エピローグ
1
現フットサル部の部員全員に加え、
それどころか
しかし、この壮大な人数。
一昨日の夜に、遅い時間までたっぷりと送別会をやったばかりだというのに。
ここは、
国際線が主だが、主要都市への国内線も数こそ少ないが離発着しており、今日はその国内線で、
みな、彼女を見送りに来ているのである。
母親の姿はない。今日帰るのは、佐治ケ江優一人だけだ。母親は、こちらでやり始めた仕事があり、その整理が残っているため、一ヶ月か二ヶ月は千葉を離れることは出来ないとのことだ。
「みんな、ほんとうにありがとう。佐原南に入って、よかった。フットサル部に入って、よかった」
送別会でも何度もいった、佐治ケ江の言葉。何百回いおうとも、微塵も薄らぐことのない、最上級の、心からの言葉なのだろう。
「
「そんなことない。最高の、思い出になったよ」
佐治ケ江は、裕子の顔を見つめた。
相変わらずの、感情があるのかないのか分からない佐治ケ江の表情であるが、少しやわらかみのようなものが出てきていただろうか。
裕子は、照れたように微笑んだ。
2
千葉県決勝大会最終戦であるが、結局、佐原南は我孫子東に勝つことは出来なかった。
同点で迎えた後半終了ぎりぎりに、カウンターから失点してしまったのだ。
「羨ましいくらい、最高のチームだね。とても、強くて、最後までどうなるか分からなかった。あたしたちが勝てたのは、運がよかっただけ」
我孫子東の主将である
「だから、いい勝負になるっていっておいたでしょ」
裕子は負け惜しみでなく、そういって手を握りかえした。
結果は1―2の敗北だが、それが0―9の大敗であったとしても、同じことをいっていたと思う。
裕子にとっては、佐治ケ江が強くなること、佐治ケ江が自信をつけること、それ以上によい試合などはないのだから。
そして、その通りになったのだから。
「かなえ、ちょっと来な」
中島祥子は、
林原かなえは、裕子たちの前へと、ゆっくりと近付いてきた。肩をすくませながら、おずおずと。
「ほら、なんか一言、あるだろ」
中島祥子は、林原かなえの脇を肘で小突いた。
しばし無言であった林原かなえであったが、やがて、ぼそり小さな声で、
「……ごめんなさい」
深く頭を下げた。
「色々と、失礼なことをいって、すみませんでした」
肩が、震えている。
主将にいわされ、恥辱に耐えているのだろう。
それを見ていた
それはそうだろうな。
と、裕子は思った。
里子も少し前までは、自尊心の塊だったからだ。林原かなえの態度が、他人事には思えなかったのだろう。
自尊心というのは一種の刃、道具であり、あまりにするどすぎても、また、使い方を間違うと、このようになるものなのだ。
「あたしからも、謝ります。どんな相手にも経緯を払え、って常々いってるんだけど。この子、あまりに実力あるものだから、すっかり天狗になっちゃってて。……かなえ、鼻へし折ってもらえてよかったな。世の中にはな、お前より凄いのなんて、いくらでもいるんだよ!」
中島祥子は、林原かなえの鼻をつまんで、ぐりぐりと引っ張り回した。
「痛い痛い! もう謝ったんだから、いいじゃないですか!」
林原かなえは甲高い悲鳴を上げながら両手で中島祥子の手を引き離し、ささっと、また寺崎詩緒里の後ろに隠れてしまった。
「ひとの背中にばっかり隠れてんじゃないよ」
寺崎詩緒里は、林原かなえの頭を掴むと、脇に抱え込んでぐいぐいと締め上げた。
「痛い痛い、それほんと痛いから!」
部員たちのそんなやりとりを見ながら、中島祥子は両手を腰に当て小さくため息をついた。
不意に、裕子へと向き直った。
「また、戦いたいね」
「そうだね」
「正直いうと、佐原南とは当たりたくなかったんだ。なんだか怖くて。でも、勝ったとか負けたとか関係なく、こんな舞台で、あんな面白い試合が出来るのなら、またやってみたいなあ。」
3
本当に、気持ちのいい連中だった。あんなに強いくせに、驕りたかぶるところが微塵もなくて。まあ一人、とんでもないのがいたけど。
「結局、我孫子東も負けちゃったけどね」
千葉代表として代々木にある会場で戦うことになった我孫子東であるが、一戦目は6―0と圧勝であった。
続く、東京都代表との対戦では、まさかの前半二点ビハインド。怒涛の追い上げで、2―2で迎えた延長戦であったが、しかしそこで力尽きた。
