第176話 毛布の中の蜜月

 慌てて僕が廊下に飛び出した時、既にファティマの背中はどこにも見えなかった。

 あれほど疲れていたというのに凄まじい瞬発力と脚力は衰えず、加えて雨音と雷鳴に足音もかき消され何処へ行ったかわからない。

 元々が子爵の別荘だという我が家だが、であれば貴族という連中は余程の閉所恐怖症なのだろう。そう思ってしまうくらいにこの屋敷は広いのだ。


「おーい! ファティ?」


 僕は彼女の名前を呼びながら廊下を足早に進む。

 キッチン、ガレージ、風呂場と覗き込んで何処にも見当たらず、ならば2階かと階段を見上げた。


 ――耳のいいキメラリア達は雷の魔術を嫌う、か。


 それは以前シューニャから聞いた話だ。

 実際のところ、魔術の威力で雷鳴のような轟音は出せないのだろう。だが、それでさえ嫌うというのなら、本物の雷が恐ろしいのは疑いようもない。

 であれば少しでも音が聞こえないよう耳を塞ぎ、稲光が見えないように鎧戸を下ろすはず。

 混乱の中でそれがすぐにできる場所は限られる。何せ、この家に来てからさほどの時も経っておらず、慣れていないのだから。

 僕はこじつけの理屈とそれなりに役立つ勘を頼りに、2階の一室の前へ立った。

 軽く木製のドアをノックする。返事なし。


「ファティ、ここに居るかい? 返事をしてくれ」


 声をかけてみるもこれまた応答せず。

 こうなると困ってしまった。

 いかに家族だとはいえ、女性の私室に許可なく入るというのは気が引ける。

 しかし、家の中には自分とファティマの2人しか居らず、他の誰かに頼ることもできないために、このままでは八方塞がりだ。


「どうしたものか……」


 扉の前で悩むこと数秒。再び窓の外で雷鳴が轟いた。

 それもどこか近くに落ちたのか、今まで以上に一層激しい音である。

 おかげで悩んでいる暇はないと、僕は勢いに任せてドアを押し開けた。


「すまん、入るよファテ――! あぁ、やっぱり」


 思った通り部屋は鎧戸が落とされ、何故か電気も消されたままで、ベッドの上では毛布が小山のようになっている。そこから尻尾が生えているのはご愛敬と言ったところだろう。

 その様子に僕は小さく安堵の息を吐き、ゆっくりと寝台へ腰を下ろした。


「大丈夫、きっと直ぐに過ぎるから」


 近くで声をかけてみれば、その小山がビクリと揺れた。

 完全に周囲の音も光も遮断していたのか、普段のファティマからは考えられない反応だ。

 ポンポンと頂上付近を軽く叩いてやれば、おそるおそると言った様子で毛布の下から金色の双眸がこちらを覗き込む。それもどこか怯えに揺れ、部屋の薄暗さ相まってか瞳孔も大きく開かれていた。


「おにー、さぁん……?」


「ああ。僕はここに居るよ」


 よろよろと伸びてくる手を緩く握ってやれば、彼女はほふぅと大きく息を吐いた。

 得てして恐怖とは、孤独とセットになると一層力を増してくるものである。混乱の中で逃げ出してしまったファティマは、緊張に身体を強張らせて布団の中で震えていたのだろう。

 人肌の温もりに触れたことで僅かに力が抜けた様子で、彼女は毛布を僅かに持ち上げて僕を見た。


「おにーさんは、怖くないんですか?」


「うん。そこまで嫌いでもない」


「変人、ですね」


「もうちょっと言い方を考えてくれないか」


 げんなりとした表情を作るファティマに、僕は苦笑を漏らした。

 いつも通りに毒が吐けていることから、思っていたより平気なのかもしれない。

 けれどそんな様子も、鎧戸の向こうから雷鳴が聞こえるとすぐかき消され、硬く目を瞑って大きな耳を腕で押さえながら、強くこちらの手を引いてくる。


「うぅ……ボクはカミナリって大っ嫌いです。耳が痛いですし、ゴロゴロいうのがなんだか怒ってるみたいで」


「そう聞こえるのか。僕にはファティが喉を鳴らしている時と似てるように思ってたんだけどね」


「ボクの喉はあんなにうるさくないですもん」


 恐怖心で精神年齢まで幼くなったのか、ファティマはまるで拗ねた子どものようにプイと視線を顔を背けてしまう。

 雷なんかと一緒にするな、とでも言いたげなその様子に、僕は空いた手でゆっくりと橙色の髪を撫でつけた。


「これでも君のゴロゴロいう声は気に入ってるんだけどな」


「むー……そういう言い方はズルいで――ひぅっ!?」


「ちょっ!?」


 布団の中から半目を向けていた彼女だったが、再び鳴り響いた派手な雷鳴にいよいよ堪らず僕の腕を強く引っ張った。

 これがシューニャやアポロニアならば片腕でも耐えられただろうが、相手は一騎当千のキメラリア・ケットである。抵抗も空しく僕はベッドの上に引き倒された。

 それはわざとだったのか、反射だったのかはわからない。しかしこちらがマットレスの上に横たわったと見るや否や、ファティマはがっしりと僕の胴体をホールドして身体を密着させてくる。

