第188話 2人分の約束
自分たちが家の中に入ってすぐ、雪は更に強くなった。
玉匣で出かけている皆のことが気になったが、これ以上荒れるようならダマルの判断で帰ってくることだろう。
それを窓から眺めつつ、ポラリスは楽しそうに足をパタパタと振った。
「すごいすごい! まっ白だよキョーイチ!」
「予想以上に降るもんだ。こりゃ明日は朝から雪かきかな」
暖かい珈琲を片手に彼女の隣へ並べば、わかっているのかいないのか、雪かきー、と両手を挙げて見せる。
大人からしてみれば面倒極まりない体力仕事だが、ポラリスとしては十分楽しみなのだろう。明日は朝から騒がしくなりそうだ。
「しかし、急に冷えてきたね。これなら玉匣の中で暖房かけてる方がマシかも」
なんせ現代の建物には断熱材などという物がない。
一般的な郊外の民家に比べれば作りが立派であり、壁も分厚く隙間風も入りにくい我が家は、余程マシなのだろう。それでも風雪を伴う冷え込みは体を震わせ、僕は暖炉に薪を追加して革張りのソファに身体を沈めた。
「わたしはへーきだけどなぁ」
「えぇ……あんまり身体冷やすと風邪ひくよ」
やせ我慢ではないのかとも思ったが、心底不思議そうな表情のポラリスからはそんな雰囲気も感じられない。それどころか何か唸って考え始める始末。
子どもは体温が高いとどこかで聞いたことがあるが、それがモコモコの防寒着と相まって寒さを防いでいるのだろうか。
無論、自分もジャケットを着こんではいたが、彼女のように平然とはしていられそうもない。
おかげで腕をさすりながら、最悪風呂に入るかなどと本気で思い始めた時、ポラリスはなにか思いついたようにポンと手を打った。
「ちょっと待ってて!」
彼女はそう言い放つと、今朝と同じように勢いよく扉を開けて廊下へ飛び出した。
廊下の冷たい空気が急激に流れ込んだことで、僕はまたも身体を震わせたが、それも一瞬のことで少女の軽い足音はあっという間に遠のいていく。
「……元気だなぁ。いや、ストリもあんなだったか」
研究所で過ごしていたストリのイメージといえば、マキナのシステム開発に唸っているか、あるいはだらだらと部屋で過ごしているかがほとんどである。
しかし、何か思い立った際の動きは素早く、それもストリの場合は大概ろくでもないことだったように思う。
――試験用マキナをやたらビビッドなオリジナルカラーにしようとしてたなぁ。
自分が操る機体を原色総なめレインボーにされてはたまらないと、必死で止めた覚えがある。それも自分の力では止めきれず、格納庫まで辿り着いたところで整備隊長にしっかり怒られて断念させられたのだ。
とはいえ、彼女の閃きは全てトンチンカンだったわけでもなく、稀にとんでもないシステム設計を生み出すこともあった。その中でもジャンプブースター使用時の姿勢制御システムは、玉泉重工と企業連合軍から表彰まで受けている。
さて、ではその遺伝子を受け継ぐポラリスの思い付きとはどのようなものか。
「キョーイチぃ、開けてぇ」
そんな声が扉の向こうから響いたのは間もなくである。
開けてくれ、と頼む以上は両手が塞がっているのだろう。果たして何を持ってきたのか、とゆっくり扉を引いた。
さて想像してほしい。知っている娘の声が聞こえて扉を開けた先、巨大な布の塊が目の前に鎮座している光景を。それは起毛に覆われ、もぞもぞと蠢いている。しかも扉に引っ掛かるほどの大きさだ。
「命名、妖怪衣玉」
「よーかいじゃない! っととと?」
思いつきの命名はお気に召さなかったらしく、毛布やらシーツやらの塊は派手な動きを見せた。
しかし、大きさも重量も小さなポラリスの限界を超えているらしく、動く度によろめいて壁に何度も衝突する。毛布に包まれた彼女にダメージはなさそうだが、その防御力を駆使して家具まで蹴散らされては困るため、僕は外側を覆う毛布をはぎ取った。
するとその下から青銀の長髪が現れ、続いて空色の瞳がこちらを覗いて首を振る。
「ぷあっ! やっと前が見えた!」
「危なっかしいなぁ。視界ゼロで2階から降りてきたのかい?」
「だって毛布とか上にしかないよ?」
「いやまぁ、それはそうなんだけどね。ありがとう」
わざわざ気を遣ってくれたのだから、小言をいうのはよそうと彼女の真似をして毛布を体に巻き付けて再びソファへ腰を下ろす。
流石に防寒着の上から毛布を巻きつけ、暖炉の熱で部屋を暖めていれば寒さは確実に和らいでいく。
今度からリビングにも毛布かブランケットを備えておこうと決め、ふぅと息をつけば、シーツを纏ったままのポラリスが毛布を登ってきた。
「どーお?」
「暖かいよ。よく思いついたねぇ」
「おふとんはあったかいからね! ずーっと入ってたらねちゃうと思うけど」
それも悪くないと言いたげに、ふにゃりとりんごほっぺが緩む。
