第二章 それでも私は悪くない

     1

 づきいくやまさとは、一対一で向かい合った。

 葉月は大きく足を伸ばし、里子の持つボールを奪おうとする。

 里子は軽い跳躍でそれをかわすと、続いて前方へのステップで葉月の脇を風のように通り過ぎる。


 振り返った葉月が見たのは、ドリブルをする里子の後ろ姿。あの動きの中でいつどのようにボールをコントロールしたというのだろう。

 そんな、呆然とした表情を浮かべる葉月であったが、小さく首を振ると全力で里子の背中を追った。


「葉月、ピヴォだからって、簡単に抜かれんな! フットサルは全員守備なんだ!」


 ピッチ脇で見ているやまゆうが、険しい表情で手を叩く。


 生山里子は、次の相手である真砂まさごしげと向き合っていた。

 茂美は、ベッキという守備的ポジションでスタメンを張る実力の持ち主である。抜くこと容易でないはずなのに、しかし里子は余裕の表情だ。

 難しい分だけ攻略の過程が楽しめるというだけの話、とでも思っているかのような、自信に満ち溢れた。

 だがここで山野裕子が、おそらく里子が予想もしなかったであろう言葉を発した。


「はい、茂美、サジとメインを代わって!」


 この交代タイミングに、里子は脱力したような顔。

 でもサジ先輩のほうがやりがいがあるか、と気を持ち直したか、にっと笑みを浮かべた。


 現在ピッチ内で行われているゲームであるが、一見するとゴレイロを入れない四対四の紅白戦だ。通常のそれと大きく異なるのは、チームではなく個人のための紅白戦だということ。

 四人のうちの一人が基本的にボールを保持し、ドリブルや味方とのワンツーなどで前へ進み、その者のゴールのみが得点と認められる。この四人のうち「一人」がメイン、残りの三人がサブと呼ばれる。

 サブは相手側のメインが保持しているボールを奪ったり、味方側メインからのパスを受けて返すのが役割だ。

 山野裕子考案による、先週から実験的に取り入れている練習方法である。


 裕子の指示により、生山里子は、今度は佐治ケ江優と向かい合うことになった。


「はい、再開。ピッ!」


 裕子の声でゲーム再開だ。

 里子は右足でボールを踏み付け、軽く腰を落とし、佐治ケ江の出方をうかがう。

 その表情から、余裕の笑みは消えていた。

 自信というオーラは相変わらず全身から噴き出しているが、百パーセントの力を発揮せねば勝てない相手であることを充分に承知しているということだろう。


 二人は、動かない。

 これまでの相手は、痺れを切らせて自ら飛び込んできたため、里子としてはそれに対応するだけでよかったのだが、しかし佐治ケ江は、目の前に立ったままぴくりとも動かないのだ。

