 わたしの名前はむら

 二年生。

 このフットサル部の、部長を任されている。


 本当はピッチの中に入ってみんなと一緒に練習したいのだけど、先日行われた大会で足を酷く傷めてしまい、現在、とてもフットサルなど出来ない状態なのだ。


 いまも、右の足首にはぐるぐるとテープを巻き付けてある。


 でももう、痛みはほとんどない。

 お医者さんの話では、あと一週間もたてば、ジョギングくらいなら始めてもいいそうだ。

 再悪化させないように、テーピングとサポーターは当面外せないけど。


 いま、わたしの目の前で部員たちが行っているのは、紅白戦。要するに、試合形式の練習だ。


 一年生のやまゆうが、雄叫びを上げながら反則すれすれの激しいプレーで二年生のなつフサエからボールを奪った。


「王子!」


 はまむしひさの声に反応し、山野裕子はそちらへとパスを出した。


 王子とは山野裕子のニックネーム。

 彼女は、坊主頭というほどではないが女子としてはもの凄い短髪で、なんだか男の子みたいなのだ。でも顔だけみると、かなり整っていて可愛らしい。

 と、そんな美少年を思わせる風貌から、いつの間にやら王子と呼ばれるようになっていたのだ。

 本人は、この短髪は女らしい短髪なのだと持論を主張しており、王子と呼ばれるのは不本意だったようだが、いまではすっかり慣れて受け入れてしまっている。

 中学の頃は「兄貴」と呼ばれていたらしいから、それに比べれば王子と呼ばれることなどなんということもないのだろう。


 その兄貴から、間違った、王子からのパスを受けた浜虫久樹は、自らシュートを狙うかのような動きをしつつ、真横へと小さくドリブルをする。

 王子がきぬがさはるをかわしてタイミングよく前へ飛び出したのを見て、そちらにパスを出そうとする、が、寸前で蹴り足を止めてボールを押さえつけた。

 夏木フサエが、久樹からボールを奪うべく猛然と突っ込んで来たからだ。


 フサエの勇ましい顔は、瞬時にして驚きの表情へと変わった。

 いつの間にか、久樹の足元からボールが消えていたからだ。


 それもそのはず、久樹はフサエに密着される寸前、身体を反転させてかわそうとする振りをしつつ、ヒールで前線へとパスを出していたのだから。


 そして、そのボールを王子が受けていた。


 ゴールは王子のすぐ目前。

 だがその前にはゴレイロのたけあきらが、浅く腰を落として構えている。


 王子は迷わず右足を振り抜いた。

 どばっ、と凄い音。


 王子のシュートは、脚力が常人離れしているため、枠にさえ飛べば、実に破壊力抜群で、相手にとっては相当な脅威となる。

 残念ながら枠にいかないことが多いのだけど。


 でも、実力がついてきたのか単なる運なのかは分からないが、いま蹴ったボールは真っ直ぐ枠へ。

 ゴールの上隅をめがけて一直線、残像の見えるまさに矢のようなシュートだった。


 王子のシュートも素晴らしかったけれども、我が部自慢のゴレイロである武田晶も素晴らしい反射神経を見せた。

 至近距離から放たれた弾丸シュートを、瞬時に見切ってパンチングで弾き飛ばしたのだ。


 ボールは、センターラインのほうへと、弧を描いて飛んでいく。

 晶は落下地点に向かって素早く駆け寄ると、跳躍しながらヘディングで大きくクリアした。


 晶、入部した時から能力の高い選手だとは思っていたけど、最近一段と反応、技術や判断力に磨きがかかってきている。


 彼女はまだ一年生だけれども、正ゴレイロだ。

 本職ゴレイロが他にいないというのもあるけども、非常に有能であることに変わりはない。

 ゴレイロとしてだけでなく、FPとしても足元の技術がとてもしっかりしており、パワープレーいわゆるゴレイロの攻め上がりの時にも信頼がおける。

 実際に先日の大会でも、攻撃に守備にと、大活躍だった。


 同じ一年生でも王子は……体力だけだな。

 とはいえ、以前よりは格段に成長しているけど。

 足元の技術はそこそこついてきたし、一番の欠点であった連係面もいま見せたように相当よくなってきている。

 もしかしたら、実はもう一人前で、体力の突出具合が異常すぎて相対的に他が悪く見えてしまうだけなのかも知れない。

 体力だけなら、本当に化け物だから。


 中央でボールの奪い合いが行われている。

 衣笠春奈が相手の前へと巧みに身体を入れて、ボールを奪い取った。


 彼女もここ最近、成長著しい。

 フットサル経験は去年の九月に転校してきてからなので、まだ半年も経っていない。

 それなのに、他の一年生と遜色ないくらいにチームに溶け込んでいる。


 わたしや久樹が居残り練習に付き合ってあげたおかげというも、少しはあるだろうが、ほとんどは彼女自身の努力によるものだろう。


 他の一年生、とひとくくりにしているが、ゆうだけは別格だ。

 次元がまるで違う。

 足元の技術が、それはもう神懸ってるくらいに上手なのだ。

 パスの技術もセンスも非凡。


 異常なまでに気が弱いのと、異常なまでに体力がないのが欠点だが。


 気の強さにしても体力にしても、せめて王子の十分の一もあれば、いつ日本代表に呼ばれてもおかしくないくらいの逸材なのに。

