Epilogue 私たちの未来

 結局、引っ越しは一週間後になった。

 設置に手間のかかる家具がなかったため、引っ越しの費用は存外安く浮いた。スペースの都合でベッドではなく布団を買ってあったのが、こんなところで功を奏するとは思っていなかった。

 唯一大物の家具といえば冷蔵庫だが、薫さんのお店に引っ越す以上不要となる。どうしたものかと悩んだものだったが、意外な人が買い取ってくれた。

 大河内さんだ。しかも新品とほぼ同額で、である。

「丁度うちの冷蔵庫が調子悪かったからさ。いい機会だよ」

 引っ越しの小型トラックに荷物を詰め終え、出立まであと少しというところ。見送りに出てきた大河内さんは、カラッとした笑顔でしゃあしゃあと言ってのけた。

 先週の経緯を思えば、私もカナも心中穏やかではない。それを明らかに知りながら平然と接してくるあたり、やはり並外れた神経の太さをしているのだろう。

 見送りの場には根岸さんもいた。

「お早いお別れになっちゃったッスねぇ。折角お近づきになれたのに」

「すいません根岸さん。色々よくしてもらってたのに、大したお返しもできないままで」

 相変わらず丸まった背中の彼に、私は小さく頭を下げながら告げる。すると彼はひらひらと手を振って、

「いいッスいいッス、お互い様で。俺も傑さんの腹ぁ読めてて何もしなかったんで」

 軽薄な口調で言ってのけた。流石に私もカナも言葉を失い、唖然と口を開けた。そんな私たちに、根岸さんは含み笑いとともに肩を揺らす。

「また会いたくなったら、お店にお邪魔しますよ。勿論、傑さんを連れてきゃしませんから」

「えー、薄情じゃないかい?」

「そん時ゃよろしくお願いしますよ」

 大河内さんのぼやきをいとも容易く無視して、根岸さんが笑う。私はそれに呆れかえりながら、軽く頭を掻いた。

「もう世間話には付き合いませんから」

「残念ッスねぇ……ま、お元気で」

 憮然と吐き捨てた私に、やはり根岸さんは軽い調子のままそう言った。


 物が少なかったこともあって、引っ越し作業は割とすぐに終わった。さっさと荷解きを始めようか、と思っていた私たちだったが、外で再びエンジン音が聞こえてくる。事情を把握し、私とカナは一度顔を見交わしたあと、揃って部屋を出て一階まで降りていった。

「ん、なぁんだ。紗良たちのが先に着いてたんだ」

 業者が段ボールをせっせと運ぶ隣で、小雪が私たちに気づいて声をかけてきた。

「私たちもついさっき。タイミング被らなくてよかったわね」

「出てくときになってちょっと手間取ったのよ。別にトラブルってわけじゃないんだけど……」

「お隣さんに別れを惜しまれてね。あの人、小雪に気があったみたいだから」

 私が小雪と話しているところに、時雨さんも加わってきた。温厚な彼には珍しい、ちょっと不愉快そうな口調だ。

「賑やかになるわネェ~。昨日まで一人きりだったのが嘘みたい」

 そのうち薫さんが現れて、そんな風に声をかけてきた。見れば、小雪たちの引っ越し業者の人たちも揃って帰ろうとしているところだった。

 彼らに軽く頭を下げて見送った私たちは、改めて顔を突き合わせる。

 小雪と時雨さんに住み込みを薦めたのは私だ。『暴力屋』に連れられてここへ来たあの日、薫さんに確認をとって二人に伝えた。

 私たちと違って、二人はそれまでの住まいに大きな不満を持っていた様子はない。それでも二人はここへの引っ越しを決めてくれた。

 決断に至った理由は、私には分からない。けれど、自分たちの損得以上に、私が「来て欲しい」と呼びかけたのに応じてくれたんじゃないだろうか。そんな期待を持ってしまうのは、流石に勝手だろうか。

「にしても意外だったなぁ。普段はほんわかしてる割に場馴れした風に気取ってるカナが、「紗良と二人じゃ不安」なんて言い出すとは思ってなかったわ」

 からかうような小雪の台詞。時雨さんがカナを見ながら、慌てた様子で小雪の肩を引っ張っていた。一方で、私は小雪と同じく、ちょっと楽しみながら細い目でカナに視線を送った。

 カナは少し頬を膨らませながら、

「いいじゃない、それくらい……」

 と、小さな声で呟いた。

「カナがそう言ってる」と小雪たちに伝えたのは私だが、あながち嘘を言ったわけではない。住み込みを提案されたあの時点で、薫さんと小雪たちが結託している可能性は薄かった。となれば、二人が私たちと同居することになれば、仮に薫さんに邪な思惑があったとしても手出ししにくくなるだろう。そんな意図は確かにあった。

