第5章 喪失 その2

「……!」

 なんとも言い表せない恐怖と喪失感に、エルティスは跳ね起きた。必死で空気を吸い込もうと息は荒く、額は珠を結ぶほどに汗をかいている。

 瞼の裏に燃え盛る炎がくっきりと焼きついたままだった。エルティスが思わず自分の身体を抱きしめると、もちろんどこも欠けたところはなかったけれど、身体ががくがくと震えていることがわかる。

「……夢。夢よね」

 辺りを見回し、明るいこの場所が間違いなく閉じ込められていた祠ではないことを確認して、エルティスは呟いた。

 まだ息は荒く、ゆっくりと肩が上下している。


 一度たりともあれだけの煙を吸い込んだ経験もなければ炎になぶられた覚えもないのに、まるで自分が体験しているかのように現実味がある夢だった。

 そして、夢の中で確かに抱いていた憎悪に近い憤りも、まるで彼女自身の中から生まれたもののようにごく自然に受け入れていた。

 夢とも思えない夢。

 額の汗をぬぐって、エルティスはため息をつく。


 しばらく経つと、だいぶ呼吸も落ち着いてきて周囲を見回す余裕も出てきた。エルティスはぐるりと辺りを見回す。

「ここ、どこだろう……?」

 エルティスは寝台の上に寝かされていた。身体がいくらか沈み込むふかふかの柔らかい布団で、彼女が生きてきた十七年、これほど上質の布団に寝たことはない。かけられていた毛布も、これまたエルティスには縁のないような立派なものだ。

 寝台から起き上がりエルティスは室内を一瞥した。

「……たぶん、神殿の中だよね」

 細かな細工がなされた椅子や卓、棚を飾る装飾品は、普通の家にはない。そもそもこの部屋の大きさがありえないか。

 これだけ飾り立てられているのなら、おそらくは来賓用の部屋だろう――エルティスは今まで入ったことがなかったが――。


「あたし、どうやってあそこから出てきたのかな……?」

 意識がなくなってからの記憶はもちろんない。自分で無理やり出てこられたのだろうか、それともあの神官たちが助けてくれたのか――とてもではないがエルティスにそんなことは考えられなかった。

 寝台が置かれているすぐ横は壁で、窓がある。壁に背中を向けて座っていたエルティスは振り返って窓を覗いてみた。

 空はまだ青かったが陽はだいぶ傾き始めており、昼はとうに過ぎていることがわかる。あと二、三時間で夕暮れになるだろうか。

 ところどころ白い雲が流れていくその速度は速い。あっという間に形を崩しエルティスの視界から消えていく。風はわりと強いようだ。

 閉じ込められたのは夕暮れも間近だった。少なくとも一日近くは経っていることになる。


 室内に視線を戻すとエルティスは寝台から立ち上がった。自分の様子を確認する。

 両手はすっかり薄汚れていて、着ている衣服も乾いてはいるものの泥がこびりついている――よくもまあこんな立派な布団に寝かせてくれたものだと感心するようないでたちだった。

 この調子なら、顔や髪も汚れているに違いない。だが、残念なことにこの部屋に鏡が見当たらないので確かめることはできなかった。エルティスに見える限り、髪の毛は土埃をまといせっかくの亜麻色が台無しだ。

「……とりあえず、助けてくれた人がいるなら、一応お礼を言わなくちゃ駄目だよね」

 相手の思惑がどうであれそれが一応の礼儀だ。この辺は姉の教育の賜物かもしれない。

 それでもまずここから出なければ何も始まらないとエルティスは扉に歩み寄ると取っ手に手をかけた。


「開かない……?」

 両開きの形をした扉は押しても引いてもびくともしなかった。作りからしてありえないが、試しに横に滑らせてみてももちろん動く様子はない。

 慌てて部屋の反対側、寝台へと走り、勢いよく飛び乗ると窓に手をかける。そして、エルティスが予想した通りにそこも開けることができなかった。内側の鍵はかかっていないから、外から固定されているに違いない。

 こうなってしまえば、エルティスであっても出るすべはなかった。室内のような密閉された空間から風霊の力でどこかへ飛ぶことはできないのだ。外への風の流れが存在しないから。

 閉じ込められている。

 その考えにたどり着き、エルティスは眉をしかめた。

 誰が――答など、わかりきっている。神官、あるいは巫女姫。

「一体何なの……!?」

 エルティスは怒りを感じずにはいられなかった。昨日の祠に続いて、ここでも閉じ込められている。



 彼らに敵視される理由なら、エルティスには確かに思い当たるものがある。

(滅びを呼ぶ"神の子"だから……?)