 軽く、右に、左に、とフェイントをかけてみても、佐治ケ江はまったく力むことなく、少しもぐらつくことなく、そよ風にでも吹かれているかのようにただ立っている。

 里子の表情が、少し険しくなった。


 動かず立っているなんて誰でも出来ることだ、と、開き直ったか、自ら仕掛けることを選択した。単純なフェイントで、右と見せて左へちょんと蹴り、佐治ケ江の横を抜けた。

 先ほど、かじはなを抜き去った時とまったく同じ動作だ。

 花香同様に、佐治ケ江もぴくりとも動けていない。

 勝った、という優越感に、里子の顔にまた笑みが浮かんだ。

 しかし、その満足感、優越感は、ほんの一瞬しか持続しなかった。

 それはそうだろう。

 抜き去ったことを確信したというのに、自分の足元にあるはずのボールがないのだから。

 後ろを振り返ると、ボールは佐治ケ江の足元にあった。


「いつの間に!」


 思わず驚きの声を発する里子。

 その声を発した瞬間には、踵を返し、佐治ケ江へと身体を突っ込ませていた。

 ある種想定の範囲内ではあったのだろう。恐れているのか、認めているのは、知るは里子本人のみであるが。

 佐治ケ江優は、ボールを奪おうとささっと寄ってくるきぬがさはるともはらりんに背を向けて、再び里子と向き合うことになった。

 今度は立場逆転で、里子がボールを奪う番だ。

 里子側のサブである春奈は、佐治ケ江の背後からぴったり体を寄せ、足を出してボールを蹴り出そうとする。


「手ェ出すな!」


 里子は叫んでいた。


「サジと勝負したいみたいだ」


 と、春奈は鈴に耳打ち。二人はいわれた通り動かず、里子たちの勝負を見守ることにした。

 こうして生山里子と佐治ケ江優、一対一の勝負が始まったわけであるが、しかし里子、戦いを挑んだはいいが、その佐治ケ江からまったくボールを奪い取ることが出来なかった。奪い取るどころか、かすめることすらも。