 そういう点でも、二人を巻き込んでしまった形だ。後ろめたさはある。けど結局、これから一緒に暮らしていく中で、その分を返していくしかないと私は思っている。

「それで誘ってもらえたっていうのも、僕は嬉しいけどな。それだけ信頼してくれてるってことだしさ」

 恥ずかしそうなカナの姿を見て、時雨さんは安堵混じりにそんなことを言った。

 その彼の片耳が、小雪の手で引っ張られる。たまらず時雨さんが悲鳴を上げた。

「いたたたた!? 何、今のも駄目!?」

「分かってるんじゃない」

「いや、分かってたわけじゃないから! いいじゃない今のくらいは!」

「いえ、あの、そんな風にカナに言い寄らないでくれますか?」

「上杉さんまで!?」

 流れるような足取りでカナと時雨さんの間に割って入りつつ、冷ややかな声で告げる。耳を解放された時雨さんが驚愕の悲鳴を上げた。それを見ながら、薫さんが口元を手で押さえつつ小刻みに震えていた。


 談笑を終え、部屋に戻って、私たちは荷解きを始めていた。

 実のところ、食器の類はこの先使うかも分からない。カナが外から持ってきてくれた包丁もだ。それでも、短い間ではあっても、二人だけで暮らしていたあの時間の名残りとして、残しておこうと決めていた。

 それらを箱に残したまま部屋の隅へ。着替えの類は別の段ボールに仕切りを入れた状態で、やはり部屋の隅へ。布団も隅に追いやって、部屋の真ん中にテーブルを出す。それでほとんど済んでしまった。

「はぁー、やっと一息ね」

 大したことをしたわけではないとはいえ、私は床に座ると足を投げ出し、そう呟いていた。引っ越しが完了したというよりは、ようやく『すいせん』を離れられたという気持ちの方が大きかった。

 何とはなしに天井を見上げる。

『嫌』だったから出てきた場所ではあるが、大河内さんを恨んでいるかというと、そうでもない。不思議なものだが、ただ相容れなかっただけ、と妙に割り切った思いになっている自分を感じていた。

 家賃を盾に交際を迫るという大河内さんのやり口は、間違いなく悪辣だった。擁護する気は全くない。それでも、恨むという感情は湧いてこないのだ。それはある意味、私も『特区』に馴染んできた証左なのかもしれない。

 と、そんなことを考えていた私に、無言でカナが近づいてくる。彼女は私の足をまたぐように膝立ちになると、床に手をつきながらしなだれかかってきた。

 間近で見つめ合う。細い髪の揺れる様がはっきりと見えた。

「……どうしたの?」

 何も言わないカナに、私は微笑みながら聞いた。もっとも、別に理由が返って来なくても構わない。ただ何か声を掛けてみたかっただけだ。

 カナはそれでも黙ったまま、私の目を覗き込んでいた。私もその目を、それ以上何も言わずに見つめ返す。しばらくそうしていたあと、カナはそのまま私にキスしてきた。

 啄むような、短い口づけ。私も今さら驚きはしない。唇が離れたあとも、微笑のままでカナの表情を窺った。

 キスを終えたカナは、今度はその腕を私の首に絡めてきた。そのまま一層強く私に身体を預けてくる。そして、

「――ありがと」

 私も自分の両手をカナの背に回しながら、ゆっくりと身体を横たえる。カナに押し倒されたような格好だ。少し驚いた様子で、カナが呼吸を乱すのが聞こえた。それが妙なくらい楽しくて、私は悪戯っぽく囁いてみる。

「じゃあ、お礼に何してくれるのかしら?」

 床に寝そべり、カナの驚いた顔を見上げながら、私は甘く微笑む。

 呆気に取られた表情を見せていたカナは、やがてゆっくりと私に圧し掛かりながら、か細い、ちょっと泣きそうな声で、

「はなさない……」

 言うと、私にしがみついてきた。

 カナの髪に頬と首筋を擽られながら、天井を見上げて考える。

 カナの言う「私たちの未来」はきっとこんな風に、行き止まりにしか見えなくて、それなのに手を伸ばしても届かない、そんな困難な代物かもしれない。

 それでも、私はカナと一緒に見たい――いいや、辿り着きたいのだ。いつかこの天井を越えた先、蒼穹のような場所へ。この部屋にやって来ただけじゃ、満足なんてできない。それだけのために、『特区』へやって来たわけじゃないのだから。

 たとえカナが足を止めようとしても、私はいくらでも頑張って、カナを実りある未来へ連れていく。そう覚悟している。

 だから、カナが私を離さないでいてくれるなら、それ以上に嬉しいことはない。

「うん。ありがと」

 そう言って、私は手探りでカナの頬に触れる。その顔を少し押しのけて、再び正面から向き合うと、今度は私から彼女の唇に触れた。

 さっきより少しだけ長いキスをして、唇を離す。淡いピンクに頬を染めたカナの顔を見つめて、私ははっきりと告げた。


「カナ。大好き――」

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