第6章 真実 その4
神殿内のざわめきとはずいぶんと異なり、街の中は静まり返っていた。夕暮れが近いとはいえ、まだ陽が沈むには早い。にもかかわらず、あたりには遊びまわる子供の姿もおしゃべりに花を咲かせる女性たちの姿もなく、ひっそりとしている。
扉も窓も固く閉ざされた街並みを、デュエールは全力で走り抜けていった。石畳の上に鈍く響く足音だけがデュエールの耳を打つ。
ルシータの中央にある神殿からひかれた石畳は周辺部へ離れるほどその密度がまばらになり、足元に土が見えてくる。それほど中心地から離れた場所にエルティスとデュエール、それぞれの家があるのだ。
森へ行くためには、そこを通ってさらに外へ行かなければならない。この通りの先にはルシータの共同墓地があり、そのすぐ傍にデュエールたちが森に入るためによく使う入り口がある。
横目でちらりとエルティスの家を見ながら、デュエールは通りを抜けてさらに外へ向かう。
エルティスの家は玄関の扉が開け放たれたままだった。だが、一瞬通ったときに見た限りでは、誰かがいる様子はない。もしエルティスがここにいるなら、神官たちが見逃すはずはないだろう。
ここにいないのなら。エルティスが姿を消したと考えられるのは、一ヶ所しかない。
エルティスがこのルシータで頼れるものは、片手で数える程度なのだ。十七年を一緒に過ごしてきたデュエールと、ずっと見守っていてくれた犬神と。あるいは面倒を見てくれたジュノンも含まれるのかもしれないけれど。
デュエールの傍にエルティスが現れないのなら、彼女は犬神のところへ行ったと考えて間違いなかった。
目の前に深緑の木々が見えてくる。犬神の統治する、祀りの森。
森の手前にある共同墓地が見えたところで、デュエールは唐突に足を止めた。
街の中にはなかったざわめきを、デュエールは聞く。
(遅かったか……)
デュエールが考えたことに、彼らも気付いたということだろう。エルティスのことをこのルシータで一番知っているのはデュエールだが、今は行動するのが遅かった。
そこには既に幾人もの先客がいたのだった。
森の入り口は、神官たちに包囲されていた。恐る恐る深い森の奥の様子を伺い、何かしら叫びあっている。
まずいな、とデュエールは心の中で呟いた。ここを通って森に入ろうとすれば神官と衝突になるのは確実だ。彼らが、エルティスがいるだろう祀りの森にデュエールを通すわけがない。
神官の一人が振り返りこちらを向きそうになったのに慌て、デュエールはすぐ傍の建物の影に飛び込んだ。わずかに顔を出して様子を伺うと、既に神官は森の方へ顔を向けていた。
街の最も外れにある建物の壁に寄りかかり、デュエールは考え込む。
森の入り口が、ひとつだけというわけではない。他の場所から入ろうと思えば入れる。デュエールが向かっていた場所が、もともと水源である湖へ行くために作られた道であり、<神の子>二人がよく使っていた道であるというだけのことだ。
そもそも犬神のいる場所へ行くためには、獣道を伝っていくしかないのだ。ただ、この入り口からなら簡単に行けるだけであって。
エルティスなら森の精霊の声を聞ける。彼女なら他の場所から森へ入ったとしても、彼らに道を教えてもらいながら犬神のいる場所へ比較的楽に行けるだろう。
デュエールの場合は、方向を見定めながらほとんど勘で行くしかない。かつてエルティスが言ったように精霊はデュエールに加護を与えてくれるのかもしれないが、彼はそれを受け取るすべを知らないから。
それでも、自分のしたいことを叶えるには行くしかない。迷うかもしれない、時間もかかるだろう。だがここで動かなければ、また同じことを繰り返す。
神官たちとの小競り合いを避け、別の場所から森へ入ろうとデュエールが建物の影から飛び出そうとしたとき。狂ったような悲鳴が彼の耳を打った。
「森に火を放て! <アレクルーサ>を生かしておくな! あぶり出せ!」
間を置かず、祀りの森の入り口に、赤々とした炎が燃え上がった。
勢いよく熱を吐き出す炎は一瞬にして入り口の木々を飲み込み、あっという間に黒く炭化させてしまう。
細い枝は炎が起こす風に揺られ崩れ落ちる。
緑色の葉は一枚として残らない。
風もないのに炎は次々と木々に襲い掛かり、一本一本を芯まであぶりながら奥へと徐々に広がっていく。その速さが尋常ではない。
――魔法だ。自然に生まれた炎が、自然の摂理のままに森を焼いているのではない。魔力により炎を操り、森を焦がしている。