関東という小さな舞台で、あれよりもっと強いチームがあるってんだからな。日本だの世界だのってのは、どんだけ凄い世界なんだろう。
裕子には想像もつかない。
「そろそろ時間だよ」
「サジ、わざわざいう必要もないと思うけど、他にかける言葉がないからいうけど……元気でね。いつかそっち遊びにいったら、お好み焼きの美味しいとこ連れていってよ」
「お好み焼きはよく分からないけど、美味しいお店、お父さんに聞いておくよ。そっちこそ、元気で。……でも、王子は少し元気がないくらいでちょうどいいのかもね」
「え……」
裕子は、佐治ケ江の口から発せられた予期せぬ言葉に、しばし沈黙してしまった。
「……あのう、サジ、ひょっとして、それ、冗談? サジ最大級の、冗談? シミズの舞台から飛び降りる的な気持ちで、よーし優ちゃん最後に一発かましちゃうぞーみたいな」
からかうつもりなど毛頭なく、ただ疑問を口にしただけであったが、佐治ケ江は顔を赤くしてうつむいてしまった。
「シミズじゃなくてキヨミズだよバカ。ていうかさ、これでお別れだって時に、なにいじめてんだよ。サジがせっかくもの凄いこといったんだから、爆笑してあげんのが礼儀だろ」
「晶さあ、それ全然サジを庇ってないぞ」
「もうその話は、やめて欲しい……」
佐治ケ江の、消え入りそうなか細い声。
「サジ、王子じゃないけど、向こうでも元気にやんなよね。なにかあったら、いつでも連絡してよ」
前部長の木村梨乃である。
彼女は力強くそういうと、どんと自分の胸を叩いた。
「はい。先輩方にも、本当にお世話になりました。特に、梨乃先輩にはいくら感謝しても足りないくらいです」
「あたし別になにもしてないってば。大袈裟なんだよ、サジは」
「いえ。そんなことはありません。本当に、先輩がいたから、自分は強くなれたんです。王子たち、素晴らしい友達が出来たんです」
「まあ、そう思ってくれるのなら、あたしも嬉しいけどさ。とにかく、頑張んなよね」
「はい」
「サジ先輩」
と、ここで生山里子が割り込んで、
「勝ち逃げにはならないから、心配しないでいいですよ。いつかきっちり負かしてあげますから。だから、これからもフットサルを続けて下さいよね」
「もちろん続けるよ。……いつか、どこかでね」
佐治ケ江と里子は、がっちり硬く握手をかわした。
「もう、いかなきゃ。……それではみなさん、お世話になりました!」
佐治ケ江は、なんだか佐治ケ江らしくない大きな声を出すと、深く頭を下げた。
4
大きかった飛行機が、どんどん小さくなっていく。
やがて、ゆるやかに旋回しつつ雲の中へと姿を消した。
「いっちゃったね」
「いっちゃったなあ」
裕子は、振り上げていた腕を下ろした。
「でもまあ、また会えるよ。地球は狭い。広島なんて陸続き。走ってりゃ、いつか会える」
「あれえ、王子、よく広島が陸続きなんて知ってたね」
武田晶がからかう。
「そりゃ知ってるわよ晶ちゃ~ん……バカにすんじゃねえぞコラア!」
裕子は、晶の両肩を掴むと、激しく引き寄せるようにして、ガッガッ、と素早く二回、容赦ない頭突きを浴びせた。
「いってぇ! また頭突きしやがった。しかも二度も!」
「ジャガイモ顔のくせに、舐めたこといってっからだよ。もう、おでこにデンプンがくっ付いちゃったじゃんか」
裕子は手にしていたハンカチで、額を拭った。
「王子先輩、それあたしのハンカチですよ! やだ、晶先輩のデンプンくっ付いた!」
里子は、裕子からハンカチを取り返すと、はたいてからポケットにしまった。
「そんなもんくっ付くわけないだろ!」
「晶、最近怒りっぽくなったなあ」
「怒りっぽくなくたって、怒るよ!」
「自分の熱でデンプン溶けて、ベタベタになるぞ。つうかもう、ジャガイモ料理の話は飽きた。……あ、そういえばさ、里子、さっき、サジとまたフットサルやろうって約束してたよな」
「はい」
それがなにか、と小首を傾げる里子。
「部活はもう辞めんじゃなかったっけ。だってサジがいなくなったら、ボール捌きの実力はどう考えても里子がナンバーワンだろ」
「辞めるわけないじゃありませんか。あたしの次の目標は、このフットサル部の部長になることなんですから。いつかまたサジ先輩とフットサルをやれる日まで、腕をみがくんです。敵味方かも知れないけど」
