ZOO
ダイナマイト・キッド
第1話
はじめは、軽い遊びのつもりだった。お互いに決まった相手が、私には妻と子供が居て、彼女にも恋人が居た。全てわかったうえでの単なる遊びのつもりだったのだ。その気持ちが揺らぎ、やがてわが身を焦がす恋慕と嫉妬の炎がここまで激しく燃え上がるとは、あの時の私にはまったく想像もつかないことだった。
その日も舞浜市はよく晴れていた。私のいつまでも鬱屈とした気分とは裏腹に、梅雨を終えた空は連日透き通る様な青色をして広がっている。もうすっかり、夏なのだな。
私は3歳になる娘の真理の手を引きながら、買ったばかりの白いサルーンにカギをかけて歩き出した。その一歩後ろを、うつむきがちに妻が歩いてくる。この妻には絵理という美しい名前があるのだが、気が付けばここ数か月、この女を名前で呼んだことはなかった。専ら、おい、とか、なあ、というだけであった。そういえば妻の方も、かつてのように私を名前で呼ぶことはなくなっていた。
妻は最近、事あるごとにため息を吐いては何か言いたげな視線を斜め下に落とし、黙ってじっとしている。娘が保育園に通いだし、自分も働くようになったこともあってか、どうやら色々と思うことがあるようだ。だがそれは私が一番苦手で、ハッキリ言えば嫌いな仕草だった。何度も何度も、どうかしたのかと聞いて、話し合おうとしてきた。だがそのたびに、妻は「なんでもない」「大丈夫」と言って、また俯いてため息をついた。私はそのたびにひどく落胆し、心配もし、そしてついに苛立ちを覚えるに至った。私はまどろっこしいのは嫌いだし、思う事や希望があるならハッキリ言って欲しかった。愚痴でもなんでもいい。黙っているから何なのだ……自分だけが疲れているような口ぶりで、何かと私を束縛するくせに、私に何かを訴えたいくせに、何も言わないでいるくせに。それでお前の何に気づけというのか。
そしてふと気が付いた時には、私はもう、以前ほどこの絵理という女性を、好きでも愛してもいなかった。私にだって妻の本当の気持ちはわからない。だが、妻も以前ほど私に愛情と期待を持ってはいないだろう。それはお互い様だ。そんな風に考えるようになった時点で、きっと私たちは夫婦としてはすっかり終わっているのだ。
娘の真理はそんな夫婦の間に流れる不穏な空気を知ってか知らずか、久々の家族そろっての外出がうれしいらしく、手をつないだままぴょんぴょんと飛び跳ねている。ニコニコ微笑むその屈託のない笑顔を見ていると、少しだけ胸の中が苦しくなった。生まれたばかりの頃の娘はまるで天使のように見えたが、最近は牢名主のように思える。結婚という牢獄に、薬指に巻き付けた鎖で私ともう一人の囚人を閉じ込めておくように監視する役だ。
この子が生まれると聞いて、私たちは結婚した。いわゆる「できちゃった」というケースだったが、それでもその当時は妻をしみじみと深く愛していたし、私は何があっても自分の子供を手放すつもりはない。そのような事態になることもしないつもりだった。子供のころ、父親による理不尽な暴力や中傷を散々に浴びて育った私には、そのような男親に育てられてしまったからこそという思いが強く、それだけは今も変わらない。だが、実際は子供を愛する気持ちと、妻への冷めた感情のバランスが取れず、気が付くと私はいつも自分から娘にべったりくっついていた。
傍から見たら、随分と子煩悩で素敵なパパに見えただろう。休日はいつも一緒に居て、二人でしょっちゅうお出かけをしている。男親にしては子供の面倒をよく見ていると、いつも近所のおばさん方や友人たちにも褒められる。だが本当のところは違う。まあ娘を愛しているのは本当だから、私に対するその印象は正確ではないというべきか。ただせっかくの休日に妻と一緒に居たくないから、娘と遊ぶのを口実に妻には「たまにはのんびりしてはどうだ」などと言って、私の方からなるべくそばに居ないようにしているだけだ。
郊外に新しく建てられたばかりの舞浜市動植物公園「アニマルランド!」は、国内有数の敷地面積に沢山の珍しい動植物と恐竜の化石が展示されていて、さらには市近郊で唯一の遊園地もある人気スポットだ。そのために駐車場もだだっ広く、混雑するときには端っこから5分以上歩かなくてはならないほどだった。
娘はそんな長い道のりさえ楽しくて仕方がないといった感じで、歩道のわきに生えている花や草を摘んでは母親に手渡してニッコリ笑った。その母親、つまり私の妻も笑った。あの頃あんなに可愛いと思った妻の笑顔には、少しも可愛げが感じられなくなっていた。
私は何故、今日に限って妻も連れてきてしまったのだろう。いつからか、休日になると娘を連れて一日中遊びまわり、車でドライブをしながら娘の昼寝も済ませてしまうことが増えていた。私は妻と一緒に居たくなかったし、妻は運転もロクにできない割に、長時間のドライブは「座っているだけでも疲れる」などという。運転していてこれほど楽しくないセリフはあるまい。以来なるべく、妻と一緒に出掛けないようにしていたのに。そんな私のじくじくとした後悔の矛先である妻は、娘と話すとき以外は相変わらず俯いて携帯電話の画面を指でなぞりながら、ただ黙って歩いている。
まあ、こちらからは何も話したいことはない。何も聞いてきてほしくない。娘のためにも離婚はしたくないし、子供だってもっと欲しい。が、もはや私は妻に対して夫として接することが出来なかった。少なくとも、そんな気が起きたことなど、妻の妊娠発覚以来一度もない。娘が生まれてしばらくした時、落ち込む妻に事情を聴き、その結果に気を使って無理矢理自分を誤魔化して接したことが1度だけあるが、後に残った倦怠感と嫌悪感を思い出すだけで嫌になる。何一つ燃えず、高ぶらず、ただ身体を動かすだけの悲しい行為だとしか思えなかった。私にとって、もはや結婚生活など耐え難い苦痛でしかなくなってしまったのだ。
なぜなら、その頃私はすでに妻以外の女性を愛していたからだ。そしてその気持ちは、今も衰えるどころかとどまることを知らぬまま、いい歳こいた私の心を焦がし続けている。
つづく
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