 身内贔屓でなくそう思う。


 さて、今度は佐治ケ江たちが攻める番だ。

 右サイドを駆け上がった佐治ケ江は、緩急のあるドリブルで簡単にベッキのらくやまおりを抜くと、素早く、ゴール前にボールを放り込んだ。


 左アラである夏木フサエが、ゴール前まで駆け込んできていた。

 佐治ケ江のパスをアシストにすべく、頭で合わせようと飛び込んだ。


 しかし、ボールはフサエの頭に触れるより先に、ゴレイロのあぜけいにキャッチされていた。


 ちなみにアラというのは両翼ということで、無理にサッカーのポジションに当てはめるなら、中盤、ミッドフィールダー、サイドハーフだ。


 なお、ピヴォは、フォワード。


 ベッキは、ディフェンダー。

 一般にはフィクソといういいかたがよく使われているけど、この部では以前より慣例としてベッキが定着している。

 語感が、どうにも先輩方には引っかかるものがあったらしい。気持ちはよく分かる。とはいえアルファベットで書くと、フィクソもFIXOでかっこいいんだけどね。


「はい、いーち!」


 景子がボールをキャッチしたので、わたしは大声で秒読みを開始する。


 フットサルでは自陣で四秒以上のボール保持が許されない。

 実際の試合で審判が叫んで教えてくれるわけではないが、だからこそ、秒読みして四秒を身体に覚えさせるようにと、わたしはよく秒読みをするのだ。


 畔木景子は本職ゴレイロではない。

 本職といえるのは先ほど述べた通り、武田晶一人だけだ。

 公式戦で不測の事態が起きた場合の控えとして、そしていまやっているような紅白戦のために、わたしと景子と春奈の三人で第二ゴレイロを持ち回りしているのだ。


 現在わたしが足の怪我で練習に参加出来ないものだから、控えは景子と春奈の二人だけだ。


 怪我というなら景子も交通事故で腰の骨にひびの入る大怪我を負って、最近復帰してきたばかり。

 FPとして激しく走り回るのもまだ少し怖いので、優先的に第二ゴレイロの役をやってもらっているのだ。


 景子の蹴ったボールは、王子が胸でトラップした。


 王子はすぐさま反転し、浜虫久樹へとパス。


 また久樹と王子が、素晴らしい連係を見せ、二人で相手陣地深くへと切り込んでいく。


 久樹は二年生で、この部の副部長だ。

 小柄ながら、いや小柄だからというべきか非常に俊敏な動きをする。

 持って生まれた才能なのか幼少の頃からの長いフットサル経験からか、足元の技術も抜群。

 そしてなによりも、得点への嗅覚に非常に優れている。

 まさにエースという言葉がふさわしい存在だ。


 佐原南のエースは巧みなフェイントで夏木フサエをかわし、王子へとパスを出した。


 するっと目の前に転がってくるボールに、王子はうまくタイミングを合わせて豪快に蹴り込んだ。


 ゴレイロの武田晶は、ボールを身体に当てて床に落としたが、しかし次の瞬間には、詰め寄っていた久樹にボールを押し込まれていた。


 ゴールネットが揺れた。


 紅白戦つまり単なる練習だというのに、やはり決められれば悔しいのか晶は足を激しく踏み鳴らしている。


 片や、やはり決めれば嬉しいのか両腕を突き上げて大喜びの久樹である。


 そして、さらに、


「ウエエ~イ」


 晶の前に駆け寄るやいな、自分のお尻をぺしぺしと叩く王子の姿。


「王子、意味ない挑発すんな! あ、いや、意味あってもそんなことすんな!」


 わたしは怒鳴りながらも、つい笑ってしまった。

 本当にこいつは、明るい性格だよな。明るいというかバカというか。


「あいた!」


 バチン、と痛そうな音。

 晶がボールを蹴って、それが至近距離の王子のお尻に炸裂したのだ。仕返ししたのだろう。


 しかし、やっぱり久樹は凄いな。

 この前の大会では、初戦の、しかも前半のうちに退場してしまったものだから、実力を披露する機会がほとんどなかったけど、今度の大会は、相当に期待してもよさそうだ。


 他の二年生たちも、久樹とは比べられないけど、日々の練習で着実に実力を上げて来ている。


 一年生たちだってそうだ。王子も、春奈も、成長している。

 佐治ケ江も、以前はおどおどとしたプレーばかりだったけど、最近はそれなりに自信のあるプレーも、少しは出せるようになってきた。


 自慢するわけではないのだが、わたしが部長になってから、チームは全体的な底上げに成功していると思う。

 客観的に見ても、たぶん。


 もっと色々な組み合わせを試して、連係面ももっと高めていきたい。

 その組み合わせの中には、わたしも入る。

 自分のことも客観的に捉えて、自分が駒としてどう役立つのかを判断しないとならない。

 自分が出ないことで勝てるのなら、出られなくたっていい。

 それが嫌だというのなら、しっかりと練習して、チームに必要な存在になればいいだけだ。


 まあ、フットサルは疲労の激しさから交代が多い競技だし、うちは部員も多くはないし、それを考えれば、相当に怠けてない限り試合にまったく出られないなんてことはないだろうけど。


