第152話 小さな北極星

 僕の声に白い少女はノースリーブの薄青いワンピースを揺らして、ぐるりと顔をこちらに向ける。

 何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか。美しい空色の瞳はじっと翡翠を捉えて動かず、自分もまたヘッドユニットに映し出される彼女を見つめ返していた。

 違う、この子はストリじゃない。

 記憶にある18歳の彼女と比べ、目の前に立っている少女はあまりにも幼すぎる。ストリの髪は金色に染め抜いた錦糸のようだったが、少女の髪は青銀色な上、あちこちでピョンピョンと跳ねているし、ストリも色白ではあったが、この少女のように新雪が如きという程ではない。

 他にも差異はあちこちに見つけられた。けれど、僕にはどうしても別人だと言い切ることができない。

 ただ、自分が黙り込んだままで居ると、少女は焦れてきたのだろう。わざとらしく口に指を添えると、不思議そうに首を傾げた。


「このお部屋、マキナは入ってきちゃダメじゃなかったの?」


「カカカッ、いきなりルール違反は不味いな相棒――相棒?」


 鈴を転がしたような少女の声だけが鮮明で、それ以外のあらゆる音が籠ったように小さく聞こえてくる。隣に立っているはずのダマルの声ですら、壁の向こうで鳴る踏切のように感じてしまう程だ。

 何故目の前のこの娘が、自分の良く知る彼女の声で、自分が守れなかった同じ顔で、多くの差異を抱えながら立っているのか。

 忘れることなどできはしない。だから元凶となった者たちを恨んで壊して殺し続けて、空虚で疲弊した自分が嫌になって、あらゆる感情を自ら心の奥底に封じ込んだはず。そうすることで、抜け殻のような状態でありながら、上辺ばかりを取り繕いながら生きてこられたのではなかったか。


――なんせ私は、我が子の遺伝子情報を元に、兵器と言う名目でホムンクルスを精製したのだから。


 さっきの文書に残されていた一文が、頭の中を駆け巡る。

 我が子とはなんだ。お前は誰だ。

 彼女は殺された。あまりに軽いストリの亡骸を抱えた冷たさは、未だ自分の中に強く焼き付いて離れないのだ。

 ならば、この少女がストリであるはずがない。あってはならない。それが方程式でも哲学でも解ききれない、不可思議でありながら絶対的な自然の摂理だ。

 しかし、頭でいくらそう考えても心がそれを拒絶する。

 もしも彼女があの日消えてしまったストリだというのならば、あの時叶えてやれなかった、あまりにもささやかな約束を果たすことができるのならば、自分の持てる何もかもを、それこそ命を捧げたってかまわない。そんな衝動が身体を駆け巡る。

 あってはならないはずなのに、あってほしいという矛盾。脱力していながら、開くこともできない拳と顎。

 この少女は、一体何者なのか。


「おい恭一、聞いてるか?」


 唐突に耳元で響いたダマルの声にハッとした。

 知らず知らず、自分の思考は無限ループに入ろうとしていたらしい。ヘッドユニットを左右に振って、僕は意識を現実へと引き戻した。


『あ、ああ、すまない』


「ボーっとしてんなよ。まだこいつはアンノウン敵味方識別不能なんだぜ」


 軽く翡翠の装甲を叩いてから前へ歩み出る骸骨の姿に、深く息を吸って吐く。

 敵が居る居ないに関わらず、作戦は今も続いているというのに、その途中で呆けるとは特殊部隊が聞いて呆れる話だ。

 気合を入れなおさねばと、記憶の影を無理矢理意識の外へ放り出して前を向けば、既にダマルと少女は手を伸ばせば届くような距離で向き合っていた。


「がいこつさん?」


「おう、骸骨さんだ。俺を見て泣かないたぁ子供の癖に感心だな」


 恐れるどころか、むしろ興味津々と言った様子で瞳を輝かせる少女に、ダマルは大袈裟にカッカッカと笑う。

 大人であっても恐ろし気に聞こえる骨のぶつかる乾いた音にも、彼女は一切躊躇わず歩みより、下から髑髏を覗き込んでいた。


「もしかして、おばけ?」


「俺にもわかんねぇんだわ。今は見ての通り骨しかねぇんだが、昔は一応人間だったはずだぜ」


 しばらく少女はダマルの周囲をぐるぐると回りながら、白く細く硬い手指と表情の読み取れない頭蓋とを交互に眺めていたが、やがてそれにも飽きたのだろう。ふぅんと微妙な声を漏らして少し距離を取った。


「へんなのー。おばけじゃないならいいや」


 その一切動じない様子に、まったく肝の据わったガキだ、とダマルは肩を竦める。

 魑魅魍魎の類ではないと何を根拠に判断したのか聞いてみたいところではあるが、少なくとも少女の中でダマルという骸骨は、無害な存在と認定されたらしい。

 そのあまりにアッサリした様子に、シューニャとアポロニアは思うところがあったのだろう。拷問の末に渋々事態を飲み込んだマオリィネへと視線を投げかけていた。

 もしもアイコンタクトを文字化できるとすれば、お前は大人として恥ずかしくないのか、という言葉が浮かんでいたに違いない。黒髪の乙女は4つの目から逃げるように全力で顔を背けていた。

