第2章 始動 その4
三十分の後には、エルティスは身支度をしてくれた女官に伴われて祠の前にいた。
といっても、軽く禊をして用意された服に――普段着る服とさほど変わりない――着替えただけである。
「行って参ります」
女官に軽く挨拶をすると、渡された神具を持ったエルティスは祠へと踏み込んだ。腰には神具を納めた袋といつも身につけている小刀代わりの短剣。手には炎を灯した松明を持って――祠内では一切魔法が使えないため。
石で固められ、エルティスが悠々と立ったまま入れる祠の入り口。
一歩踏み込んだ瞬間に、辺りから何かが引いていくのをエルティスは感じた。祠の中に陽が当たらず冷えるせいもある。だが、何より感じるのは、一瞬にして自分の周囲にいた精霊たちを感じることができなくなったことだった。
精霊と繋がりを持ち、力を借りるためには魔力が必要だ。洞窟の中で魔法が使えないというのは、どうやら間違いのない事実らしい。
(いざというとき、頼りになるのはこれだけ、ってわけか)
エルティスは腰に手挟んだ短剣に触れた。魔法が使えない以上、頼りになるのは自分の体にある力だけだ。無論魔力は別として。
松明で辺りを照らしながら、エルティスはゆっくりと明りひとつない祠を進んでいった。
入り口こそ立派だが、足場はまぎれる石や樹の根などで酷かった。途中天井が急に低くなり、腰を少し曲げて歩く羽目になる。
こんなところをよく巫女が歩くものだと、エルティスは感心してしまった。
ゆっくり一、二分ほど歩いたところで、一番奥の行き止まりに行き当たる。そこは今までの道とは違い、足元も壁も綺麗に作られていた。凹凸はひとつもなく、おそらく巫女姫が座る場所は磨いたかと思うほどに見るからにつるつるである。
壁際には、小さな祭壇。小さな神々の像と、両脇には明りを灯す場所があり、食物を捧げる場所もこしらえてある。
神々の像の前にはぽっかりと空間が開いており、そこに神具を置くことになっている。
エルティスは袋から神具を取り出すと、そっとその場所に置いた。
「これで、いいのよね?」
とりあえず、これで言い渡された仕事は終わりだ。ふと辺りの気配に神経を向けると、確かに先ほどよりは周囲に魔力の気配があるように思われた。もう少し魔力が満たされれば、あるいは精霊を感じることもできるかもしれない。
めったに来ることのできる場所ではないため、しばらくエルティスはその祭壇周囲をきょろきょろと眺めていたが、やがてひとつ欠伸をした。
「もう、帰ってもいいよね。仕事は終わったんだし」
そうひとつ言い置いて、エルティスは祭壇に背を向ける。歩き出そうとしたその瞬間、遠くでくぐもった轟音のような音が鳴り響いた。
デュエールは、馬に分け与えた後の水筒の残りを一息に飲み干す。
いつもの行程よりも休息をとらずに上がってきた。そしてこれが最後の休憩で、一度にルシータまで上りきってしまうつもりなのである。
まだ陽は高いところにあり、陽が暮れる前にはルシータに着けるはずだった。
「……少し、急ぎすぎたか」
手ごろな露出した岩に座り込み、デュエールはふと空を仰ぐ。呼吸もまだ荒い。もう少し長めに休憩を取っても大丈夫だろう。
――よく考えたら、ルシータに着いてエルティスに会ったら、言わなければいけないことがあったのだ。あの時言えなかったくせに、今また何も考えていない状態で、同じことを言えるのか。
足元の草を食む馬の様子を見つめながら、デュエールは軽くため息をつく。
風が吹き抜けて、二ヶ月の間にまた伸びた茶色の髪を梳いていった。旅立つ前の幼馴染の言葉を思い出し、デュエールの口元が綻ぶ。
『帰ってきたら、切るのね?』
真剣な眼差しで尋ねてくるエルティス、そしてそれに冗談を交えず答える自分。いつもと変わらないやり取り。
あの時間が、いつまででも続けばいい。続く限りは、きっと自分はルシータに帰るに違いないから。
そして、続けるためには、あの言葉を言わなければいけないのかもしれない。
「そろそろ行くか」
あまり休んでもいられない。ここで時間を使えば、それだけ帰り着く時間が遅くなる。
デュエールは勢いよく岩から立ち上がってまとわりつく草を払った。まだ草を食もうとする愛馬の手綱を引いて促すと、再びルシータへの帰路についたのだった。
出発したときとさほど長さの変わらない松明で目の前を照らして、エルティスは愕然とする。
「……嘘。そんな……」
閉じ込められた。
エルティスが悠々と通ることのできた祠の入り口が、ないのである。崩れ落ちた土砂に埋まり、入り口が潰れていた。隙間から一寸の光も差し込まない。
帰ろうとした瞬間、響いた音に嫌な予感はしたものの、まさか入り口が土砂で埋まっているとは予想していなかった。