ただ、ずっと入っていると寝てしまう、という部分は僕にとって素晴らしい防寒装備を思い出させてくれた。
「そうか、
「うなぁぁああぁぁあ」
凄い凄いとウルフカットのふわふわした髪を激しく撫でれば、ポラリスはがくがくと揺れながら変な声を出す。それも満更ではなさそうだったので、しばらく続けていた。
電気式に拘らなければ、現代の技術力でも炬燵なら実現可能であろう。彼女に宿っていたストリの遺伝子が導いたのは、素晴らしい閃きだった。
「ぐらぐらするぅ……」
「あはは、ごめんごめん」
あまりに撫でまわされすぎて、ポラリスは少し目を回したらしい。ぺたりと毛布に貼りついて、ふぅと息を吐く。
しかしその直後にまた何か思いついたらしく、自身が纏っていた薄いシーツを脱ぎ捨てると、毛布の隙間からもぞもぞと中に入り込んできた。
そしてこちらの服を掴んで這いあがると、僕の首の隣からその小さな頭を覗かせる。
「こうすればもっとあったかい?」
そう言ってしがみついてくる彼女は、まるで湯たんぽのようだった。
熱源が増えれば毛布の中はみるみる温度を上げ、寒さなど微塵も感じなくなってくる。
「もしかして、甘えるための口実かな?」
「バレちゃった」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、彼女は首に抱きついてくる。
これは先日ダマルから聞かされていたことだが、この1対1で向き合いましょう会を開くことに対し、骸骨の意見と最も合致したのが彼女だったという。
2人きりになりたい。そんなことを言ったそうだ。
ポラリスの愛情表現はストレートであり、出会ってこの方、一貫して同じことを口にしている。
それでも最初は遊びで言っているのか、それともからわかわれているのではないかとも思った。なにせ彼女が恋愛対象と見るには、自分はあまりに歳が離れすぎている。
しかし、こちらがどうあしらっても彼女は、未来の旦那さん、と主張して憚らなかった。
今もまた、幼い少女は嬉しそうに笑いながら、強く僕に抱き着いてくる。
「だって約束だもんね。あとでいっーぱい甘えさせてくれるって!」
「――えっ?」
たった一言。それだけで脳はショートして焦げ付いたように思えた。
急激に平衡感覚が失われ、どちらが上でどちらが下か、そもそも自分は座っているのか寝ているのか、ぐるぐる回る視野の中で毛布越しに額を押さえる。
ポラリスとはそんな約束をしていない。出会ってから今までに、自分が再び記憶喪失を起こしていなければ、だが。
『……聞いたかんね? あとでいーっぱい甘えさせてよ?』
それは叶えられなかったストリとの約束。善処しようなどと曖昧な言葉で交わされた、本当に何気ない最期の約束。
何故ポラリスがそれを知っているのか。あの場で会話を聞いていた人間は全員爆炎に呑まれたはずであり、誰かが生き残っていたとしてもそれから800年が経った今に彼女との約束を伝える者などいないはず。
「ポラ、リス……君は、どこでそれを?」
声を出せたのはほとんど奇跡だった。ポラリスの体温と毛布の温もりで寒さなどないはずなのに冷たくなっていく身体は、座っていなければ今頃地面に倒れていたに違いない。
ポラリスはそんな僕の震える声を聞いて、不安げに首を傾げた。
「えっ、きょ、キョーイチ大丈夫? なんだか顔色、わるいよ?」
「っ……大丈夫、だよ。それよりも、約束というのは?」
無理矢理表情筋を引き締めて笑顔を作り出す。
それは誰の目に見ても極めて不自然なものだっただろう。ポラリスは身体を縮こまらせて僅かに身を離したが、それでも毛布の中で踏みとどまって、どこか不安げな上目遣いでこちらを捉えた。
「えっと、約束、約束はマキナに乗ってる時――あれ? でも、これ、どこで……?」
ポラリスがおどおどと身体を揺すり始める。
無理もない、それは彼女がポラリスとして経験した記憶ではないはずなのだから。
ただ僕はその声に、その言葉に、溢れ出る涙を止められなかった。
「……ごめん、ごめんよ」
「わ、わ!? なに急に――」
力強くポラリスを抱き寄せる。
ストリとは異なる青銀の髪に頭に鼻をつけ、記憶にある彼女よりも一層小さくて軽い少女に頬を摺り寄せた。石鹸の柔らかい香りと触れた場所から伝わってくる体温に、狂っていた感覚が急激に元通りになっていく。
「キョーイチ、泣いてるの? どこかいたい?」
「あの日、僕は君を……守ってあげられなかった。約束を1つも、果たしてやれないままで……」
突然のことにパタパタと暴れたポラリスだったが、その頬で弾けた水滴にキョトンとした顔をこちらへ向けた。
無理もないだろう。目の前で大の男が鼻を啜って涙を零しているのだから。
「ストリ……僕は……」
「キョーイチ、もういいよ?」
「――ッ!!!!」
その声に、僕はハッとした。