幾人かの神官が呪文を唱え続けているのがデュエールの眼に映った。紅蓮の炎の明りを受け、その白い衣服を紅く染めながら、神官たちは一歩として動かない。
あまりの出来事に、デュエールは本来の目的も忘れて立ち尽くした。少し離れているにもかかわらず、頬に森を焼く炎の熱が届く。熱い風が、デュエールの髪を揺らした。
けれど、デュエールが立ち止まっていたのは一瞬。
「何考えてる!? 森に火をつけるなんて!」
かつてこの街を作った巫女と仕える者たちがこの地に移住することができたのは、この祀りの森とそこに護られた湖があったからだ。そんな誰もが知っているはずのことすら、<アレクルーサ>――エルティスへの恐怖は忘れさせてしまったというのだろうか。
力の限り叫んで、デュエールは前へ飛び出そうとして――できなかった。石畳がなくなりむき出しになった土を蹴ろうとして、後ろから止められたのだ。
「駄目です、デュエール! あなたが行っても神官たちは止められない……!」
後ろから抱きつく形でデュエールを止めたのは、ようやく追いついたらしいミルフィネル姫だった。
全力で止めたとしても、ミルフィネル姫は非力な女性である。デュエールが本気になれば彼女を振り払って神官たちのところへ向かうことはできる。だから、デュエールが動けなかったのは、彼女の言葉のせいだった。
デュエールは振り返りしがみつくミルフィネル姫を見る。目が合うと、ミルフィネル姫は必死の様子でデュエールに訴えてきた。彼女も走ってきたのだろう、息が上がっている様子が見て取れる。
「今、お母様もここに来ます。お母様が来れば、森を焼くのを止めさせられる」
ミルフィネル姫の言葉を聞いて、デュエールは視線を彼女からさらに後ろへ移した。
今デュエールが走ってきた、神殿へと続く通り。その向こうからこちらへ向かってくる人影がいくつも見える。
デュエールが着ているものと同じ白い装束は神官、やや華美に見える鮮やかな衣をまとっているのは女官。ゆったりとした長い衣を揺らめかせているのはおそらく巫女姫だろう。
ここを目指していることは確かだが、たどり着くまでにはまだ時間がかかる。その間に、どれくらいの森が炎の中に失われるというのか。
デュエールは歯を食い縛り前を向く。炎は未だに衰えることなく熱を吹き上げ森を焼いていた。だが、自分が行ったところでその火に油を注ぐようなものだ。彼らは、<アレクルーサ>を追い詰めるために炎を放ったのだから。
神官を止めるには巫女姫でなくてはならない――何もできず森が燃える様を見ているだけの自分が、歯がゆくて仕方なかった。
焦りから注意を逸らすように辺りを見回して、デュエールはそこで初めて気がついた。
森の入り口の傍には、共同墓地がある。若くして亡くなったデュエールの母親ももちろんそこに埋葬されているのだ。だが、エルティスの両親の墓は、その墓地からはやや離れた場所、森に近い場所に作られていた。
いつも新しい花が絶えることのない二人分の墓は、無残にも荒らされていた。盛り土は踏み荒らされ墓石は倒され、片方の墓石に至っては半分に割られている。それは故意なのか、それとも森を焼く騒動の巻き添えなのか。
(なんてひどいことを)
デュエールは顔をしかめた。誰がやったのかはわからないが、死者の冒涜としては充分だ。エルティスが見たら、どれほど怒るだろう。
「お母様……!」
ミルフィネル姫の声に、デュエールは我に返った。心配なのかまだ服の端をつかんでいる彼女の視線を追って、デュエールは巫女姫を見る。
「巫女姫様……」
デュエールの呼びかけに巫女姫は応えなかった。自分を見つめている二人を追い越し、巫女姫は神官たちの方へと歩いていく。一瞬見えた瞳は、昨夜見た冷たい瞳に酷似していた。
「巫女姫様、彼らを止めてください。このままでは森が失われてしまう!」
エルティスを助けたいのは当然だ。だが、それより以前に、森が失われれば<アレクルーサ>がいようといまいとルシータは存続できなくなる。
デュエールが叫ぶと、巫女姫はやっと立ち止まり二人を振り返った。
「……私にも止められるかどうか、分かりません。彼らが火をつけたのは、<アレクルーサ>に対する恐慌からです。根を絶たなければどうにもならない」
巫女姫の後ろで爆発するように炎が弾け、さらに大きく膨れ上がる。その風を受けて、巫女姫の長い黒髪が揺らめいた。
「<アレクルーサ>を生かしておくな!」
「あぶり出せ!」
その向こうから聞こえる怒声。だが、その叫びもデュエールの耳からは遠のいていた。
今、巫女姫はなんと言った?
