桃源鏡像
「ずるいよぉ、ずるいよぉ」
おや、どうしたんでしょうか。
女の子が鏡を覗き込んで目を真っ赤に腫らして泣いています。
そんなに泣いてしまっては可愛い顔も、整った眉も、さらさら流れる金の長髪も、台無しです。
可愛い女の子が、ただの泣いている女の子になってしまいます。一体どうしたのでしょうか。
鏡を見ればわかることです。
鏡の中に映っているのは、やはり可愛い女の子です。
しかし、映っているのは女の子だけではありません。
その部屋には沢山のお菓子や玩具、女の子がずっと欲しがっていた可愛らしいお人形さんも、
そのお人形さんが暮らしているファンシーなおうちだってあるのです。
まったくまったく不思議なことですね。
鏡の中の女の子は何も言ったりはしません、だってそうでしょう。
身だしなみを整えたり、歯磨きをしていたり、あるいは切ったばかりの髪の仕上がりを見る時に鏡がアナタに喋りだしたら大変なことになってしまいますものね。
「服装の上下のバランスがおかしくないかな?」
「ああ、磨き残しがこんなに……」「その髪型は似合っていないよ」
そんなことを一々鏡に言われたら、ううん……少しは便利かもしれませんが……
とにかく女の子がずるい、ずるいと言うのも当然です。
女の子がいる部屋には何もありません。何かを持っているのは鏡に映る女の子だけなのです。
ぐすんぐすんと顔を真赤にしながら、女の子が鏡に話しかけます。
「可愛い私、優しい私。どうかキャンディくださいな、一粒ころりとくださいな」
節を付けて歌うように、鏡に話しかけました。
もちろん、返事はないとわかっています。
それでも話しかけずにはいられないのが人情というものでしょう。
「一緒におままごとしましょ、私は何も持ってないけど、アナタが少しお人形さんを貸してくれれば、二人で楽しく遊べるわ。一人よりも二人のほうがずっと楽しいのよ」
女の子は鏡の向こうの女の子と楽しく遊ぶ光景を夢想しました、それはどれだけ楽しいことでしょう。
その妄想は少しだけ女の子を慰めます、しかし言葉は届かないのです。
それでも、女の子は言葉を紡ぎ続けるのでした。
「一人ぼっちは寂しいよ、お菓子もおもちゃも無いんだよ。
私は何も持ってない、少しは分けてほしいのに……」
声はどんどん細く、弱くなっていきました。
泣く元気だって無くなっていきます。鏡の向こうの女の子は少しも反応してくれないのですから。
「分けてくれなくても、いいよ。アナタと一緒に遊べれば。ともだちになりたいだけなのに」
堪らえようとしても涙がこみ上げてくる――女の子が泣き出しそうになったその時です。
鏡の向こうの女の子がこちらに手を伸ばしてきたのです。
女の子は鏡に手を添わせました。
何よりも薄くて、何よりも深い断絶がありました。
鏡の向こう側に行くことは出来ません。
それでも、ほんの少しだけ女の子は慰められたような気がしました。
◆
「おかあさん、おかあさん」
さらさら流れる金髪の髪、整った眉に可愛らしい顔。
まどろみに包まれながら、女の子が母親に尋ねる。
「どうしたの?」
優しい笑みを浮かべて、母親が応じた。
一日中、何個も何個も疑問を抱え込んで、この娘はベッドに入り込んで来るのである。
質問に答えるのが大変――そう思いながらも娘が可愛くてしょうがないのだ。
「鏡の中に世界ってあるのかなぁ」
「鏡の中に?」
「うん……鏡の中って色んなものが映っているでしょう」
「う~ん……どうかしらねぇ、あるといいわねぇ」
「もしもあったらね、鏡に映る私とおともだちになりたいの!」
「あるといいね」
湖に映る月を掴むことが出来ないように、鏡に映るものに実体は無く、
鏡に何が映っていようとも、実在はしない。
心の中でそう思いながら、娘の夢を壊さないように母親は言った。
「うん、きっとあるよ」
女の子が笑顔で言った言葉は、鏡の中には届かなかった。
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