 紅白戦の最後の五分、わたしもちょっとだけFPとして参加してみた。

 最初はちょっと不安だったけど、足の痛み、大丈夫だった。


 みんなの方が気を遣ってしまったようで、わたしに対して激しく来ることが出来ず、そのおかげかゴールを決めることも出来た。


 まあ理由はどうあれ得点は得点、有難く頂戴しておこう。

 久々にボールを蹴ったけど、やっぱり、フットサルは楽しいよね。


     2

「なあに久樹、さっきのあの余計な得点はさあ」


 部活も終わり、すっかり暗くなった冬の帰り道。

 わたしとはまむしひさあぜけいの仲良し三人組は、冬の制服姿に大きなバッグを背負って、通学路を歩いている。

 通学路といっても、単なる田舎の山道。帰り道は、ひたすら下山である。


 なにが余計な得点かというと、先ほどの紅白戦では三得点と大車輪の活躍をした久樹だが、しかし、うち一点は自陣へのゴール。いわゆるオウンゴール、自殺点だったのである。


「だってさあ、後ろでフサエが漏れそうなんじゃないのって真っ赤な顔してムワックスコーヒーパワー! なんて唸ってんだもん。なんかだかおかしくなっちゃって」


 公式戦じゃないから記録に残らないとはいえ、自身不服なのか、口を尖らせて弁解をしている。


 そうか、それが原因で、頭でクリアしようとしたのがつるりと滑ってゴールに入ってしまったのか。


 夏木フサエはわたしたちと同じ二年生。

 マックスコーヒーという、千葉県でやたらと売られている練乳入り缶コーヒーが大好きで大好きで、大好きで大好きで、なにか飲んでいると必ずそれ。

 以前はみんなからよくからかわれていたのだが、最近、誰もからかってこないことに淋しくなったのか自らネタ振りしてくるようになってきたのだ。実に鬱陶しいことだが。


「理由は分かったけど、しかしそれでオウンゴールとは。まだまだ精神修行が足りてないぞ、久樹」

「王子の変態行為にはすっかり免疫ついたと思ってたけど、フサエにしてやられるとは油断してたよ。梨乃はいいよな。久々だから気持ちよくボール蹴ってたし」

「まあね。ちょっとだけだし、第二ゴレイロ役はみんな景子に任せちゃった。景子さあ、腰の具合、どう?」


 畔木景子はわたしの声に反応して、穏やかな視線をこちらに向けた。


「だいぶ調子いいよ。もう全然痛みもないし」


 去年の秋、わたしは下校中に自動車にひかれそうになった。

 景子はその身代わりになって、腰部骨折の大怪我を負ってしまったのだ。

 骨折のレベルとしては、小さなひびが入った、という程度ではあったが、しかし場所が場所だけに、しばらくは絶対安静で、一週間も入院したのだ。


 わたしたちが大喧嘩をしていた時で、その件がきっかけで仲直り出来たのではあるが、でも景子に対して申し訳なく思っていることに変わりはない。


「ゴレイロ、結構良くなってきたじゃん。向いてんじゃないの?」


 申し訳ないから、と暗い顔していても景子も喜ばない。

 だからわたしは、そう冗談ぽくいってみる。


「うん、慣れると面白いよね。うまくキャッチ出来た時とか、飛び出しがうまくいった時とか、気持ちいいよね。梨乃がそういうなら、ゴレイロ専門になっちゃおうかなあ」


 景子はのんびりした口調でそういった。


「ダメ! 景子はFPじゃなきゃ。せっかくどのポジションも器用に出来るんだから勿体無い」


 わたしは自分で振っておきながら、景子のゴレイロ転向発言を棄却する。

 まったくの個人的な感想なのだけど、わたしは景子のドリブルをする姿が好きなのだ。

 柔らかく、滑らかなボールタッチが好きなのだ。

 ゴレイロじゃ、そんなプレーはほとんど見られないからな。弾丸のようなシュートボールが至近距離から容赦なくガンガン飛んでくるポジションだし。


「ゴレイロなんか、顔がぼこぼこになっちゃうよ、紅白戦ならともかく、対外試合なんかしてたら。晶に任せときゃいいの」


 別に武田晶に失礼なことをいったわけではないぞ。

 あの子は技術が相当に高いので、そうそう顔にボールなんか当たらないのだ。