 柔らかい身体の感触に、僕はまたも僅かに心臓が跳ねた。


「こ、こら、ファティ! 流石にこれは――」


 不味いだろう、とは言えなかった。

 いつもどこか飄々としていて怖い物なんてなさそうな彼女の身体が、小刻みに震えていたのだから。

 甘えて絡みついてくるときとは違う、心の底からの恐怖。それを公序良俗がどうだと言って振り払うことなど、僕にはできそうもない。


「ごめん、なさい……けど、ちょっとだけこのままで居させて、くれませんか」


 僕の胸に頭を埋めて耳をぺったりと伏せ、すらりと伸びる足と長い尻尾をこちらの足と絡ませてなお、ファティマは小鹿のように体を震わせる。

 だから僕はその耳を片手で柔らかく押さえ、壊れ物に触れるようにそっと抱きしめ返した。


「大丈夫。大丈夫だから」


 上から毛布をかけなおし、背中を優しく叩きながら、頭をゆっくりゆっくり撫でていく。

 その度にファティマの震えは少しずつ小さくなった。そして筋肉のこわばりが解けてくれば、彼女は自然と僕の身体をもぞもぞと這い上がって、僕の首元へ額を擦りつけた。


「おにーさんはとってもとっても、優しくて、大きくて、あったかいですね」


「そうかな。自分じゃわからないが」


「だって、ボクはキメラリアですよ? ボクがどれだけ抱っこしてほしいなって思っても、普通の人は絶対にしてくれませんし、おかーさんとかおとーさんのことは覚えてませんから、ボクを抱っこしてくれたのは、シューニャとおにーさんくらいなんです」


 優しく目を細めながら、穏やかな口調で彼女はそんなことを口走る。

 ファティマが物心ついた時には奴隷だったことは聞かされていたため、甘えられるような相手が居なかったことは想像に難くない。

 しかし、キメラリアだから、という部分については何度聞いても納得がいかず、僕は少しだけ表情を陰らせて小さく首を振る。


「ファティはファティだ。種族なんてどうでもいいだろう」


 きっと僕がこんな風に返すことくらい、ファティマにもわかっていただろう。

 けれどそれを聞いた彼女は柔らかく笑い、僕の首元に口を寄せた。


「――はむっ」


「うぉっ!?」


 首筋に走るほんの僅かな痛みと、尖った八重歯の感触に僕は肩を震わせた。

 それはいわゆる甘噛みである。まるで本物の猫がじゃれつくように、ファティマは僕の首筋に軽く歯を当て、続けてその場所を僅かにざらつく舌で小さく舐めた。

 くすぐったいような、むず痒いような感覚に襲われた僕は、慌てて彼女との間に拳1つ分ほどの距離を取る。


「な、なんだい急に?」


 自然と片手が舐められていた首筋に触れれば、そこが唾液で微かに濡れている感触が伝わる。

 ファティマはどこか蕩けたような目をしていたが、けれど発情した時とは異なる様子でこちらを見つめていた。


「ボク、おにーさんが好きです。ずっとずっと好きです」


 それは余りにも自然に、けれど確固たる意志を持った告白の言葉だった。

 カッと自分の頬に血が上るのがわかる。今までにファティマから向けられていた甘えやスキンシップの全てが、ここに帰結していたのだとすれば、家族だからと思っていた僕の精神的防壁は瞬く間に瓦解していく。

 こちらが追加の混乱に揺れる中、彼女は熱い視線を潤ませながら強く僕を抱きしめた。


「だからボクはしつこいって言いました。おにーさんはそれでいいって言いました。それじゃダメですか? 一緒に居てくれなくなっちゃいますか?」


「そんなことはない! だが、僕は――」


 少なくとも自分は彼女を夜鳴鳥亭の自室で袖にした糞男だ。にもかかわらず、恋慕を自分に向け続けてくれただけで嬉しいというのに、彼女を追い出すような真似をするはずもない。