目の前で微笑んでいるのは、雪のように白い少女。空色の瞳と青銀の髪はストリではない。
だが、そこには間違いなく、あの日の彼女が居た。
自堕落で我儘で、その癖寂しがり屋で甘えん坊で、けれど自分を好きだと言ってくれたあのストリだ。
聞こえたのはポラリスの声だったはずなのに、けれど初めて彼女が、自分を許してくれたように思った。
掠れる声が、振るえる口の端から零れ落ちる。それが自分の物だったかどうかさえ、僕にはわからない。
「君、は……なんで」
何故こんな自分を許してくれるのだろうか。
3年も待たせておきながら、何もしてやれなかったと言うのに。
しかし、ポラリスは小さく首を振る。
「約束、ちゃんと叶えてくれたもん」
「――あぁ、そう、かな」
ポラリスはストリではない。
にもかかわらず彼女の中には、どれほど小さくともストリの記憶が眠っていた。ホムンクルスを生み出したメヌリスは、この何かが重なるような感覚に耐えられなかったのかもしれない。
けれど、僕にとってそれは救済だったように思う。
「もう泣かない?」
「あぁ、もう大丈夫だ。だから、一杯甘えていい」
涙にぬれた赤い目を毛布で擦りながら、できるかぎりの不器用な笑顔を浮かべる。
するとポラリスはいつもの調子を取り戻したのか、嬉しそうに首元に抱き着いてきた。
「よかった! ねぇ、さっき言ってたストリって、だあれ?」
「そう、だね、少し昔の話をしよう。君によく似た、とても可愛らしい女の子の話だ」
初めてだった。ストリのことを話す時、いつも込み上げてきていたどす黒い感情を感じなかったのは。
あれだけ泣いたからか、それともストリが許してくれように思ったからか。ただただ懐かしいと、辛い目に遭わせてしまったというだけで、始終穏やかな気持ちで口から言葉が流れ出していく。
研究所で過ごした日々のこと、部隊に復帰する時拗ねていたこと、また会いに来て怒られたこと、告白されたこと、守りきれなかったこと、最後にポラリスとストリの繋がりについて。
全て吐き出してしまえば、それで終いだった。彼女を愛していたという以外、もう何も残っていない。
それを黙って聞いていたポラリスは、話し終えた後でうーんと悩んだ。
「なんだか覚えてるような覚えてないような……わたしはストリで、ストリはわたし?」
「君は君だよ。ホムンクルスについてはよくわからないが、ストリの記憶が少しだけあるんだとは思うけどね」
それ以上でもそれ以下でもないのだ。
記憶があろうとなかろうと、また仕草や思考が似ていようといまいと、ストリはストリであり既に亡くなっているし、ポラリスはポラリスとしてここに居る。
ただ彼女の断片的な記憶が、自分に1つの決着をつけさせてくれたと、僕は思っていた。
「んー……なんだか負けてるような」
「へ? 何が?」
しかし、ポラリスは何かが不服だったらしく、突然やけに湿度がこもった瞳でジトっと睨みつけてくる。
一体何がトリガーになって勝ち負けなどという話が出てきたのか、全く理解が及ばなかった僕は、一瞬呆けてしまった。
その隙があれば狙撃兵は自分の頭を吹き飛ばす。たとえ実弾でなくとも、衝撃力だけで自分は吹き飛んだと思った。
視界一杯に広がったポラリスの顔。瞬きするような間、微かに触れた唇。
「にひひ……これで、追いついたもんね」
僅かに距離を取ったあどけない少女は、小悪魔のように歯を見せて笑う。
ショートした思考回路はそれらをスロー映像のように見せていながら、しかし体への信号は一切送り届けてくれなかった。
それでも時間は流れるもので、加えて生理現象だけはきちんと作動するらしく、身体からは凄い量の汗が噴き出してくる。
「こ、これは犯罪、じゃないかな」
10歳の少女と20代後半の男が口づけを交わすなど、あってはならぬことだと倫理が叫び散らす。
だが、それをポラリスは一切気にせず、心底不思議そうに首を傾げた。
「なんでー?」
「よく聞きなさいポラリス、こういうのはもう少し大人になってからじゃないと――」
「未来の旦那さんだからいーの! ね、今度はキョーイチからしてよ?」
「む、無理言うんじゃない!」
再び迫ってくるポラリスを、無理矢理腕で押さえつける。
自分の中でストリとの決着という枷が破壊された現状で、これはあまりにも凶悪な行為だった。
少女とは突然大人になってしまう存在なのだろう。しかも無邪気なままであることから欲望に忠実であり、その勢いたるや他の追随を許さない。
おかげで僕はポラリスを止める言い訳を思いつかず、結局毛布を払いのけて全力で家の中を逃げ回るはめになった。
唯一の救いは、天候不順を理由に玉匣が思った以上に早く帰還したことだろうか。
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