 まあそれでもたまには顔面直撃で鼻血出してるけど。


「おい」


 声の飛んで来た方を見ると、制服姿の男子が一人、電柱に背中を預けて腕組みしている。


 ひょろりと長身、ぼさぼさ髪。たかミットだ。

 わたしが来るのを待っていたようだ。


「お、彼氏じゃん。じゃ、あたしら先行くから、仲良くゆっくり歩きな」


 久樹はわたしの背中を二回強く叩くと、景子と歩き出す。

 ちょびっと進んだところで、不意に振り返る久樹と景子。そして、久樹がぷっと吹き出した。


「浜虫、なにを笑うんじゃいコラ! クソチビが」


 ミットが足踏み鳴らして、漫画みたいに怒っている。


「だってさあ、二人とも、いつまでもギクシャクした感じなんだもん。見てるこっちがもやもやしちゃうよ。……さっさとぉ、路上キスしちゃえ」

「アホウ!」


 顔を真っ赤にして怒鳴るミット。

 わたしも心の中でまったく同じこと叫んでた。


「んじゃねえ」


 と、久樹と景子の二人は去っていった。


「なんだよあいつら、あいつらっつうかクソチビの方、真面目で純情な少年をからかいやがって。むかつくな」

「真面目じゃあないと思うけどなあ」


 ま、純情は純情かも知れないけどね。


「ここで待っててくれたんだ」

「お、おう。まあな。だって今朝、一緒に登校出来なかったしな」


 わたしと高木ミットは横に並んで歩き出した。

 離れてはいないけれども、密着ともいい難い距離。

 時折、手の甲がちょっと触れそうになるという程度だ。


 高木ミット。

 正式に表記すると、高木三人と書く。

 ミツヒトならともかく、ミットなんて変な名前だよな。

 紛らわしいからなのか、本人は大概の場合自分の名前をカタカナで書いている。

 わたしも、脳内ではカタカナだ。


 このひょろりと長身のボサボサ髪の男、一応のところ、わたしの彼氏という存在である。


 去年の暮れに告白され、付き合うことになったのだ。

 ただ、小学生の頃から、お互いに罵詈雑言を浴びせ合うような関係であったため、どうにもまだ、どう接したものか勝手が掴めずに困っている。


 おそらくは、ミットも同じ気持ちだろう。

 毎日のようにブスだのゴリラだのと罵っていた相手が、彼女になってしまったのだから。


 お互いに、どういう行動とればいいのかどころか、どういう喋り方で接すればいいのかすら分からない。

 その辺りを前もって頑張ってしっかり修正してから、告白してくれればよかったのに。


 歩き続けるわたしたち。


 ミットは突然つまらない冗談をかまして、一人でどわははと笑った後、


「本屋、行こうぜ」


 なんなんだ、この唐突というか滅裂とした言動は。


 ささいな言動ひとつではあるが、きっと脳味噌フル回転させた全力での提案なのだろう。


 もっと自然に話せよ。

 といいつつ、わたしもなに喋っていいか分からなかったから、話題振ってくれて助かった。


「なに、参考書? このまえ話してた」


 ミットは頷いた。


「そ。あとあれ、牛マークの、絶対出る英単語。あれ、いいってわらがいってたから」


 出版社は「ぜつたん」と略させたいらしいが、「ぎゆうタン」の呼び名が定着してしまっている英単語の学習書だ。


「あたしも、牛タンちょっと興味ある」


 わたしたちは、もうじき三年生になる。

 進路の目標が決まっていることなど当然で、大学に進学するのであれば志望校と具体的な受験対策をしっかりと見据えていないとならない時期だ。


 ミットはそのあたりに抜かりはない、というより、もともとが成績優秀だからさして悩むこともないのだ。


 わたしは全然だ。

 以前は、漠然と大学に行ければいいなと思ってはいたものの、実際のところその日の授業について行くのに精一杯で、とても具体的な進路を考えるどころではなかったのだ。


 これじゃあいかんと去年の暮れ頃から心機一転、勉強方法や良い教材についてなど景子に色々とアドバイスを貰い、最近ようやく学校の授業レベルに追い付き、大学のことを考えるゆとりが出て来た。


