誤った衝動
終業式も終わると寮生も続々と帰省し、2、3日のうちに寮も空になり、4月の始業式の前まで閉寮になる。
ほとんどの寮生が帰省し、寒々とした食堂で夕食を取っていた。
「亮一はいつまでいる気? お父さんもお母さんも、首を長くして待ってるんでしょ」
わざとぞんざいに話しながら、実和がオレの傍らに寄ってくる。
「オレ一番最後に帰るから… 閉寮日当日に」
「何、またお父さんと喧嘩でもしたの」
実和が顔をゆがめる。
「この間、ケンさん送って行った時、サネカズさんのことよろしく頼むって言われたから… 言われたばっかだし、一応最後までいる」
実和を見ると、予想もしなかった言葉に不意をつかれたのだろう、瞬時に固まって立ち尽くしている。両頬だけがぴくぴくと不規則に動き、笑いたいのか泣きたいのか判別不能な顔になっていた。
「泣くなよ。嬉しさのあまり感激して泣かれても迷惑だし」とぞんざいに言う。
実和は何度か目を瞬かせると、いつもの自分を取り戻したようだった。
「もうあんたは。大人をからかうんじゃないよ。やっと2年生のくせに。余計な事考えないでとっとと帰りな」
照れを隠すように、さらにぞんざいに言い捨てて行ってしまった。
その日の夜、部屋でビートルズの「レット・イット・ビー」をエンドレスで聴いていた。
ビートルズは父が若い頃、夢中になって聴いていたロックバンドだ。
「この曲は、ポールの死んだ母親が、夢に出てきて語ったことを歌詞にしているんだよ。『すべてあるがままに受け入れなさい』『神の御心のままに』とね」
父から聞いた時は、何があっても逆らうなと理不尽なことを言われているようで、不機嫌な顔でただ黙っていた。
しかし、その曲を実際に耳にすると、とても切なく優しい調べと、ポールの少し高めで柔らかく暖かい声は、胸の奥深いところに素直に響く。突き刺すようにあった母の死という現実も、穏やかにゆっくりと体の中に溶け込まれていくような、不思議な感覚を覚え自然と涙がこぼれていた。
あの時、涙を拭ってくれた父の手のごわごわとした、しかし暖かな感触が頬に今も残っている。
柔らかく甘い歌声を聴き、ゆっくりと頬に手を当てると、父の気持ちも理解できるような気がした。
父もまた母の死が受け入れられなかったのだろうか。心に空いてしまった穴を埋めたくて、瑠美と再婚し子供を作ったのだろうか。それが父の生きる
「残酷だな…」と呟いていた。
人は残酷なことを積み重ねて生きていくのだろう。死んでしまった人を置き去りにして生きていくしかないのだから。
いつの日か… 亮二が言葉を話すようになる頃、彼に合わせて瑠美のことを『お母さん』と呼べるかもしれない。その時瑠美は、また目にいっぱい涙をためるのだろうか。
冬休みに帰った時、目に涙を浮かべて「ありがとう」と言っていた瑠美の顔が浮かんで、ふっと笑いが出る。
その時、ノックもなくいきなりドアが開いた。
実和が立っている。
血の気が引いた強張った実和の顔に、とっさに立ち上がった。
「蒼葉くんが… 蒼葉くんが…」
言うなり実和が床に崩れ落ち、両手で顔を覆う。
「蒼葉がどうしたの」
実和は沈黙したまま肩を震わせていた。
「蒼葉に何かあったの。実和さん!」
思わず、うずくまる実和の背中を大きく揺らしていた。
実和がゆっくりと覆った手を外すと、苦痛にゆがみ深い皺を刻んだ顔が表れる。
「自殺したって… 帰省途中の電車に飛び込んで」
そう言うと嗚咽をこらえるように、両手で強く口を押えて再びうずくまった。
蒼葉が死んだ? まさか!
にわかには信じられない。
「嘘だ… 誰が言ったの、そんなこと。あいつのことをまだ悪く言ってるやつらの悪い冗談だ。そんなの軽く信じるなよ。しっかりしろよ、実和さん! オレは信じないよ、絶対信じない!」
オレ自身が一生懸命自分に言い聞かせるように繰り返していた。やがて言葉も途切れ、沈黙と実和の荒い息だけになる。
いくらか落ち着いた実和が顔を上げると、しばらくの間に数年分の年を取ったようにやつれていた。
「誰かの噂じゃないよ」とゆっくりと話し始める。
わかっている。だが、どうしても信じられない、信じたくない自分がいた。
「蒼葉くんのお母さんに電話したのよ。元気でやってるかどうか気になって… そうしたら…」
実和が言葉を詰まらせる。
自然と実和の背中に手を回してさすっていた。
実和に少し笑みが戻り、「ありがとう」と消え入りそうな声で言う。
「もう親族だけでお葬式も終わってるそうよ。転校する前に色々あったから、知らせるつもりはなかったと言ってたわ」
「なんだよ、それ。もう会えねえじゃねえか… なんだよ… バカヤロウ… チクショウ… 許さねえ…」
息が乱れると、今度は実和がオレの背中をさすってくれる。ゆっくりと上下させる実和の温かな優しい手が、涙腺をゆるませる。
「あんまりだよ… 誰も見送れなかったなんて… あいつが可哀そうだよ… いつもおどおどしてる寂しがり屋なのに… すぐに涙を流す泣き虫なのに… あんまりだ… ひどすぎる…」
「電車に飛び込んだから、お母さんもご遺体は確認できなかったんだって。それだけひどい…」
そこで実和も耐え切れずに手で顔を覆う。
少し薄い茶色の瞳をキラキラ輝かせて笑っていた蒼葉の顔は、戸惑うほどに美しく可愛かった。
あの蒼葉が電車に飛び込んだ…
背筋にゾクッと鋭い痛みが走り体が振るえる。
「…バカヤロウ… なんでだよ… バカヤロウ」
力なくそう呟いていた。
長い沈黙の後、実和が静かに口を開いた。
「お悔みに行くけど、亮一も一緒に来る?」
オレは力なくうなずいた。
「だって会わないと信じられない。たとえ骨になってても… 悪い冗談聞かされてる気がして… 行ったら人懐っこい笑顔で迎えてくれるような気がして…」
「そうだね。さよなら言わないとね。残された者が生きていくために」
「また残酷が積み重なる…」
「何?」と実和が訊く。
「何でもない。残された者は、あるがままを受け入れるしかないんだよな」
「そうよ。そうやって自分を騙し騙し、傷なんて深くないと勘違いさせて生きていくの。それが人生なのよ」
大きく息を吐くと実和が立ち上がった。
「残酷な寮母だよね。抱えきれなくて寮生に泣きつくなんて…」
自嘲の笑みを浮かべる実和に、首を横に振った。
「さっきはごめんね。2年生のガキのくせになんて言って」
「サネカズさん、『ガキ』が追加されてる」
「サネカズさんじゃない、実和さん」
実和は悲しみを抑えるように、口元に薄い笑みをたたえて、いつもの軽口を残し出て行った。
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