 佐治ケ江と他の部員との練習を観察して、クセは読み取ったつもりであったのだろう。自信満面の里子であったが、その表情から急速に余裕が失われていく。

 足を付き入れてもそこにボールはなく、身体を入れても軽くかわされ、水や空気を攻撃しているかのように手応えがなく、いたずらに体力だけを消耗していく。

 余裕を失うことにより、里子はだんだんとイライラしてきているようだった。


 す、と背後にボールを回すは佐治ケ江。

 突き飛ばしてでも奪ってやる、とでもいう一種殺気のような表情を里子は浮かべ、佐治ケ江へと飛び掛った、次の瞬間であった。

 佐治ケ江はすっと前へ出て、里子の脇を抜けた。

 里子の顔に浮かぶ不思議そうな思い。背後にあるボールを無視して走り出したのだから、当然だろう。

 不思議そうな表情は、一瞬にして驚きに変わった。

 ボールがあったはずの位置に、ないのだ。佐治ケ江は背後にボールを置いて、なにを思ったか走り出したはずなのに。

 慌てて振り返り、佐治ケ江の背中を見る里子。

 驚愕に満ちていたはずの表情が、さらに驚愕に変化した。

 里子が見たのは、宙から落ちてくるボールを走りながら足の甲でトラップし、勢い殺さず走り続ける佐治ケ江の後ろ姿であった。


 かっ、と里子の頭に血が上っていた。

 佐治ケ江は、ヒールリフトという踵でボールを蹴り上げ頭上を通すという技で、里子を抜いたのである。動きを読まれぬよう、死角を計算しながら。

 それが、里子には遊ばれている、バカにされている、と映ったのだろう。

 全力で、瞬時にして走り寄ると、背後から襟を掴み、次いで両手で袖を掴み、真横へと投げ倒していた。


「ボールは!」


 激しい剣幕でボールを探す里子。焦っているからなのか、佐治ケ江が倒れたまま巧みにボールを隠しているからなのか、なかなか見つからない。

 すでに誰かにパスを出しているのかも、と周囲をきょろきょろ見回すが、誰も持っていない。

 やはり佐治ケ江が持っていた。膝の下のボールを、倒れたまま踵を振るい、かじはなへとパスを出した。

 花香は、ダイレクトに前方へとパスを出した。

 また、里子に浮かぶ訝しげな表情。

 メイン、つまり佐治ケ江に対してしかパスを出してはいけないルールなのに、そしてその佐治ケ江はまだ倒れているはずなのに、なぜ花香は前方へパスを出したのか。

 答えは明快。すでに倒れてなどいなかったからである。

 佐治ケ江はすでに前方を走っており、花香からの長いパスを、振り向きもせず、背を向けたままで受け、走り続ける。

 里子はすっかり頭が混乱してしまい、ただ茫然と立っているしかなかった。

 九頭葉月とのワンツーで友原鈴を抜いた佐治ケ江は、ゴールネットの中へとボールを流し込んだ。


「はい、終了おおっ! みんな集まれ!」


 山野裕子の号令に、紅白戦メンバーの八人がぞろぞろピッチから出て集まった。

 と、裕子はいきなり里子の鼻を力任せにつまみあげた。


「里子ォ。『手ェ出すな』じゃねえだろコラ、春奈先輩に対して一年坊主が何様のつもりだよ」

「いたたた!」


 裕子は、鼻をつまんだまま里子の顔をぐりんぐりん引き回した。

 それでようやく里子は興奮状態から覚めたようで、


「あたし、そんなこといっちゃいました? どうもすみませんでした、先輩」


 頭を下げる里子。


「あたし全然気にしてな~い」


 春奈は身体をくにゃくにゃ揺らしながら、笑った。


「気にしろやあ! どいつもこいつも。しっかし里子さあ、今年からとはとても思えないくらい、凄くいい動きしてたけど、クラブ荒らしってのも分かるくらい。でも、まさかサジの優ちゃんにガチンコ挑むとはねえ。で、どう、フットサル部辞められそう?」

「ご心配なく。絶対、年内にはサジ先輩を追い抜きますから。あと、あたし別に荒らしじゃないです。制覇したぞって自信と満足を持って、次の部活にチャレンジしたいだけですから」

「分かった分かった」


 えらい一年生がいたもんだよ。そう苦笑するしかない裕子であった。


     2

 ぎん、と音だけは勇ましいが実際の打球はボテボテのゴロ。きたがわあけはしまったという表情を浮かべながらも、バットを投げ捨て一塁に向けて走り出した。

 北川明美はソフトボール部であるが、相手ピッチャーも同様にソフトボール部なのだ。実力者同士、ボテボテになるもならぬも時の運というものであろう。

 ゆうは前へ走り寄り、屈み腰になってグローブを広げた。しかしタイミングが遅く、ボールは虚しく股の間を抜けていった。

 トンネルのエラーだ。佐治ケ江は慌てて振り返り、ボールを追い掛ける。


「ラッキー」


 北川明美は一塁ベースを蹴り、二塁を目指す。

 佐治ケ江はようやくボールを拾い、周囲の指示に従い二塁へ向けて送球するが、ボールは五メートルも飛ばずに地面に落ちてしまった。

 北川明美は全力で走り続け、二塁ベースをも蹴った。

 二塁手のやまぎしようが走り寄って、落ちたボールを拾い三塁に送球。だがぎりぎり間に合わず、北川明美の三塁打となった。

 北川明美は両腕を上げて、元気よく喜んだ。


「ごめん」


 反対にしゅんと畏縮するのは、佐治ケ江優である。


「優ちゃん、気にしないでいいから。あたしが打たれたのが悪いんだし」


 慰めるのは、ピッチャーのこんどうなおだ。彼女は女子ソフトボール部の副キャプテンで、後輩の面倒見がよく、またソフトボールの苦手な者にも理解があるため、このような場での人気者だ。