 昨日はミットにも数学を教えて貰ったし、頭がいいのが周囲にいると、悔しいけれども助かる。


 いま歩いている道は、狭く、薄暗い。

 昼でもほとんど陽が当たらず、鬱蒼とした山道だ。

 夜はいわずもがな。

 街灯のあるところだけ明るいが、間隔が空いているので、基本真っ暗。ただ、通る自動車の量が多いので、明るい時はほんとに眩しいほどなのだけど。


 わたしたち二人は、お揃いの赤いマフラーを首に巻いている。

 先週の下校途中に、ミットから手渡されたのだ。

 なんでも彼の手編みらしい。

 男のくせに、器用なものである。

 というか、わたしの立場がないよな。

 でもこれ、暖かくて軟らかくて、気に入っている。


 ようやく坂道が終わった。

 平坦にはなったけど、相変わらず道は狭い。


 さらに少し歩くと、町並みががらりと変わった。

 何百年も昔の世界にタイムスリップしたかのような、古い町並みになった。


 ここ佐原は、小江戸と呼ばれ、ささやかではあるが遠くから観光客の訪れるような土地なのである。


 わたしの家もミットの家も、山道の中腹にあるので、下校するだけならここまで下ってくる必要はない。

 しかし周囲にはあまりにもなにもないため、いったん下りて来て佐原駅近辺で時間を過ごすのが習慣になっているのだ。


 佐原駅の北側はかなり栄えているが、目的の本屋は南側の、ちょっと寂れたところにある。


 昭和といった店構えの本屋だ。


 真冬だというのにガラス戸が半分空いている。


 なお、お店の前には郵便ポストがあるのだが、大昔の、円柱タイプだ。昭和初期だか中期だかの。

 この周辺は、このようなポストが多い。

 駅舎の屋根も瓦葺だし、観光地としてわざと古臭い雰囲気を出そうとしているのだろう。


 さて、お店の中に入ると、カウンターで電卓をいじっていた店主のトクジさんが、頭を上げた。


「あ、梨乃ちゃん。ん……なんだ、やっぱり彼氏なんじゃないか」


 トクジさんは、にっこりと笑みを浮かべた。


「いや、あの時はまだ付き合ってなかったから」


 去年の秋、わたしたちが一緒にいるところをトクジさんに見つけられ、恋人同士と勘違いされたことがあるのだ。

 結局そうなってしまったのだけど。


 奥のコーナーで参考書を選ぶミット。


 とりあえず参考書選びはミット大先生に任せ、わたしは離れたところにあるスポーツ雑誌のコーナーへ。

 隔週発行のフットサル雑誌、新しい号が出ている。

 手に取って、開いてみる。が、ぱらぱらと、素早くめくってすぐ棚に戻してしまった。

 店主とよく知った顔だけに、買わないと決めている本の立ち読みは、どうにもやりにくい。

 結局ミットの横にくっついて、参考書選びについて教えてもらうことにした。


 なお、牛タンは置いていなかった。


     3

「ただいま~」


 開けっ放しのお店の入り口から、中に入った。


 時計を見ると、もう夜の九時を何分か過ぎている。

 外でミットと立ち話をしていて、すっかり遅くなってしまったのだ。


「お帰りういっしゅ」


 お父さんが、豆を煮ている大釜の前に立って、腕を交差させて変な顔している。もう古いよ、それ。


「あほか」


 チョビ髭オヤジの横を通り抜け、お店を抜け、家の中へと上がり込んだ。


「こら、ちゃんと玄関から入れよな。夜でお客さんいねえけど、店は店なんだからよ」

「いいじゃん、こっちのほうが近い」


 もう何百何千と繰り返された、お父さんとのこのやり取り。

 たぶん、わたしが結婚や一人暮らしなどで出ていくまで続くんじゃないだろうか。


 この通り、うちはお店をやっている。

 木村豆腐店という名の通りの、豆腐屋だ。豆腐を作って、ここで売ったり、料理店に卸したりしているのだ。


 吹けば飛ぶような、この木造おんぼろ家屋が、店舗兼住居だ。


 相変わらずの世界的規模の不況と、大豆価格の高騰とで、お店の経営はまだまだ厳しい状態である。


 たった一人の従業員であるヒデさんは既に帰り、お父さん一人で明日のための準備をしているところだ。


 わたしは部屋へ上がると、仏壇に線香をあげ、それからお風呂に入った。


 お風呂から出て、寝巻きを着る。

 髪をドライヤーで乾かすのが面倒なので、頭にタオルを巻いただけ。

 最近しゃれっ気も出てきたわたしであるが、反動か、家ではだらしなくなってしまう。


 居間の畳にじかに腰を降ろし、あぐらをかくと、座卓に置かれているビデオのリモコンを手に取った。

 録画しておいた、千葉テレビのサッカー講座番組を見るのである。


 しかし、いくらリモコンのボタンを押しても、テレビの画面は隅に「ビデオ2」と小さく表示されているだけの真っ暗なまま。

 ビデオデッキのランプや表示に、なんの反応もみられない。


「くっそ、またやられた。お父さん、このビデオもうダメだよ。電源入んない!」


 また、録画失敗してしまったようだ。

 時刻が何故かリセットされてタイマー録画出来なかったのはこれまでに何度かあったけど、まったく電源が入らないなんて初めてだ。

