第7話 レソトの人たち
クリシュナはガゼルの方に行き、兵がみなそこに集まった。
一隊から三隊にそれぞれ集まり、前後左右に歩いたり、走ったりと集団行動を始めた。
ガゼルがクリシュナと代わって私のところに来た。傷のある無骨な顔が笑っていた。今朝はみなが笑顔だ。戦いが終わり、勝利したのだという実感に満ちていた。
私は昨日のレソトの町との交渉についてガゼルに訊ねた。
エキドナル軍を殲滅した後、ガゼルを中心にレソトとの交渉が行なわれた。
レソトは、ガゼルに言わせれば、助けてもらった恩など感じていないようだった。
包囲軍を倒してくれたことに感謝はしているが、レソトが協力できることは何もない、と冷淡な物言いだったらしい。ガゼルは今後の町の安全やこれからの生活の向上など、いろいろと説得した。
しかし、返答は変わらなかったという。ガゼルはクリシュナが戻るのを待って、もう一度交渉の場をもった。そこには一団の中にいたレソト出身の男も加わった。この男がレソトの解放をクリシュナに強く訴えたのだという。
男が加わったことで交渉はいくらか穏やかなものとなった。しかしレソトは前の交渉と同じ内容を繰り返すだけだった。ただ、言葉にあった棘はやわらかくなった。
そこでクリシュナは、ガゼルに言わせれば不思議なことに、エキドナル軍から奪った食糧をレソトの町に渡す、と言ったらしい。これにはその場にいた全員が驚き、レソトの者が、そのような施しは受けられない、と答えた。さらにクリシュナは追い討ちをかけるように、町の中には女、子ども、年寄もいる。ここにいる者は食べずにどうにかやれるとしても弱い者たちはそうではない。意地だけで町が守れると思うのか、とまくしたてた。これにはレソトの者たちも下を向き、閉口したという。
結局、レソトはクリシュナの一団には協力しないという結論に達した。
ただし、エキドナル軍から奪った食糧は受け取り、町からクリシュナたちに合流したい者がいる場合にはそれを認めるということになった。
「ところが、あいつらに言わせると、この町を出る者がいるはずはない、らしい」
ガゼルは鼻で笑った。「出ようとする者に無言の圧力をかけているだけだと思うがね」
私は笑った。
「何かおかしいかな」
「いや、ガゼルさまの口調が、つい」
「ふむ。いや、それはいいが、『さま』とはよろしくない」
「間違っていますか」
「『さま』とはクリシュナさまだけに使われるべき言葉。わしはガゼルでよい。それが難しいのなら、『どの』をつけるのが正しいな」
「そうなのですか」
私は正しい言葉遣いなどというものを知らなかった。また、無骨なガゼルがそれを語るのも少し違和感があった。
「『どの』は礼をわきまえているが、『さま』は崇拝している。一兵卒やたかが隊長がそう呼ばれるのはおかしなことなのだ」
「覚えておきます」
私はいろいろなことをガゼルから学んだ。
知りたいことは山ほどあった。
そして質問すればほとんどのことは答えてくれた。
まず、夜襲の後の約束であった『絵の価値』について訊ねた。
「夜襲では目は見えぬ。だが、あの絵が心の目となっていた。それほど見事な絵だった。クリシュナさまはその画才を見抜かれたから、お前さんを連れてきたのだろう。敵はずっと陣中にいたが何も見えず、我々は暗闇の中に煌々と陣の様子が見えていた。我々は火を使わずに敵の不意をつくことができ、敵は火を手にして自分の姿をさらしていた。あんな雑兵の集まりに負けることなど有り得ないが、死者なく戦いを終えることができたのは、間違いなくあの絵があったからだ」
私は出会った時のクリシュナの言葉を思い出した。
あの時『見えないものを描く』と確かに言った。
今、ガゼルが『見えないものが見えた』と言う。
私の絵は役に立つ、そう言われた時以上に驚き、嬉しくなった。
私の絵には見えない不思議な力があるというのだ。
次に私は朝から大きな音をたてている訓練について訊ねた。
兵が強くなるためだということは聞かずとも分かる。
では兵が強いとはどういうことなのだろうか。
ガゼルは、クリシュナさまからの受け売りなのだが、と前置きした。
一では弱いが、まず一が強くなる必要がある。一人一人が戦えると心で信じることが大切で、日々の訓練と実戦での勝利がそれを生む。いや、勝利と言うのはわしで、クリシュナさまは生存と言われた、という。生き残ることが大切で、勝つことではないのだ、と。
だからまず一対一を鍛える。一人で三人を相手にしても怯まぬくらいに。そしてその強い一の力を崩さぬように、十の力を五十、百とする。それが戦で勝つ軍の力なのだという。私は十が百になるとは到底思えなかった。一が三なら、十は三十になるはずだ。
そこに一体の動きというものがあり、集団の動きを鍛えることで五十とするのだという。
一人一人が集まっているが、一つの動きを一糸乱れず行なうことで、一人一人の強さを損なわず、さらに協力による力を加えることができる。そして最後に、全軍を操る指揮官の策によってその力が百にも二百にもなるのだという。
「わしは今まで剣技を磨くことに心を砕いてきた。クリシュナさまの軍についての考え方は、はじめはよく分からなかった。戦い続けて、ようやく分かってきた。今回、五つある隊のうち、もっとも錬度の高い三つが従軍し、犠牲はなかった。集まったばかりの者が多く、錬度も低かったノルスクで、もっとも多くの兵を動かしたが、犠牲も多かった。思えば当然のことだったのだ」
ガゼルは静かに立ち上がった。
もう私を見ていない。
その目は兵を動かす長身の青年を見つめていた。
朝陽の眩しさに少し目を細めて。
「あの方の下にいれば、何も迷うことはない。タルカの力は必ずあの方のためになる。どうかここに残ってもらえんか」
そのつもりでした、と答えた。
そう、そのつもりなのだ。
ここでは私は絵を描くことができる。ここでは私の絵が役に立つ。ここでは私の絵が見てもらえる。これ以上の幸せがあるというのか。私はまっすぐに絵師の道を進もう。
私もガゼルのように、あの、背の高い青年を見つめた。
本当に細身だ。
強さを感じるところはあまりない。
しかし、誰にも動かせぬ荘厳さがあった。
そう、何も迷うことはない。まさにそうだと信じることができた。世の中が変わろうとしている。私にとっても、みなにとっても。
レソトの使者の予想は外れ、レソトの町から一家族が我々に合流した。
町の者は憎々しげな顔をして見送っていた。裏切り者だと考えているのだろう。冷笑が至るところから漏れていた。
逆に我々から離れレソトに残る者もいた。クリシュナにレソトの包囲軍を攻めるよう説き伏せたレソト出身の男だった。
クリシュナは来る者を拒まず、去る者を追わなかった。
男に、本陣の家族も護衛を付けてレソトに送り届けると伝えていた。そこまで親切な必要があるのかと思ったが、しかし男はそれを断った。護衛を、ではなく、家族がレソトに来ることを、だ。
家族と離れてレソトに残るという。
クリシュナは少し笑って、それを認めた。男に向かって、安心してよい、と優しく言った。
男はレソトが安全ではないと考えているのか、それともレソトでは家族を養えないと考えているのか、とにかく不思議な要望だと私は思った。
クリシュナはいつでも遠慮せずに戻ってきてかまわないとはっきり言った。
これも私は不思議に思った。レソトの町の者は、町を出る者を蔑んだ目で見ていた。裏切りだと感じたからだ。逆に、我々から離れ、レソトに残ることは、少なくともクリシュナにとっては裏切りではないようだった。
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