 ここは佐原南高校の校庭。

 水曜日四時限目の体育の時間、優たちのクラスは二クラス合同でソフトボールを行っている。


「サジ、ドンマイドマンイ。明美は、このあたしが絶対に生かしてホームに還させやしないから大丈夫!」


 センターを守るやまゆうの叫び声が轟いた。


「物騒ないいかたすんな! あんたバカだけあって馬鹿力だから、背中に当てられそうで怖いんだよ!」


 三塁から、北川明美もいい返す。


「頭にブチ当たったって、それ以上悪くなりようないだろ」

「バーカ! バカ裕子!」

「オマエガナー」


 くだらない争いをしている間にも、試合は進む。

 続いて、ばたひでの打順である。

 体格が良いのでホームランでも打ちそうに見えるが、如何せん彼女は運動音痴。

 ピッチャー近藤直子は、多少手加減気味の投球をしてあげるものの、しかしそれでも空振りしてしまう。

 スイングの高さがおかしいどころか、タイミングも大幅に遅れているのだから当然だ。

 その次も、どうぞ打って下さいというようなボールを空振り。佐治ケ江優の時とまったく同じだ。

 しかし佐治ケ江と異なるのは、三球目で奇跡が起きたこと。

 ジャストミート。

 ボールは天高く、ぐいぐいと飛距離を伸ばしていく。

 しかし、打球は北川明美が恐れる山野裕子の守備範囲へと、ゆっくり落ちていく。

 三塁ベース付近で北川明美は、タッチアップを狙い、期待と不安の入り混じる視線で打球の行方を見守っている。

 大丈夫そうだ、右中間を抜けそうだ。と、北川明美はタッチアップせず、そのまま本塁目掛けて走り出した。


 これでまずは同点だ。と、彼女は全力で走る。

 北川明美の遥か遥か後方、山野裕子は雄叫びをあげて、ボール落下地点へと走る。それは北川明美の予想を遥かに越える速度であった。


 裕子の野生的な走りは、田畠秀美が起こした三度目の正直ささやかな奇跡を無惨にも蹴り砕いた。

 つまり、裕子はなんと、ボールの落下地点へと間に合ってしまったのである。ソフトボール部である北川明美の目測を、ものともせずに。

 見事なダイビングキャッチを見せる山野裕子。これでツーアウトだ。そのまま素早く立ち上がると、三塁に向けてぶんと肩を振った。

 北川明美は、周囲の指示や喚声に慌てて踵を返し、戻り始める。

 しかし、あとほんの数メートルというところで、三塁手のグローブがズバッと豪快な音をあげた。

 北川明美もアウト。スリーアウトで四回の裏終了だ。


 授業時間の関係で、ここで試合終了。裕子や佐治ケ江のいるチームが、4―3で勝利だ。

 裕子たち外野の三人が、小走りで戻ってくる。

 北川明美は、裕子に話し掛けた。


「あんたほんっと馬鹿力。ソフト部に入んなさいよ。バカでもそこまで腕力ありゃ役立つでしょうから」

「無理だよ。フットサル部の部長なんだから」

「もう。今日は、あんた一人にやられたよ」


 二人は、手をパシッと叩きあった。罵りあおうとも、試合が終わればノーサイドだ。


「そういや裕子フットサルだったね。頭悪いくせに、よく部長つとまるね。技より力のあんたには、難しいんじゃないの」

「大丈夫、技の担当ならあちらにおわす」


 前方をとぼとぼ歩いている佐治ケ江へと、裕子は視線を向けた。

 裕子は北川明美の肩を叩くと、「んじゃねっ」と走り出す。


「サジ、一緒にいこっ」


 佐治ケ江の横に並び、肩をぴたり寄せる裕子。


「さっきのトンネル、あれ凄い受けたぁ。遠くから見てて、笑っちゃったよ」

「運動苦手なんだから、しょうがないじゃない」


 ほじくられて、ちょっと顔を赤らめ不満顔の佐治ケ江。


「はあ? 運動が、苦手って……なあにおっしゃってんの、この人はもう! この人はもう!」


 裕子は、佐治ケ江の肩を肘でゴツンゴツン、頭を肘でゴツンゴツン。


「異色なコンビだなぁ……」


 背後から、北川明美の呆れたような呟き声。


     3

「ダメダメじゃん」


 いくやまさとは、教室の窓枠に、組んだ腕をかけて、その上に顎をのせている。