 だから前々から、新しいの買おうっていってるのに。

 時代はDVDどころかブルーレイだというのに、うちはいまだにVHS。ディスクでなくてテープだ。もちろん地デジなどではなく、アナログ。

 などなど愚痴るも、それらの違いをろくに理解していないのだけど。


 わたしの叫びにお店からやってきたお父さんが、リモコンの電池を入れ替えてボタンを押すと、見るも簡単にビデオの電源が入った。


「ダメなのは、お前の頭だろ」


 そういうと、お父さんは戻っていった。


 なんか……悔しい。

 何時代の人間だよと思う程に機械オンチなお父さんに負けてしまった。

 本当に平成生まれなのか、わたしは。

 でもビデオが無事だったのだから我慢しよう。壊れたところで、当面は新しいの買ってもらえそうにないしな。


 無事にサッカー講座を見終えることが出来たわたしは、二階へと上がった。


 二階には、わたしの部屋がある。

 趣味の物のほとんどない、おおよそ女子の部屋とは思えないような殺風景な六畳間だ。


 学習机につくと、カバンから教科書やノートを取り出した。

 まずは、学校の授業の予習復習だ。

 それが終わったら、受験のための勉強。


 以前は雨風問わず夜に必ずジョギングをしていたが、ここ最近はまったく走っていない。

 前述した通り、足に大怪我を負ってしまって、ジョギングどころではなくなってしまったからだ。


 中学生の頃から陸上競技をやっていて、走って肉体を疲れさせないとどうにも寝付けない体質になってしまっていたので、怪我した当初は、やはりなかなか眠れずに辛かったけど、それもすぐに慣れた。

 いまはその分の時間も勉強に当てている。


 でも、今週末からはジョギング再開するつもりだけど。


 フットサルと勉強は、両立させるつもりだ。ボールを蹴る以外に趣味といえる趣味もないし、充分可能だろう。


 さあ、勉強開始だ。


 就寝予定、午前一時。


 やるぞ!


     4

 思いもかけず、大きなあくびがもれた。


 もの凄くみっともない顔になっていたんじゃないかと思うけど、隣を歩くはまむしひさしか周囲にいないから、気にしない。


「朝っから眠そうだねえ」


 久樹はそういいつつ自分もあくびをしかけ、慌ててかみ殺した。


のを貰っちゃうとこだった」

「いくらでもあげるのに」


 わたしたちは、通学路を歩いている。

 冬の青空が広がる気持ちの良い朝、なのだが、鬱蒼とした木々に遮られてて、青空もなにもない。どんより薄暗い。


「今日は金曜日だからね。ほんっとに眠い。平日遅くまで起きている眠気が、毎日ちょっとずつ蓄積してるんだよね」


 でも、今夜はちょびっと早めに寝て、明日はちょびっとゆっくり起きるから、それでリセットだ。


「梨乃は最近勉強に対して真面目だよなあ。なんか淋しいなぁ」


 幼児みたいな可愛らしい声を出す久樹。

 似合わないよそれ。


「もともと真面目だよ。前々から、かなり勉強はしてた。危機感から嫌々だったけどね。もとの頭の出来が良くない上に、自己流で効率の悪いやりかたばかりしてたから成績悪かっただけ」


 先天的な頭の良さなら、たぶん久樹のほうが遥かに優秀だと思う。

 以前は我々二人とも同じような酷い成績だったのだけど、わたしは必死に頑張っていてその程度、久樹はろくに勉強してないので当然の結果。まあ、陰で相当努力している可能性もあるけれど、久樹の性格からして、そんなところで無意味な見栄を張ることはないだろう。


 後ろから、男女の話し声が聞こえてきた。

 聞き覚えあるなと思って振り返ってみると、やっぱりらくやまおりだ。

 わたしたちと同じ、フットサル部の二年生だ。


 織絵が、彼氏と腕を組んで、いちゃいちゃしながら登校だ。


 いいなあ……


 わたしはふと心の中で呟いていた。


「ん? なにがいいって?」


 久樹がこちらを見ていた。


「え、あたしなんかいっちゃった?」


 思っていることが、無意識に言葉に出てしまうことがある。

 わたしの悪い癖だ。

 いつなにを口走ってしまうか分からないから、爆弾かかえているようで嫌。将来生まれるわたしの子供や孫にこれが遺伝してしまったらと思うと、現在から申し訳なさで戦々恐々だ。


 そうか、いいなあ、とかいってしまったんだっけ。

 久樹は、言葉の意味を理解したようで、にーっといやらしい笑みを浮かべた。


「そうかそうか、そういうことか。まだ、なんかよそよそしい感じだもんねえ、梨乃とミットって」


 察しがいいな、相変わらず。

 しかたない。白状しちゃうか。


「……正直にいうとね、最近、そのことが悩みでさあ」

「慣れでしょうが、そんなもん」

「でも織絵なんて、付き合い出した時から、もうあんなだったじゃん」

「織絵は織絵、梨乃は梨乃」

「そうだけど」


 でも、それをなんとかしたいから悩んでいるのに。


「そもそも、はっきりと、付き合ってください、はい付き合いましょう、ってなったわけじゃないから、で、実際問題こんなだから、本当に付き合っているのかなあって考えちゃって」


