第190話 働き者の彼女は雇い主を癒したい

 予想通り、朝から外は一面の銀世界だった。

 しかし夜にも振り続けたからか積雪深は予想を超え、自分の膝丈ほどの高さまでが新雪に覆われている。

 そんな中、僕はアポロニアと共に屋根に上り、ガサガサとスコップを振るっていた。


「すまないね、君の日だってのに」


「気にしなくていいッスよ。こういうのも、家があるからこそって思えば楽しいものッスから、よっと!」


 防寒用のコートとマフラーに埋もれながら、けれど彼女は鼻歌混じりに屋根から雪を落とした。

 それを下でファティマとマオリィネがどかし、あるいはポラリスが雪玉にして遠くへ飛ばしていく。なんとも変わった光景だ。


「そろそろ上は終わりかな。後は道だけ作っておくか」


「そッスね。じゃあ、これが最後――ッス!」


 落下位置に誰も居ないことを確認し、アポロニアは今までより一層大きな雪の塊を押し出していく。

 それは間もなく重力にひかれて落下しはじめ、下でそれを見ていたポラリスはその迫力に興奮して声を上げた。

 ただし、忘れていたこともある。


「うぃー……やーっとちょっと動けそうだぜ。雪かきは進んでる――か?」


「あ」「ちょっ!?」「おぉ」


 三者三様。

 ポラリスが呆然とし、マオリィネが口を覆い、ファティマが気の抜けた声を出す。

 それが何を意味していたか、きっとダマルは気づかなかったことだろう。

 どさぁという派手な音と共に、白い骸骨は白い雪に埋まった。無論、屋根の上に居た僕らは気づくはずもない。

 雪を落とした地点はガレージの勝手口前だったのだ。



 ■



「状況が読めない」


 シューニャが不思議そうに言うのも無理はない。

 寒さからか普段よりもゆっくり起き出してきた彼女は、朝から冷えた身体を暖めようと風呂に足を向けたのだろう。

 しかし風呂の扉を開いてみれば、いきなり浴槽に凍結した骸骨が浮かんでおり、それをポラリスとファティマが突いていたのだから。


「どうすれば人間が雪かきで凍結されるの」


「骸骨だから、なんともなぁ」


「そういう話じゃないと思うッスよ……」


 苦笑するアポロニアに、シューニャははぁとため息をついた。

 何故寒さに弱いのかはわからないが、雪に埋もれたダマルは叫び声を上げる事すらないまま一瞬でフリーズしている。

 それが失神という状態なのか、あるいはただ凍り付いて喋れないだけなのか。ぷかぷかと湯舟に浮かべられた骸骨は、最早出汁を取っているようにしか見えない状況だった。


「ダマル兄ぃちゃん、動かないね」


「多分そのうち動きますよ、ダマルさんですし」


「んー……それもそっか」


 根拠などどこにも存在しないファティマの楽観的な言葉に、しかしポラリスは何故か納得してひょいと立ち上がる。

 察する限り、骸骨を突いていることに飽きたのだろう。ファティマの手を引いて、浴室から駆けて行った。

 しかし自分たちまで彼女らを真似するわけにはいかず、アポロニアは手を腰に当ててむぅと唸る。


「どーするッスかね、コレ」


「目覚めるまで放っておくしかない、かな。なんせわからないことが多すぎる」


「それはいいけれど――今日、どうするの?」


 せっかくの朝風呂を台無しにされたはずのシューニャは、小さくふぅと息を吐いただけで不機嫌になるでもなくアポロニアの方へと視線を向けた。

 それは今日が彼女と向き合う日、として予定されていたからに他ならない。

 既に雪かきで時間と体力を消耗し、その上ダマルが不在では全員を外出させることもままならない以上、これは延期が濃厚かと僕は考えていた。そうでなければ、アポロニアだけにやや不公平感が残ってしまう。