 それは、巫女姫が神々より受けたという神託だ。

 エルティスとデュエールは共に神々に愛された"神の子"。彼女らを慈しむことで、ルシータは繁栄を得る。だが、もしその絆に干渉することがあれば、ルシータには滅びがもたらされるのだと。

 その神託があるために、エルティスもデュエールも腫れ物に触るような扱いを受けてきたのだ。繁栄を呼ぶがゆえに邪険にできず、けれど滅びを呼ぶとも言われるがゆえに自分たちの中に受け入れることもできない。

 そんな中途半端な立場で、二人は十七年を過ごしてきたのだった。

 もし、自分がこうして閉じ込められているとしたら、同じ"神の子"の片割れであるデュエールは一体どんな扱いを受けているのだろうか。

 十七年が経ち、二人の"神の子"に対する対応はわずかに違ってきている。エルティスは未だに昔と変わらぬ包囲網の中にいた。それでも、デュエールはいくらかルシータの民に受け入れられるようになってはいたのだ。

 それが、巫女姫の娘であるミルフィネル姫のせいなのか、もっと別の理由なのかはエルティスには知りえないことだったけれど。

 ふと思いつき、エルティスは慌ててデュエールの視界を捜した。デュエールの見るもの、聞いているものを、自分の中に引き寄せる。


 目の前に、鮮明な光景が浮かびあがる。真っ先に飛び込んでくるのは、祭壇の上からこちらを見下ろしている巫女姫の姿。

『デュエール、前へ』

 エルティスが最後に見た、飾らぬ白装束姿ではない。普段より煌びやかな衣装をまとい、装飾品で身を飾る姿は、何年か前に見た婚姻の儀式での格好によく似ている。慶びの儀式で巫女姫がよくする姿だった。

 周りが簡素にではあるが花などで飾られているせいで気がつかなかったが、よく見れば彼らがいる場所は冠婚葬祭あらゆる儀式を行うための広間だ。

 視界が揺らいで、巫女姫との距離がわずかに近くなる。巫女姫の言葉に従い、デュエールが前へと進み出たのだろう。徐々に距離が近くなり、巫女姫の表情もはっきりと見えるようになると、エルティスは彼女が何故か満足そうな笑みを浮かべていることに気付いた。

(何かの……儀式?)