 去年、わたしはたかミットに告白された。

 しかし、ミットはその恥ずかしさに耐えられず、こともあろうかその現場から逃走してしまったのだ。

 それから何週間もたって、偶然二人きりになってしまった時、もじもじと切り出そうとしてるミットの態度に痺れを切らしたわたしがOKを出した。

 と、ちょっとグダグダな、我々二人の恋人関係スタートなのである。


「じゃあさ、もうじきバレンタインだし、チョコあげて告白すれば」

「もともとあたしの方が告白されて、付き合うことになったんだよ」

「だから、仕切り直しみたいな感じでさ」

「なんだよ、仕切り直しって。意味分かんない」


 でも、久樹の考え、悪くはないのかも。


     5

「誰か、これを英訳して書いてみろ」


 そういうと先生は、黒板に白チョークで、問題文を書きはじめた。

 はす先生。すごいノッポの英語教師だ。


 いまは、英語の授業中である。


 蓮田先生とわたしの視線がぶつかった。


「木村、分かるか?」

「たぶん……」


 と、ちょっと自信なさげにいった。

 頭の中には回答が浮かんでいるものの、こういう場で答え慣れていないから。

 いままでは、身を小さくして指名されないようにするのに精一杯だったからな。


「それじゃ前に出て、書いてみろ」


 わたしはいわれる通り前に出て、黒板の前に立った。


 ピンク色のチョークを手に取ると、日本文の下に英文を書いていく。

 筆記体は苦手なので、ブロック体だ。どのみち下手な字であることに違いはないけど。


 手を動かしながら、ずるずると身体を黒板の右端まで移動させ、そしてチョークを置いた。


 不安気な表情で、先生の顔を見る。


「お、よく出来たな木村。正解。完璧」


 その言葉に緊張は一瞬で吹き飛び、そして、なんだかじんわりと嬉しさが込み上げてきた。


「おおー」

「天変地異の前触れか」


 などと男子たちから驚きやからかいの声があがる。


「なんだよ、あたしが正解しちゃいけないんか!」


 でも驚かれるのも無理はないよな。

 つい最近までのわたしは、赤点とらないようにするのが精一杯の、いわゆる落ちこぼれであったのだから。


 たかミットや、親友のあぜけいに色々と教えてもらって、最近ようやく、勉強の要領を掴めて来たばかりだ。


 最近、勉強することが苦痛でなくなってきた。

 いや、それどころか、面白いと思えることも増えてきた。


 わたしは将来、栄養士のような職につきたいと考えている。

 子供が好きなので、子供に食育など教えられればいいなと思っている。


 そうしたことは、これまでも漠然と考えてはいた。

 でも、それが自分の夢とまでは思ってなかった。


 最近になって、それが自分の夢なのだと確信し、最低でも大学は出なければと真面目に考えるようになったのだ。

 と、それが勉強への意欲が急激に上がった理由だ。


 それまでは、授業についていけないという焦りから頑張って勉強してはいたけれども、そもそもなぜ勉強しなければならないのかなんて考えてみたこともなかった。


 これって、成長かな?

 それとも、単なる方向転換?

 たぶん、フットサルもやり抜けば、はじめて「成長」といえるのだと思う。

 どうせ同じことするなら成長したと思いたいから、だから、フットサルももっともっと頑張らないとな。


     6

「くっそー、むかつくな!」


 部室で着替えをしていると、一年生のやまゆうが語気荒く、激しく足を踏み鳴らしながら入って来た。

 王子様とは思えないガラの悪さだ。


「なんで怒るのか、さっぱり意味分かんないんだけど、あたし」


 一緒に入って来たしのが、心底不思議そうな表情を浮かべている。


「なに? どうしたの?」


 わたしはそんなに興味はなかったのだけど、まあ、とりあえず、聞いてあげた。


「今日バレンタインでしょ。王子が、女の子からチョコ貰ったんですよ。なんと三個も。羨ましい。それなのに、王子ったら怒ってんですよ」


 亜由美の説明に、王子の怒りは再点火したようで、語気がヒートアップ。


「冗談でやってんのか知らねえけど、わけの分からん真似しやがって。女子むかつくんだよ! いつも、あたしがトイレ入ると、悲鳴あげるしさあ」


 まあ、そんなスポーツ刈りみたいな髪型していればな。

 わたしだって、何度もびっくりさせられたよ。


「王子の気持ちも分かるよ。女装の男がチョコ貰ったって嬉しくないもんな。せっかく乙女気分に浸ってんのに水を差すんじゃねえ、って」


 はまむしひさが、共感しているかのような真面目な表情で、王子の背中を叩いた。


「そうですよ。女装してんだったら、貰う方じゃなくてあげる方じゃないですか。……って、違うよバカ久樹! 女子が女子服着んの当たり前でしょが。女子が女子に、しかも絶世の美女たるこの裕子ちゃんにチョコなんか渡してくるから怒ってんですよ!」