自分でも神官を止められるかどうか分からない――デュエールの耳がおかしいのでなければ、確かに巫女姫はそう言った。
そもそも自分がミルフィネル姫との婚約を受けたのは何故か。それを要求した巫女姫自身が、自分の命は神官には絶対でエルティスを守ることができるとそう言ったからではなかったか。
神々のもとに、神官たちの誰一人、エルティスに手出しをさせないとそう誓ったからではなかったか。
今の言葉が巫女姫の本音とするなら、神々に誓ったそのことすら守る気がないということになる。ならば、デュエールの選択と決意はまったく無意味に――。
「……!」
あまりのことに叫びそうになったデュエールの頬を、何かが打った。さらにもうひとつ。
思わず手のひらを空に向けると、そこにも当たる、冷たい感触。
「雨が……」
気付けば、炎の熱は遠ざかり、いつの間にかデュエールたちは雨が降り出す寸前の湿り気の中に立っていた。足元の土がまだらに濡れていく。静かな音を立てて雨があたりを包み込んだ。
「火が消えてしまう……!」
あっという間に強くなる雨足に、デュエールの着ていた服は水を吸い込んでぐっと重くなる。雨が森を飲み込もうとする炎を叩き、火の勢いは少し緩んだようだ。
先ほどまであれだけ晴れていたのに、いつの間にこんな雨が降るような雨雲が現れたのだろうとデュエールは顔を上げようとした。
突然。
頭上から大量の水に襲われた。一瞬にして視界がきかなくなり、降り注ぐ雨が全身を痛みが出るほど乱打する。息もできないほどの途切れることのない痛みに、デュエールは頭を守るように上半身を丸くした。
水を限界まで張った桶をひっくり返したような大雨に炎は急速に力を失い消えていく。くすぶることもできないほど徹底的に水にさらされて、炎は完全に掻き消えた。
途端に雨は止んでしまう。沈下したのを見計らったかのようにぴたりと途切れた雨に、デュエールは眼を瞬かせた。一瞬の大雨でずぶ濡れになってしまった巫女姫や神官たちも同様のようで、呆気に取られた様子でその場に立ち尽くしている。
水気を吸い顔に張り付く髪を払いながら空を見上げたデュエールは、奇妙なことに気付いた。
頭上には、穏やかな青空が広がっている。緩やかな風に流れる白い雲がいくつかあるばかりで、先ほどの雨を降らせた雨雲の名残はかけらもない。嘘のような晴天だ。あれだけの量の雨を降らせた雨雲が一瞬にして消えるなど、考えられなかった。
「……雨じゃない?」
傾き始め暖かさの緩んだ陽光を浴びながら、デュエールは呟く。雨雲がないとしたら、今火を消したのは、雨ではないということになる。
森の方でざわめきが起こった。
「<アレクルーサ>だ……!」
神官たちが騒ぎ出したのだ。畏怖の混じった叫び。デュエールが神官たちの視線を追って森を見ると、木々の焼け落ちた痕に一人の少女が立っていた。
均一に波打つ銀髪をなびかせて立ち、銀色の瞳を煌めかせる少女。エルティスとまったく同じつくりをした顔でこちらを見据える彼女を、デュエールは一度見ている。
<アレクルーサ>。
ルシータを滅ぼすと予言された者。
祠から一人脱出してきたときと、それは同じ姿。
(違う。あれは、エルティスだ……)
それでもデュエールは違うと思った。あのとき銀髪で姿を現した<アレクルーサ>ではなく、よく知っているエルティスであると、彼は確信した。
ただひとつだけ。ただひとつだけ違うものがあるとすれば、それは少女が宿す感情だけ。
あのとき見た人々を見下した表情ではなく、誰かに対して純粋に怒りをあらわにした表情。一緒に過ごした時間の中で、よく見かけた表情。
それだけは、デュエールの記憶の中にあるエルティスそのもの。
ルシータに帰ってきてから、まだ一日も過ぎていない。それでも、デュエールはようやくエルティスと向き合うことができたのだった。
こんな形で再会することになるとは、デュエール自身にもまったく想像もできなかったのだけれど。
不安げに服の裾をつかむミルフィネル姫を背後に感じながら、デュエールはただ真っ直ぐ、エルティスを見つめていた。
自分の選んだことが正しかったのか、考えることもできなかった。
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