 けれど、彼女が出した答えは真逆の物だった。


「この雪の中を外出してくれ、なんて言えないッスよ。まぁでも――そッスね、誰かちょっとだけ家事を代わってほしいッス」


「じゃあ、今日やる?」


「ダラダラ伸ばすのもあれッスからね。あ、ついでにちょっと、耳貸してほしいッス」


 何か思いついたように、アポロニアはこそこそとシューニャに耳打ちする。

 シューニャはそれを黙って聞き、彼女が離れてから委細承知とこっくり頷いた。


「ん、周知しておく」


「頼んだッスよ」


 そこにどういうやり取りがあったのかはわからない。けれど、シューニャは特に何かを質問することもなく、軽く踵を返すと浴室から出て行ってしまった。

 見送ったアポロニアはふぅと小さく息を吐く。それは安堵したようにも見えたが、しかし腰辺りで小さく拳が握られており、どうやら何かが思い通りに進んでいるらしい。


「一体何を?」


「おっと、そこは気にしなくていいッスよ。ただ1つ、ご主人に使いたいがあるッス」


 彼女は人差し指を軽く唇に添えながら、いいッスか、と首を横に小さく倒して見せた。

 その言葉と姿に僅かな不安がよぎる。しかし今日はアポロニアと向き合うのだと決めた以上、拒むのも違う気がして僕は1人唾を飲んだ。


「その、カード……っていうのは?」


 恐る恐る、言葉を紡ぐ。

 聞き返してしまえば最早後には退けないが、それでも僅かに身構えた。

 そんなこちらの姿を面白がるようにアポロニアは半眼になると、にんまりと口を横に伸ばしながら、ふふんと鼻を鳴らしてみせる。


「いつかのお礼、使ってもいいッスか?」



 ■



 エーテル機関が一定のリズムを刻んでアイドリングしている。

 機関排熱と電気暖房を併用する玉匣の中は比較的暖かく、ガレージの中という閉鎖空間で外気にも晒されない環境では中々に快適だった。

 しかしそんな快適さも、自分の緊張感を解すには至らない。

 何せ柔らかい太ももの感触が、彼女の穏やかな体温が顔に直接伝わってくるのだ。とてもではないが、玉匣の中という環境を気にしている余裕などなかった。


「ご気分はどうッスかー?」


「あ、あぁ……悪くない、よ」


 その上とても心地よい感覚が耳に加えられていたとすれば、最早他のことなど考えられようはずもない。

 人間用と称する木製の耳かきを手にしたアポロニアは、ふんふんと鼻歌を歌いながら耳垢を除去していく。

 これが彼女の告げたお礼の使い道だった。

 いつの間に耳かきなど買っていたのかはわからないが、準備完了と言わんばかりのアポロニアを前にして、恥ずかしいからなどと抵抗もできず、こんな現状が生まれている。


「上手いなぁ、意外な才能だ」


「失礼ッスね。意外とは何ッスか」


 寝台の下段に寝かされた僕が、座席に視線を固定したまま呟けば、アポロニアはムッとした声を出す。

 しかし別に彼女が不器用だなどと言うつもりはないため、違う違うと苦笑した。


「僕の耳はアポロのほど大きくない、ってことだよ」


 キメラリアの耳と人間の耳では、あまりにも大きな違いがある。だから同じ耳かきという言葉で纏めるには、少々無理があった。

 その上キメラリアが人間の耳に触れる機会は、厄介な常識の中で早々あるとも思えないため、意外な才能などという言葉に至ったのである。