 怒鳴る王子。


「あたしに怒ってもしょうがないだろ。つうか先輩呼び捨てにしてんじゃないよ。だいたいパッと見、どう考えても男じゃねーか!」

「手遅れにならないうち眼科行け! あたしほど女らしい女いませんよ!」

「お前の頭の中だけの話だろ!」

「ガッデム!」


 どちらからともなく、二人はまるでプロレスの試合のように、伸ばした両手を組み合った。

 力は均衡。いや、王子が有利か。

 しかし久樹も、先輩としての意地でじりじりと押し返す。


 と、王子は素早く組んだ手を振りほどくと、両手で久樹のほっぺをむにゅっとつかんだ。


「いててて、くそ!」


 同じ攻撃をやりかえそうとする久樹。

 しかし、


「届きませんねえ」


 身長と腕のリーチの差に、久樹の手は宙を泳ぐ。

 ニッと余裕の笑みを浮かべる王子であったが、しかし次の瞬間顔を苦痛に歪めた。


「あいたた、久樹先輩、痛い!」


 久樹が、王子の腕を思い切りつねったのだ。


 わたし、これまで十七年間生きてきたけど、バレンタインのチョコが発端でこんな争いしてる奴ら、見たことない。


 そう……今日は、バレンタインデーなんだよな。


「王子! 遊んでないで早く着替えちゃいなよ!」


 わたしは、声を大きくすることで、高ぶる気持ちが顔に出るのを隠していた。


     7

 午後六時五十分。


 部活練習後の片づけを終えて、制服に着替えたわたしは、珍しく、他のみんなより一足お先に部室を出た。


 部室は体育館の裏側にある。

 そこから出て、すぐのところにある通路を、そのまま体育館沿いを進む。そして、角を曲がったところに、たかミットの姿を見つけた。


 わたしが、部活終了後にここで会おうと伝えておいたのだ。


「ごめん、待った?」

「いや、おれもいま来たとこ」

「ほんと? それならいいけど」


 わたしたちは、並んで歩き出した。

 並んでといっても、肩寄せ合うほどではないけど。


 体育館をさらにぐるりと半周して、北校舎の裏側へとやって来た。通路から逸れて、北校舎沿いを少し進む。


 心臓、ドキドキしてきた。


 これからわたしは、ひさ提案の作戦を実行に移すつもりでいる。


 そう、『チョコを渡して改めてこちらから告白大作戦』だ。


「このへんで、いいかな」


 わたしは立ち止まった。


「あのさ、今日会いたかったのは、これを」


 と、チョコを取り出そうとバッグに手をかけた瞬間、


「これ受け取れ!」


 と、高木ミットは、背中側に隠していた小さな箱を勢いよくさし出して来た。

 青いリボンの結ばれた、小さな紙の箱だ。


 なにそれ、

 え、

 ひょっとして……


「逆チョコだ!」


 自分でいってるし……


「前によ、あのよ、告白したの、すごい中途半端で、気になってたから。だから改めて、いうよ。……おれと、付き合ってくれ」


 しばし見詰め合う、わたしとミット。

 いや、しばしどころではない。十五秒以上は無言になったと思う。


「嫌か?」


 ごくり、とミットの唾を飲み込む音が聞こえた。


 嫌もなにも、もうとっくにOK出したから、こうして付き合っているわけなのだが。

 でも、こういう場で、果たしてなんといえばいいのか分からなくて、だから声が出ないわけで。


 でも、ミットの顔を見ているうちに、ようやく落ち着いてきた。


 心臓のドキドキは相変わらずだけど、でも、それがちょっと心地よくなってきた。


 わたしは、自分のバッグの中に手を入れると、赤いリボンの結ばれた箱を取り出した。

 もちろん、バレンタインのチョコレートが入っている箱だ。


「これ、答え」


 箱を、そっとミットに手渡した。


「こちらこそ、よろしくね」


 チョコの交換会になるなんて、思ってもいなかったよ。


「あ、ああ。よろしくな」


 ミットは、右手を差し出してきた。


 まるで握手でも求めてるような仕草だが、わたしは、両腕を伸ばすと、その手を包みこむようにそっと握った。


 心臓のドキドキが、激しくなった。


 また、わたしたちは、見つめあった。


 と、その時である。


「先輩たち、おめでとさあん!」


 北校舎の、廊下の窓が開いたと思うと、ほとんど同時に山野裕子が身を乗り出して来た。

 その後ろには、篠亜由美や夏木フサエ、衣笠春奈の姿も。


「梨乃、やるじゃん!」


 フサエがニヤニヤと笑っている。


 わたしは、自分の頭に血がのぼっていくのを感じていた。

 たぶん、顔、真っ赤になってる。


 こいつら……いつからいたんだ。


「逃げろ!」


 わたしはミットの片腕をぐいと引っ張って、全力で走り出した。


 バッグが揺れて走りにくいけど、そんなこといっていられない。

 早く安全圏に辿り着かなければ、たぶんわたし、恥ずかしくて死ぬ。絶対、心臓止まる。


 わたしがミットに渡したのは、ミルクチョコレート。市販の高級チョコを、溶かして、ハート型に固め直したものだ。


 ミットから貰った逆チョコは、まだ開けてないからどんなチョコなのかは分からない。

 でも、どんなチョコだろうと、ひとつ確実に分かっていることがある。

 気恥ずかしさに、心にほんのりと苦いだろうということだ。

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