 エルティスの脳裏にふと嫌な予感が掠める。

 儀式を行う広間で、煌びやかな衣装をまとう巫女姫に仕切られ、デュエールが受ける儀式とは――。


 デュエールの視界が横にずれる。そこに映ったのは艶やかな長い黒髪の娘。

 巫女姫と同じように儀礼的な装飾の施された薄紅色の装束をまとったミルフィネル姫が、デュエールの隣に並んでいたのだった。いつも身につけている鎖の額飾りはない。

 デュエールの視界の中で、ミルフィネル姫とエルティスの視線がぶつかった。彼女はこちらを向いて微笑んでいるのだった。

 エルティスの中で嫌な予感が明確な形をとり始める。二人が並んでいるその意味は……。

「まさか……そんな……」

 思わず呟いた自分の声は、エルティス自身が予想したよりもはるかに掠れていた。口の中が渇いているのがよくわかる。耳障りなほどに響く、心臓が脈打つ音。


 視界が動いて、再びエルティスは巫女姫と向き合った。この人が言おうとする言葉が、エルティスにはなんとなく予想できる。そして、それは彼女が最も聞きたくない言葉。

 次の巫女姫の言葉が、嫌な予感を決定付ける一言になった。

『神々の前に、ミルフィネルとの永遠の絆を誓い、婚姻を約束しますか』

「婚約……っ!」

 エルティスの声が、誰もいない部屋に響き渡った。隣の部屋か通路に人がいれば、あるいは驚いたかもしれない音量だ。

 エルティスの『耳』には何の音も聞こえてこない。デュエールの視界もまったく動きを見せないままだ。

 ただ、彼が真っ直ぐ目を逸らさずに巫女姫を見ているということにエルティスは気付いた。デュエールの意識がとらえているのは巫女姫の姿だけで、他の光景はぼんやりとしてはっきりと見ることができなかったのだ。

 まだ、心臓の耳障りな音は止まない。むしろさらに響きを大きくしてエルティスの耳を打つ。

 長い長い沈黙の後に、デュエールはついに口を開いた。





 生まれたときからの幼馴染み。

 同じ神託を背負ったという、立場を一番理解しあえる人。

 一緒に過ごす時間が楽しくて、傍にいられることが幸せで。

 このままずっと、一緒にいられればいいと、――そう思っていた。





『はい。……神々の前に誓います』

 わずかな揺らぎもないデュエールの声が、広間に反響して響く。

 両手で思い切り耳を塞いでも、無駄だった。その言葉を聞いたのは、自分の耳ではないのだから。

 もう、自分の心臓の音も聞こえない。

 

 デュエールの返答を聞き届けた巫女姫は、続いて視線を横にずらし隣にいるはずのミルフィネル姫にも言葉をかける。

『ミルフィネル、あなたは神々の前にデュエールとの婚約を誓いますか』

『はい、誓います』

 デュエールは真っ直ぐ前を見たままだったから、エルティスは返事をするミルフィネル姫の表情を見ることはできなかった。それでも、彼女の声が弾んでおり、おそらく笑顔でいるだろうことは予測できる。

『では、婚約の証に、この飾環を』

 巫女姫は、傍らの台から銀の飾環を取り上げた。額の中央に来るであろう部分には、翡翠のような小指の爪ほどの大きさの淡い緑色の宝石が埋め込まれている。

 巫女姫は飾環を両手で捧げもつと、ゆっくりとデュエールへと向けた。デュエールはさらに前へと進み出る。

 視界が急に低くなり――跪いたのかもしれない――、そして、そのままゆっくり暗くなって、何も見えなくなった。

 




 ――失くした、なにもかも。

 自分の居場所も、楽しい時間も、この想いの行き場も――全部。





「……!」

 見たもの聞いたもの全て拒否するようにエルティスはきつく目を閉じて耳を塞ぐ。それでも、つい先ほどの光景は、頭の中に焼きついたまま消えることはなかった。

 扉も窓も硬く閉じられた部屋の中、エルティスの周囲に風が巻き始め、髪が舞い上がる。風霊が集まって風を起こし、エルティスを包み込んでいくのだった。

 あのとき祠の中で感じたような魔力の高ぶりを、エルティスは自覚する。このまま風霊の誘導に身を任せれば、窓や扉が閉まっていても風の力で好きなところへ飛んでいけることが感覚的に理解できた。

 どこでもいい、どこか別の場所へ――。

 エルティスは夢中で祈る。ここにはいたくない、どこか別の場所へ。ここから、神殿から一刻も早く離れたくてならなかった。


 一瞬宙に浮くような地面を失ったような感覚が全身を襲い、次の瞬間には穏やかな優しい風がエルティスの全身を包んでいた。

 エルティスは恐る恐る目を開ける。そっと手をはずした耳に、ざわざわと葉擦れの音が聞こえた。

 そこはエルティスのよく知っている場所。

 周囲は一面の緑。木々が薄くなりぽっかりと空いた広場のような空間。

 穏やかな陽光が降り注ぎ、周囲の木々が風に葉を鳴らす。目の前の大岩には犬神が大きな体躯を横たえていて。

 懐かしい場所。

 デュエールとの時間のほとんどを過ごした、犬神の護る森だった。

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