 しかし、少女にとっては女性たちの複雑なやり取りなど、どうでもいいことに過ぎなかったらしい。トコトコとダマルの脇をすり抜けると、一直線に翡翠へ駆け寄ってきて、上目遣いで再びヘッドユニットをジッと見つめた。


「ねぇねぇ、へいたいさん。それ脱がなきゃメヌリスに怒られるよ?」


 声を掛けられた途端、僅かに心臓が跳ねて呼吸が詰まりそうになったが、意識的にゆっくり息を吐いて平静を装い、普段通りを意識しながら言葉を返す。


『……そう、なのかい?』


「うん。前に入ろうとしたクロガネがすっごく怒られてた。ゲンポー? とか言われてたよ」


 無邪気に告げられるリアルな言葉に少しだけ肩の力が抜け、自然と小さな笑いが零れる。

 名も顔もわからない機甲歩兵には申し訳ないが、その減俸処分によって僕は僅かながら救われた。


『それは堪らないな。ダマル、一旦脱装するがいいかい?』


「おう。始末書書かされたり、今後の査定に響くよりゃマシだぜ」


 好きにしろ、と言うダマルに対し、僕は周囲の安全を確認してから、脱皮するかのように翡翠という外殻を脱ぎ捨てて外に出た。

 表情を覆い隠す盾が失われたことで、僕は一層困惑を表に出さないよう意識しながら、見上げてくる大きな瞳と相対し口を開いた。


「これで、いいかな? ところで君は――」


「ストップ! ちょっとそのままそのまま……よっ」


 僕が話を切り出そうとするや否や、少女は勢いよく両手を前に突き出して言葉を制すると、間もなく口を閉ざした自分の周囲をダマルにしたのと同じようにグルグル回り始める。

 何かの宗教的儀式にも思えるその行為に対し、僕は後ろ頭を掻きながら、何だい、と苦笑しながら問いかけることしかできなかった。

 そんな漠然とした質問に対し、少女はにっこりと笑う。


「なんだか、とっても懐かしい気がする」


「懐かしい? 僕が?」


「それになんだか安心する匂いって言うのかなぁ、ねぇ前に会ったことある?」


 胃が急激に絞られたような感覚を、僅かに表情を揺らしただけで耐えられたのは奇跡と言っていい。

 この子に会ったことなどあるはずもない。ボロボロの記憶でさえそれは今与えられている衝撃から確信できる。800年前に会っていれば、それこそメヌリスという人物にも心当たりがあっただろう。

 だからこれは少女の勘違いに過ぎないのだと、乾いた口の回らない舌で僕は彼女に返事をする。


「……それは、ない、はずだけどね」


 何が、だろうか。確信している癖に曖昧な言葉を吐いてしまうあたり、脳は相当重篤なエラーを引き起こしているらしい。

 ただ、幼い少女がミキサーにかけられたようになっている自分の思考など気にかけてくれるはずもなく、パタパタと身体を動かしながら無邪気に言葉を続けてくる。


「ねぇ、おにいさんのお名前はなんていうの?」


「人に名前を聞くときは自分から名乗りなさい。そうだろう?」


 フラッシュバックする光景に、あの時と似通った言葉が口から零れる。

 少女とストリは同一人物でも無ければ、記憶を共有するなんていうことができるはずもない。そう、あり得ないのだと確認するように頭で反芻する。


「意地悪だなぁ……わたしポラリス、10歳だよ。これでいーい?」


「――上出来だよお嬢さん。僕は天海恭一という」


 だというのに、少女の動作が、またその表情までもが、何故か初めてあったストリと重なって見えるのは何故か。

 おかげで僕は何かを試そうとするかのように、あの時と同じ言葉を返してしまう。

 いや、むしろ願望だったのかもしれない。自分自身がどんどん汚れ、情けなくなっていることがわかりながら、それでも心は独りでに言葉を押し出していく。


「キョーイチ……変な名前だね」


『キョーイチ……変な名前ね』


 金色の髪と青い目が、自分を見た気がした。


 ――ストリ?


 咽から出かかった声を奥歯で噛み砕く。目の前に居るのは彼女ではなく、あくまでポラリスという別の娘だ。


「ッ……! いきなり、人の名前にケチをつけるもんじゃない……」


 理解しろ。ストリは死んだのだ。それ以来何年もの間、悔恨の海を揺蕩たゆたって、恨むことに疲れて、それでも彼女が生きられなかった世界を投げ出さずに来たのだろう。理性で心を押さえ込め。死者に対して希望や願望を募らせるなど、空しいだけだといつになれば気付くことができる?