 ただただ引っ掛かり続けるのは、未だ燻る太古の記憶。それを口にしようとして、ファティマはそっと身体を離してこちらを見た。


「おにーさんが昔辛い目にあったこと、知ってます。今でもおにーさんがそれで苦しんでることも、全部全部盗み聞きしましたから」


「あぁ……シューニャにも同じように言われたな。だけど、ならば何故?」


 色恋にメリットやらデメリットやらという話は噛み合わない。しかし、僕の壊滅的に低性能な脳では、そう聞く以外に何も思いつかなかった。

 そんなバカげた問いにも、ファティマは真摯な答えをくれる。


「ボクが好きだって気持ちは、誰にも変えられませんもん。たとえおにーさん自身でも、それこそ神様だって無理です」


「そう、なのか」


 たとえ僕が気持ちに応えられなくとも、彼女は好きでいてくれるというのだ。それは良く言えば一途であり、悪く言えば依存である。

 だが、悪く言うべきはむしろ自分の方なのだ。逃避に逃避を重ね、今もまたどうすればいいかがわからない袋小路に迷い込んでいる。

 嘘もつけない不器用な口から吐き出せるのは、結局その迷いに他ならない。


「正直に言えば、凄く戸惑っている。元々誰かに好意を向けられたり、求められることに慣れていないからかもしれないが……何より自分が許されていいのかってことに」


「誰が許さないんですか、それ?」


 小首を傾げた彼女を前に、僕は自嘲的に笑う。

 改めて口にすれば纏まっていく思考が、どうにも馬鹿馬鹿しいのだ。


「僕自身だろうね。ストリを救えなかった自分が、今なお生きているからといって、別の誰かと幸せになっていいのか。それは彼女を裏切る行為なんじゃないかって」


「ボクはストリさんじゃないからわかりません。けど――」


 ファティマはまた僅かににじり寄る。額が触れ合いそうな距離で、甘い石鹸の香りが鼻をくすぐった。


「ボクなら好きな人だからこそ、幸せになって欲しいって、思いますよ」


「そう、だろうか」


 自分がストリの立場なら、彼女が幸せになる方を願ったに違いない。しかし、我が身となれば、どうしてもストリを裏切っているのではないか、という疑念が拭えなかった。

 けれどファティマの言葉が耳を抜けた後、僕の心は少しだけ彼女の残り香を手放せたように思えたのだ。

 どう表現していいか分からない中、僕は彼女の大きな耳が生えた頭を抱き寄せる。今度はファティマがそれに驚く番だった。


「にゃっ!? お、おにーさん?」


「すまないが、すぐには片付けられそうにないんだ。けれどいつか、僕の口から答えを出すから」


 耳元で囁いた言葉に嘘はない。

 それを聞いたファティマは僅かに強張らせた身体を緩め、再び僕の首を小さく舐めて言った。


「……約束、ですからね。ボク、いつまでも待ってますから」


「ああ」


 毛布の中で僕は彼女の甘い香りに包まれながら、また何度も何度も橙色の頭を撫でていく。

 自分の手が耳に触れる度、彼女はくすぐったそうに身を捩りながら、けれど腕の中から離れようとはしない。

 いつしか雷鳴も雨音もは消えた薄暗い静かな部屋で、僕はファティマと暫くそうしていた。

 このあまりにも純粋な少女を、心の底から愛せる日を夢見ながら。



 ■



 玉匣が帰ってきたのは陽が沈む頃だった。

 土産に新鮮な魚やら肉やらを抱えてきたものだから、その日の夕食は豪勢な物である。ただ焼いただけのステーキであっても、およそ一般家庭では簡単に口にできない料理だったに違いない。

 それを最も喜んだのは肉食獣たるファティマである。


「新鮮なお肉は美味しいですね!」


「ねー!」


 それに呼応してポラリスも笑い、アポロニアに野菜もちゃんと食えと馴染みのシチューとサラダを前に並べられる。

 そんな暖かい談笑が広がる幸せな夕餉の中で、僕は1人微かな疑問を抱えていた。

 ダマルは先日、全員と向き合うようにと言っていたはず。加えてマオリィネはこの約束を交わした際、何かイイコトがあるかもしれないと付け加えている。

 今日ファティマから改めて気持ちを聞かされた僕は、己惚れるなと自戒しながらも、けれどまさかという気持ちが捨てきれなかったのだ。

 もしも万が一、億が一、否、それこそ天文学的確率で自分の仮定が当たっていた場合、僕は選択を迫られる。

 その結果が、目の前に広がる幸福な家庭の一幕の崩壊だったとすれば、自分はどうすればいいのか。


「おい相棒、その肉食わねぇならくれよ」


「は? あ、おいちょっと!?」


 目の前から素早くステーキが消えていく。

 それをダマルは躊躇いなく口に放り込もうとして、しかしファティマがフォークをその肉に突き刺して待ったをかける。


「ダマルさんそれ、ボクもほしいです。独り占めはズルいんじゃないですか?」


「カカッ、こんなもん取ったもん勝ちよ! 食いたきゃ俺を倒してからにするんだな!」


「言いましたねーッ!」


「わたしもー!」


 ダマルの挑発に、団欒は瞬く間に戦場と化した。

 無論、僕は悩んでいる暇などなく、自らのメインディッシュ奪還に向けて動きだす。

 最終的にはあまりにも行儀が悪いと、マオリィネとシューニャに揃って叱られることになり、僕は結局解決策を思いつけないまま風呂に叩き込まれてその日を終えたのだった。

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