 それを察したらしく、アポロニアはあぁと微妙な笑いを漏らした。


「ちょっとだけ、練習したッスよ」


「練習?」


 視線を動かさないまま疑問に身体を軽く揺すれば、アポロニアは耳かきを抜いてふぅと軽く息を吐く。


「マオリィネがポラちゃんの耳かきしてるの見て、ちょっとだけ手伝わせてもらったッス。最初は怪我させそうで怖かったんスけど、やってみたら意外とできるもんッスね」


「こ、怖いことを言うねぇ……」


 ようやく和らいで来ていた緊張感が再来し、僕は身体を僅かに強張らせた。

 練習しておいてくれてよかったとは思うが、1歩間違えば大騒ぎになっていたことだろう。

 特にいきなりポラリス相手というのは難易度が高そうに思える。何せ彼女はまだ子どもであり、ジッとしていることも難しいのだから。

 しかしアポロニアからすれば、悪戯をしているような感覚なのか、うへへと嫌な笑い声を耳元で響かせた。


「だ、か、ら、耳かきが入ってる時に動いちゃダメッスよぉ? 突き刺しちゃうかもしれないッスからねぇ」


「勘弁してくれ。いきなり聴力を失いたくない」


 いきなりの脅しに軽くすくみ上れば、彼女は打って変わってカラカラと笑い、ポンと僕の肩を叩いた。


「しないッスよぉ。ほら、もうこっちは終わったッスから、反対向いて」


 冗談になっていないと思いながら、僕は頭の向きを変えようとして、ふと気づく。

 頭の向きを変えれば視界一杯が彼女の下腹部だ。それが座った状態であれば、どういうことになるのかは簡単に想像できよう。


「い、いや、このまま反対に向くのは流石に――」


「もー、子どもじゃないんスからごねない! さっさと振り向かないと、プスっとやっちゃうッスよ?」


 木製の攻撃兵器が頭上で鈍く光ったように見えた。

 鼓膜を人質に取られている以上、抵抗などできようはずもない。それがたとえ羞恥を捨てることになってもだ。

 全面降伏となった僕は、錆びついたボルトを回すようにぎこちない動きで首の向きを変え、固く目を瞑った。それでも鼻には不思議な甘い香りが満ち満ちていたが。


「いい子ッスね……動いちゃダメッスよぉ」


 まるで姉か母のように、アポロニアは優しい声で言いながら上に覆いかぶさってくる。

 その際、彼女の大きな胸が頬にのしかかる形になったが、これに声を上げることもできず、ひたすら理性と戦うことになった。


「痛いとかないッスか?」


「いえ気持ちいいです。はい」


 陽気なアポロニアの声に、システム音声の方が滑らかに感じる返事をする。

 実際痛いなどということはなく、器用に彼女は耳の中をさらっていった。

 ただ、その気持ちよさとは別に色々と柔らかい感覚が襲ってきて、僕は頭の中でマキナの起動手順をひたすら繰り返していたのだが。


「はーい終わりッス。綺麗になったッスね」


「ぅお……あ、ありがとう」


 最後に軽く耳に息を吹きかけられて、ぞわりとこそばゆい感覚が背筋を駆け抜ける。

 それにビクリと身体を震わせたのが楽しかったのか、アポロニアは満足そうに、んふふ、と笑みを浮かべた。


「ご主人も可愛いとこあるッスねぇ」


「ふふ、なんだいそりゃ。誰にも言われたことがないよ」


 学生時代は目つきが悪いと言われていたし、軍に入ってからはぼんやりした表情と評されている。更に特殊部隊の頃には悪化して、薄い笑みが怖いなどと散々な言われようだった。

