賢王の絵師 ~アイステリア王国中興物語~
相生蒼尉
第1話 プロローグ
絵が、いったい何の役に立つというのか。
母の言葉に何ひとつ反論はできなかった。ただ、絵を描くことが好きで、木の棒を片手に持ち、大地をカンバスとして、さまざまなものを描いた。朝から陽が沈むまで描き続けた。もちろんそれは、幼子の落書きでしかない。
母が生まれる前から続き、いつ終わるとも知らぬ長い戦乱の中、母は農作業を続けた。賦役や徴兵で人手がなく、収穫できた粟もほとんど手元に残らず、残った少ない食料も次から次へと徴発され、または略奪されていた。集落から何人もの逃亡者が出ていた。それでも母はここから離れず、農作業を止めなかった。
その頃、九つだった私には腕力はなかったが、それでも手伝える仕事はいくつもあった。しかし、働いたことはなかった。私はただひたすら、絵を描いていた。
ある暑い日、ぼろぼろの外套をまとい、顔を隠すように歩く旅の絵師に私は出会った。その時も私は絵を描いていた。旅の絵師は私の少し前で立ち止まり、私の絵を見下ろした。
絵は好きか。
低く、くぐもった声が頭上から降ってきた。私は手を止めて、顔を上げた。私は旅の絵師が顔の約半分を血に染まった包帯でおおっていることに気付いた。しかし、彼が絵師であることはまだ分からなかった。ただ、見たことのない荷物を抱えていた。
絵は好きか。
再び問いかけられた時、私は小さくうなずいた。旅の絵師は膝をついて私の目線に合わせた。血のにおいが鼻腔をくすぐった。見知らぬ男を前にしているのに、不思議と怖れはなかった。
母が駆けてきた。後ろから私を引き寄せ、絵師と私の間に割って入り、絵師をきっとにらんだ。私の肩に触れている母の手は少し震えていた。
あなたの子か。すまぬが、悪気はない。ただ、才がある、と思って声をかけただけだ。
そう言うと、絵師はゆっくりと立ち上がった。そして腰の袋を開け、黒いかたまりを取り出した。木炭だ。さらに肩にかけていた袋から小さな羊皮紙を取り出し、私と母に見せた。羊皮紙というものを私はこの時初めて目にした。男の手は魔法のように動き、私と私を守るように立つ母を描いた。それはほんのわずかな時間だったが、私には永遠に感じられた。男の手は少し動く度に、羊皮紙に命を吹き込んでいた。私だけでなく、母もその手の動きに魅せられていた。男は絵を描き終えると、羊皮紙を母に差し出した。
母は恐る恐る、男の手から羊皮紙を受け取り、その絵に見入った。私も母の手の中をのぞきこんだ。黄色くかすんだ羊皮紙に黒い線が走り、私と私を守ろうとする母がそこにいた。絵の中にある母の瞳は力強く、そして優しかった。
私は旅の絵師、芸士だ。
芸士とは、なんらかの一芸を生業として金品を得る、乞食の仲間だ。乞食よりいくらかはまし、と母が言っていたのを聞いたことがあった。
母の瞳に困惑が見えた。私はさっと目をそらした。その困惑は、何だったろうか、と後々考えさせられた。しかしこの時は、乞食の仲間である芸士にめぐむ物がないことと、一芸の押し売りをされたことに困惑しているのだと思った。
我が家にも、もちろん手元にも、あなたに渡せる物はない。
母の声は少し弱い気がした。あれ、と思った。
いや、水と、しばらく宿を願いたい。水がなければ、宿だけでもよい。
水なら。ここは霊峰セイト山の麓。水なら豊富にある。しかし、宿はなぜか。
少し母の声が明るくなった。
この子に、絵を教えたい。そのための時間がほしい。
私はその言葉の意味が飲み込めなかった。母が少し首をかしげた。
この子には画才がある。
旅の絵師は言葉に強い意思をこめて、言い切った。
絵師は納屋に泊まった。母は結局、絵を受け取って、男の願いをかなえたのだった。
それからしばらくは、私にとって夢のような日々が続いた。男は母の農作業に力を貸し、手の空いている時には私に絵の描き方を教えてくれた。羊皮紙、木板、木炭、顔料、絵筆など絵の道具だという見たこともない物をたくさん使わせてもらった。それだけでも至福の時だった。さらに男は、人の描き方、動物の描き方、建物の描き方、植物の描き方、風景の描き方などいろいろなことを教えてくれた。難しくてよく分からないことも多かったが、実践すれば体が覚えたので、頭での理解は必要ないものだったのが幸いだった。
男は大変親切だった。絵を教えてくれるだけでなく、文字も丁寧に教えてくれた。それに、たくさんの話を聞かせてくれた。悪魔と巨人の話、太った王と痩せた王子の話、皇帝と竜とその竜に乗る騎士の話、大きな帝国と小さな王国の話、心優しい醜い姫の話、賢い商人と愚かな山賊の話、農夫と鳥の話、魔法使いの塔の話。どれも不思議でおもしろいものだった。
ふと、父がいればこのような感じなのだろうか、と考えた。
ひと月が過ぎて、男は再び旅に出た。母と二人で見送ったが、その頃には血のにおいはなくなっていた。
そしてそれ以降、私の落書きに母は一言の不満をもらさなくなった。だから私はひたすら絵を描き続け、母は黙々と農作業を続けた。
一年後、私は絵を描きながら、ひとつの仕事を任されるようになっていた。
その仕事とは、生まれたばかりの妹の世話であった。
絵は私の人生のすべてではないか、と思えるほど、私の人生の中にあった。絵は私の運命だった。いつしか私はそう考えるようになっていた。
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