 社会の時間なのだが、先生の急な都合により自習時間。

 イコール落書きの時間であったのだが、校庭にゆうの姿が見えたので、勉強も落書きもそっちのけで、ずっとそのを見ていたのだ。


「なんだ里子、知らないの? サジ先輩っていつもあんなだよ」


 かじはなは、里子と違いちゃんと自習しているが、ちょっとペンを持つ手を休めて、校庭を見た。ちゃんと自習、といっても社会ではなく古典の宿題であるが。


「フットサルは凄いのに、でもさあ、そういう不器用なとこがかわいいよね」

「確かに、フットサルは凄いよなあ」


 里子は眉を寄せ複雑な表情で、しみじみと呟いた。


「お、里子が相手を褒めるなんて珍しい。早くも降参ですかあ?」


 花香は楽しげに、里子のほっぺたをつついた。


「まさか。そんなわけないでしょ。絶対に、抜かしてやるから。あたしにクリア出来ない部活はない」


     4

 しんと静まり返っていた北校舎三階の廊下であるが、足音と談笑とで、急に騒々しくなってきた。

 階段を上って来る音。一人の女子生徒が、廊下へと飛び出してきた。


「まったく動き足りねー! 運動不足になっちゃうよー!」


 やまゆうであった。


「王子、まだ授業中だから」


 続くゆうに、大声を注意される。

 ここで、終業のベルが鳴った。


「もう授業終わったからいいだろ。おりゃあああ! 昼じゃーーーっ! メシじゃーーっ!」

「じゃからって、わざわざ叫ぶことないのに」


 佐治ケ江は、恥ずかしそうに周囲を気にしている。

 二人に続いてぞろぞろと、体育を終えた他の女子生徒らも階段を上がって廊下へと出てきた。


「うるさいよ、バカ。まだ終ってないクラスもあんだよ。バカ」


 きたがわあけにも注意される裕子であった。


 彼女らの前方、裕子たちの隣の教室の前で、両手にバケツを持って立たされている女子生徒の姿が見えた。

 フットサル部副部長の、たけあきらだ。

 良い獲物が見つかったとばかり、裕子の目が輝いた。

 たたっと走り寄ると、晶の全身へと舐め回すような視線を送る。


「うわあ、バケツ持って立たされるなんて、漫画だけかと思っていたよ。なにやらかしたん、今日は」


 バケツはともかく、立たされたり正座させられたり反省文を書かされたりは、ほとんど毎日な裕子であるが、このような楽しい機会には、自分を棚に上げてでも乗っからないと勿体無いということだろう。


「今日は、って自分と一緒にすんな。初めてだよ! ゴーレムの時間に居眠りしたのバレたのが、三回目なんだよ」

「ゴーレム居眠りすると立たせるんだ。あーよかったあ。たまたま、まだ一度もあいつの授業で眠ったことねーや。ありかとね、教えてくれて。お礼に、もう少しそこにいていいよ。まだ授業終わってないんでしょ。よければ昼休みも立ってていいから」


 晶は、目の前の畜生を転ばせてやろうと、ひょいと足を出し突っかけてやろうとするが、裕子はまるで猿のような身軽さで飛びのいた。


「ごめんね」


 なぜか謝る佐治ケ江であった。


     5

「お、お買い上げ、あ、あり、ありが、ございました、また、またおこし、くだくだ、さいっ」


 カウンターの向こう側で、づきは深く頭を下げた。

 お客さんが内側から扉を開けると、扉に付けられた鈴がちりんちりんと大きく鳴った。次に、小さくちりんと鳴って、ゆっくりと扉が閉じた。

 店内は、葉月一人きりになった。


 しばらくして、ようやく頭をあげた。

 椅子に腰を下ろした。

 左胸にそっと手を当てる。まだ、どきどきしている。

 ふう、とため息をついた。


 どうすれば、いいんだろう……

 この前は、接客のボロが出ないようになるべく余計なことを喋らないようにしてみたのだが、失礼な対応ではなかったかと不安になり、やはり今日のように心臓のどきどきが、なかなかおさまらなかった。かといって今日のように、なにか気のきいたことを喋ろうとしても、つっかえつっかえで全然思うように言葉が出てこないのだから。