 時代が代わったことで見る目も変わるか、それとも自分自身の何かが変わったのかはわからない。

 けれどアポロニアにそう評されたことは、意外と嬉しいと思えて僕は小さく微笑んだ。


「変わってるな、アポロは」


 腹筋に力を入れ、頭をゆっくりと持ち上げる。

 すると、すぐに彼女の小さな手が伸びてきて、額をグッと押さえつけられてしまった。


「よければそのままで居て欲しいッス」


「うん? そりゃ嬉しいけれど、足痺れるよ」


 そう言いながらも、僕は抵抗することなく再びアポロニアの太ももに頭を下ろしなおす。

 ただでさえ膝枕は心地よいものなのだ。それを慈しみに溢れたような表情で、そのままでなどと言われて抗う気など起きるはずもない。

 しかし僕の言い訳に、大きな胸の影から見える彼女は、手を当てて苦笑した。


「普段から猫やらポラちゃんに乗っかられてると、言葉に重みがでるッスねぇ。痺れてきたらちゃんと言うッスから、心配無用ッスよ」


 優しく優しく、自分の髪の毛が撫でられる。

 当然だが自分が誰かを撫でることは多くとも、誰かに撫でられるようなことは今までになかった。

 なるほどファティマやアポロニアがねだってくるのもよくわかる。それくらいに心地よく、そのまま眠りに落ちれば最高の睡眠になるのは間違いない。

 だがアポロニアと話をする目的が果たせなくなる以上、睡眠欲に屈するわけにはいかず、僕は襲い掛かってくる眠気を振り払うように口を開いた。


「30手前の男の髪なんて、撫でて楽しいかい?」


「悪くない手触りッス。結構ご主人の毛は固いんスねぇ」


「ならよかった。髪の触り心地なんて、気にしたことがないから」


 整髪料をつけるようなこともせず、ただ目にかからないようにだけ適当に切り揃えた自分の髪を軽く弄ってみる。無論、固さの違いなどほぼわからなかった。

 それに対してアポロニアは、ふふんと自信ありげに鼻を鳴らす。


「キメラリアは大概毛並みが死活問題ッスから、尻尾の手入れは欠かさないッス」


「あぁそういえばファティも、尻尾は大事、ってよく言ってるねぇ」


 2人とも毎日尻尾のグルーミングは行っているため、大切にしているのはある意味イメージ通りだ。逆にシューニャなどは、折檻する時に尻尾を狙うことで怒りを伝えているのかもしれないが。


「もちろん自分も大事にしてるッスよ」


 高らかに宣言しつつ彼女はふわりと太い尻尾を、こちらの首あたりに巻き込んだ。

 それは高級なファーのようにふわふわと柔らかく、首元に触れるだけで素晴らしい毛並みだと理解できた。

 自慢というのもあながち間違いではないのだろう。おおと僕が感嘆すれば、彼女はどうだとばかりに腰に手を当てて胸を張った。


「どうッスか、いい毛並みでしょ――ぅキャぁんッ!?」


「成程なぁ……確かにこりゃ凄いモフモフだ。髪を撫でてるのとは全然違う感触が」


 軽く手で尻尾に触れてみれば、途端にアポロニアの背筋が跳ねるように伸びた。

 とはいえ、そんなことは尻尾を前にして些末なことである。そう言いきれるくらいに彼女の毛並みは素晴らしく、密度の高い毛の海に沈んだ自分の手は、極楽とも言える感覚を撫でまわした。


「ご、ご主じ――んっ、そ、そんな風に撫でちゃダメ、ッスぅぉぁあぁ……」


 とはいえ、流石に彼女の身体がぐにょりと倒れ込んで来れば続けていられず、咄嗟に尻尾を離して膝枕から身体を浮かせた。

 腰が抜けたかのように脱力したアポロニアは、ふへぇと妙な声を漏らす。


「あ、あぁすまない! 首に乗せてきたからてっきりいいのかと」


「じ、自分で触れさせるのと、人に触られるのじゃ全然違うんス――それに、異性の尻尾に触れるって、結構な変態行為ッスよ!」


「いや、これは僕が非常識だった。不快だったろうに、本当にすまない」


 僅かに赤らんだ頬は、どうやら人間には無い羞恥感情なのだろう。

 如何にその手触りが名残惜しくとも、今後は触れないようにせねばと自戒する。

 だが暫く息を整えていた彼女は、ふぅと胸を押さえながら、また小悪魔的な笑顔をこちらへ向けた。


「じゃあ、触った対価を払ってもらいたいッスね」


 有無を言わさぬアポロニアの凄みに、僕がまたも唾を呑んだことを言うまでもない。

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