「……どうするの、魔法も使えないのに!」
たとえ魔法を使おうとしても、周囲に魔力はない。自分が抱え持つ魔力を解放しても、それはすべて神々への繋がりのために消費されるために無意味。地霊の力を借りこの土砂をどけることも、風霊を呼び自分が外へ移動することもできない。
手元にあるのは松明と短剣だけ。掘り起こすには余りに頼りない道具に、そして鍛えていない自分の力。
仕方なく、試しに持っていた短剣を鞘のまま突き立ててみる。じぃんというしびれが、手に伝わってきた。
「駄目か……」
エルティスは痺れる手をぶらぶらと振りながら呟く。
むしろ外とのわずかな隙間を作る前に、祠の空気がなくなってお終いかもしれない。
その考えに行き当たり、エルティスは蒼白になって松明の明りを消した。
一瞬にして辺りが真っ暗になる。自分の手すら見えない。どこからも光の筋が見えないから、完全に埋まってしまったことがわかる。
「ここにあたしがいること、みんな知ってるのかしら……」
崩れた土砂に手を触れて、エルティスはぼそりと呟いた。手に伝わる土の感触は冷たい。
エルティスをここまで連れてきた女官は知っているだろう。彼女にここに来ることを命じた巫女姫カルファクスと、そこに同席していた老神官も。
――しかし、他に誰が知っている?
そして、このことを知っている人たちの誰が、彼女を心配するというのだろう。
そこまで考えたところで、エルティスは突然の悪寒に自分の体を抱きしめた。
顔を上げた先に、懐かしい門が見えた。やや疲れを訴えている足を奮い立たせて、デュエールは残りわずかな坂道を登る。
二ヶ月ぶりのルシータだ。
陽は既に傾き、山々の陰に消えようとしている。まだ空は青く明るいものの、しばらくすれば西から徐々に赤く染まっていくだろう。
厩に馬を繋いで、神殿に報告に行っても、まだ時間はあるはずだ。幼馴染みと話をする時間も充分あるだろう。
出発したときと同じように、デュエールはルシータへの入り口である扉を開いた。
一瞬、ひんやりとした風が外へと吹き抜けていく。
今まで感じたこともない静けさに、デュエールは眉をしかめた。周囲にまったく人気がないことに気付く。
彼の視界を『見』て、一瞬のずれもなくデュエールの帰還を把握し、いつも入り口付近で待っているエルティスの姿すらなかった。
(――エルティス?)
出迎える幼馴染みの姿もなく、辺りにはいつも聞こえるにぎやかな喧騒も響かない。赤みを帯びていく太陽に石畳が明るく照らされているだけ。
デュエールの脳裏に、麓で聞いたドラークの言葉が蘇った。
『ルシータの方角、なんだか嫌な空気が流れているし、油断しないことだ』
デュエールは辺りを伺う。人の気配はなく、何の音も聞こえない。空気はどこか張り詰めていて、ただならぬことが起こっているような、そんな雰囲気さえあった。
「いったい、どうしたんだ……」
デュエールは呟いた。もちろん、応えるものはない。
おかしいのは、ここに現れないエルティスだけではないのかもしれない。ルシータ自体に、何かが起こっている?
馬をそのまま放置するわけにも行かず、デュエールはまず厩へ向かった。馬を繋いで、神殿への報告はこの際後回しにして、誰か人を見つけなければ――。
デュエールが慌てて厩に飛び込むと、そこに居並ぶ馬たちはいつも通りだった。むしろ勢いよく飛び込んできたデュエールに驚いている様子だ。そして、彼が把握している限り、外へ出かけている以外に欠けている馬はいない。
所定の場所に自分の馬を繋ぐと、デュエールは馬に声をかける。
「ごめんな、体を洗うの、少し待っててくれないか」
触れた手に鼻をこすり付けてくるのを笑って撫で返すと、デュエールは厩を出ようとして、――動きを止めた。
厩の外、神殿の方へ急いで走っていく神官が二人。
追いかけて声をかけて、このただならぬ様子を聞けばいい。
しかし、その神官たちの会話を聞いて、デュエールは一瞬動けなくなったのだった。
「神の子が<祈りの祠>に入って閉じ込められたって!?」
「入り口の土砂が崩れたらしい、完全に埋まってるってよ!」
神の子。
このルシータで、その言葉で表現されるのは二人しかいない。そして、デュエールでないのなら、それはエルティスしかありえない。
「エルティス!?」
そして、既に姿のない神官たちに遅れて、デュエールは厩を飛び出したのだった。
――どうかずっとこのままで。
そんなささやかな願いすら、叶うことを許されない。
想いも、時間も、何もかも、動き出したものは――もう止まらない。
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