「お前、絶対に部長にさせな・い」
「なんでですか! 最近のあたし、集団まとめるのにかなり向いてますよ。王子先輩だってなれたんだし、あたしが部長になったら絶対に優勝です。日本一ですよ!」
「うっせえな。じゃあまず肩揉みからな。ほら」
「部長になるのと、なんの関係があるんですか! ……しょうがないな」
里子は裕子の肩に両手を置いた。
みんな、それを見て笑っている。
佐治ケ江と別れたばかりだというのに、誰も寂しがっていない。
でもそれは当たり前か。
裕子は思う。
だって、さっきいった通り、広島なんて陸続き。
走り続けていれば、きっとまた会えるのだから。
5
住宅街の中の停留所で、路線バスを降りた。
大きなトランクを持って降りるのは大変だったが、運転手さんが親切に手を貸してくれた。
周囲を見渡した。
遥か遠くを、ぐるりと山が取り囲んでいる。
緩やかな傾斜があちらこちらにある、こじんまりとした町。
しばらく立ち尽くして様々な思いに身を寄せていたが、やがて、キャスターつきの大きなトランクを転がして、歩き始めた。
狭く、曲がりくねった坂道を上っていく。
この町から離れて、ほんの数年しか経っていないというのに、なんだかとても懐かしい。
二十年も生きていないというのに、なんだか何十年振りかのように感じられた。
記憶と比べて、町並みはいささかの変化も見せてはいない。
町は自らの時間を止めて、自分の帰ってくるこの日を待っていたかのではないだろうか。
町並みどころか、知っている人たち、みんな記憶通りのままの姿なのではないだろうか。
もしもそうならば、ここには中学生の自分もいるのだろうか。
そうだとしたら、自分は誰なんだろう。
もしかしたら、あれからのことは……ずっと、夢だったんじゃないだろうか。
中学の時に、いじめられ、ビルから転落した、あの時から。
青いユニフォーム姿の
でも、写真は見つからなかった。
そうだ、ポシェットは、トランクの中にしまったんだっけ。
夢かどうか不安になるなんて。
以前はあんなに、これがみんな夢ならいいのに、自分のいるこの世界そのものが夢で、目覚めると同時にすべてが消えてなくなってしまえばいいのに、そう考えていたのに。
それが成長なのかは分からない。単なる心境の変化かも知れない。
今日は、自宅に父親がいるはずだ。
一人でゆっくりと帰りたかったので、飛行機の到着時刻は教えなかった。だって、知られたら絶対に空港まで迎えに来てしまうだろうから。
かつて駄菓子屋だったお店が、お好み焼き屋になっているのにふと気が付いた。
やはり、時間は少しずつ、流れているのだ。
どこの場所だって、そして誰にだって。
このお店、美味しいのだろうか。もしそうなら、王子が本当に遊びに来た時に、近くて便利だな。
でも自分は、お好み焼きって食べた記憶なくて、美味しいとか美味しくないとか判断出来ないと思うし、やっぱりお父さんに聞こう。
ビクッ、と不意に身体を震わせた。
前方から歩いて来る中年女性が、犬を散歩させているのだ。真っ白な、小さな犬。プードルだろう。
トランクの右側を歩いていた佐治ケ江優であったが、ぐるっと左側へと回り込んだ。そのまま、そろそろと盾代わりのトランクを押しながら歩き続け、中年女性やプードルと擦れ違った。
振り返り、女性が通り過ぎていくのを確認すると、ほっと安堵の息。
緩い坂道を上り切ると、しばらく平坦な道が続く。
その途中で足を止めた。
自宅に着いたのだ。
住宅街の中に溶け込んで目立たない、ごく平凡な一戸建ての家だ。
数年前まで、お父さんとお母さんと自分の三人で暮らしていた家。
もうしばらく我慢すれば、お母さんもこっちへ来る。また三人で、一緒に暮らすことが出来る。
あらためて、仲間たちに感謝の気持ちを抱いた。
佐原南高校での様々な出会いがなければ、こうしてここに帰って来ることはなかっただろうから。
門を開け、重たいトランクを両手で持ち上げると、玄関までの短い階段を上った。
母親から渡された、この家の鍵を取り出すと、鍵穴に差し込み、捻った。
ドアノブに、手をかけた。
「ただいま」
あらたな人生への扉を、佐治ケ江優は、いま、ゆっくりと開いた。
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