 涙を堪えるような表情になっているであろう僕に、ポラリスはあかんべぇと舌を出して見せた。


「意地悪したお返しだよーだ。怒った?」


「怒ったりなんて、するものか……」


 人生でこれほどぎこちなく笑ったことは、これまでの人生でなかったに違いない。

 ストリではない。なのにどうしてポラリスは同じ顔をして笑うのか。同じ仕草をするのだろうか。

 頭が押さえつけようとする力はあまりに弱く、心からの突き上げは恐ろしく強い。

 心から微笑みかけたい。その髪を撫でて細い身体を抱きしめてしまいたい。そうすれば、何か変わるのではないか。生きられなかったあの子の代わりに、今度こそ約束を果たせるのではないか。

 その余りにも身勝手な発想で吐き気がした。自分は果たせなかった彼女との約束の許しを、何処で得ようとしているのだろう。それが決められるのはストリだけだというのに。

 心に蔓延った覆せない過去に、思考は引き摺られていく。

 だが、それは間もなく再びダマルの声によって引き上げられた。


「自己紹介はその辺でいいだろ。俺ぁダマル、さっきも言ったが骸骨だ。俺たちはよくわからん女に頼まれて人を探しに来たんだが……あー……よし、回りくどいのはやめよう。お前はホムンクルスで間違いねぇか?」


 途中からポカンとしていたポラリスに対し、ダマルはガリガリと後ろ頭を掻きながら必要最低限まで言葉を削って問いかける。

 ただ、その努力はあまり意味が無かったようだが。


「ほむんくるす……? わたしはポラリスだよ?」


「いや、そうじゃなくて。なんていうかな……こう、俺は骸骨でこいつは人間、そっちのは犬で隣が猫だわな。その上で、お前はホムンクルスじゃねぇのか? って聞きたいわけなんだが」


「その、ほむんくるすってなぁに?」


「そっからかよ!! ホムンクルスってのはだな、こう、生物は親から生まれるだろ? そうじゃなくて、こう培養液とかそういう機械的な――」


 思考が鈍化している僕でもわかる。骸骨の説明では、彼女が理解できないことくらい。

 身体をガラガラ鳴らしながら、謎のジェスチャーまで付け加える努力は認めるが、ポラリスにとっては異国のダンスを見ているようなものだろう。最早目の焦点すらあっていないように見える。

 ダマルは以前自らを教師に向いていないと称した通り、単語そのものを噛み砕くことが非常に苦手らしい。一切の説明をやり切ってゼーハー息を吐いていたが、彼女の言葉はあまりにも無慈悲なものだった。


「ぜんぜんわかんない」


「奇遇ですね。ボクもぜんぜんわかりません」


「自分もッス」


「カァーッ! これだからガキゃ苦手なんだよォ! それにそっちのポンコツ犬猫! 揃いも揃ってお前らの頭にゃ発泡スチロールでも詰まってんのかァ!? ……おい、シューニャ? まさかお前まで――あぁ、もういいや」


 努力が空振りに終わったことに、ダマルは頭蓋骨を抱えて見事なヘッドバンキングを見せたものの、間もなく全員が同じような表情を浮かべていることに気付いてしまったのだろう。

 最も理解力に優れているであろうシューニャに最後の希望を託して暗い眼孔を向けたが、無言のまま緩く首を振られてしまい、骸骨はガックリと項垂れて匙を投げた。

 しかし、ダマルが大混乱を演じてくれたおかげで、混乱していた思考をクールダウンすることができ、僕はゆっくりとポラリスの前に片膝をついて目線を合わせた。


「フェアリーという人の名前に聞き覚えはあるかい?」


 あれが本名とも思えないが、自分たちが持っているヒントはホムンクルスであることを除けば、その不可解な名前くらいである。

 しかし、ポラリスは口を閉じたまま、んーん、と首を横に振る。

 彼女が知らないとなれば、ホムンクルスかどうかを判断する方法は、最早フェアリー本人に確認してもらうくらいしかない。それでポラリスが同族だと判断できるのかもわからないが。

 おかげで僕はやや諦め気味に立ち上がったのだが、その時ふとポラリスは何かを思い出したように軍服の袖を引いた。


「あ、でもねでもね、おんなじ名前のケーカクは聞いたことあるよ! わたしのおせわやくだったトードーがやってた、えーと、ぷろじぇくとふぇありぃ?」


 意味などサッパリわかっていないだろうに、よく言葉を覚えていた物だと感心する。

 これは非常に淡く脆く小さな鍵だが、名前という接点が繋がったのは大きい。おかげで浮いた腰はすぐに元の位置へ戻った。


妖精プロジェクト計画フェアリー……トウドウさんと言ったね? その人の部屋がわかったりしないかな?」


「わかるけど、たぶん入れてくんないよ? キョーイチここの人じゃないんでしょ?」


「無理にでも入らせてもらわないといけなくてね。それにもう、ここの人は誰も生きてないから」


 僕の言葉にポラリスはぎょっと大きな青い瞳を見開いた。


「えっ!? どゆこと!?」


「詳しい話は歩きながらしよう。案内してくれるかい?」

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