 もどかしさと、恥ずかしさとで、なんとも切ない気持ちになる。


 ここは、てん。佐原駅周辺の、江戸情緒ある町並みの中にひっそりと建っている和菓子屋で、創業百三十年の、歴史のある店だ。

 葉月の父親が子供の頃までは、代々ここに住んでいたらしいが、現在は完全に店舗と倉庫。住居は、線路を越えて利根川土手近くにある新興住宅街に構えている。


 現在、店のお手伝い中だ。

 父親が配達に出かけている間の、店番を頼まれているのだ。

 本来なら配達は早朝、もしくは従業員のいる昼に行うのだが、今日は臨時に夜の配達をしなければならなくなったらしい。


 カウンター上の、脇にどかしておいた教科書とノートを取ると、勉強を再開した。

 もうお客さん来ないといいんだけど。お客の少ない店でも困るけど。どうせならお昼にじゃんじゃん来てくれればいいのに。などと、心に呟きながら。


 しばらくすると、お店の裏側から耳慣れたエンジン音が聞こえてきた。

 お父さんが帰って来たようだ。


「ご苦労さん。配達終わったから、もういいよ。ありがとう」


 ちょっと小太りの、ちょっと頭のてっぺんの寂しい中年男性が、裏口から店内に入ってきた。九頭葉月の父親、ゆうすけである。年齢四十九歳。


「お疲れ様、お父さん。もうすぐ閉店時間でしょ。このまま宿題やってるよ。一緒に帰ろう」


 お客さんと話すことは苦手だが、この店自体は大好きなのだ。


「了解。そういや、いまそこで裕子ちゃんとあったよ」

「王子先輩と?」

「そう、お前らのいう王子先輩と。冗談ばっかりいって、面白い子だよな」

「面白すぎるよ、あれは。度を越してるよ」

「それだけじゃなく、真っ直ぐでさ、いい子だよ」

「うーん。でも、ボール蹴って、ナハナハなんて叫べっていうんだよ。そんな恥ずかしいこと、出来るわけないじゃん」


 お店の宣伝のためか娘の応援のためかは分からないが、父祐介は以前に何度かフットサルの試合会場に姿を見せたことがあり、部のみんなと面識があるのだ。


 まぁ、確かに、お父さんが王子先輩をいい子だというのも分かるけどね。明るいし、裏表もないし。

 口は悪いけれども面倒見はいいし。

 あんなふうに生きられたら、毎日気持ちがいいだろうな。


 それに比べて自分は、気弱でなにもいえなくて、嫌なことを嫌ともいえず、そのくせ裏では、うじうじ悩んだり、恨んだり、ねたんだり、まるでいいところがない。

 家族以外と話そうとすると、あがってしまって、まったく会話にならないし。


「お父さん、あたしってダメかな」

「なんだ、いきなり。ああ、裕子ちゃん褒めたことか。彼女には彼女のいいところがたくさんあり、お前にはお前のいいところがたくさんあるんだ。自分の良いところを磨け」

「気が弱くてなんでもハイハイ聞いちゃうとことかあ」


 自虐に走る葉月であった。


「バカ。でも、そういうのでもいいんだぞ。コンプレックスがあるってことは、同じような悩みを持ってる人の気持ちが分かるってことなんだよ。優しくなれるんだよ。お父さんだって、足が短い人や禿げてる人には優しいぞ」

「その理屈を持ち出したら、短所のある人なんて誰もいなくなっちゃうでしょ。そうじゃなくて、文句なしのあたしの長所を見つけたいんだよ。0点取ることで0点の人の気持ちを知りたいんじゃなくて、百点、までいかなくても良い点を取りたいの。王子先輩はお父さんがいってたようにとにかく性格が魅力的だし、サジ先輩はフットサルが信じられないくらいに上手。そこまで凄くなくていいから、自分もなにか一つくらい持ちたいんだよ、自慢出来ること。自分のなにがいいのかさっぱり分からないから、伸ばしようがない」

「別に他人様に自慢するものなんかなくても、お前は充分に魅力的で、お父さんお母さんにとって自慢の可愛い娘だぞ」

「お父さんにそんなこといわれても、あんまり嬉しくないなあ。……あのさあ、可愛い娘と思っているなら、もう試合の日に会場に来ないでよね。凄い恥ずかしいんだから。お菓子配ったり、王子先輩と叫んだり歌ったり、試合中もひっきりなしに叫んでるし。太鼓ドンドン叩いて、旗なんかぶんぶん振ってさあ」

「あったっけ、そんなこと」

「何度もやっているのに、忘れないでよ。あたしが試合に出てるならともかく、控えにも入ってなくて、ただ一緒に来て座ってるだけなのに、ずっとあたしの名前叫び続けてて、ほんっとに恥ずかしかったんだからね」

「分かった分かった。じゃ、そろそろ帰ろうか」

「ほんとに分かってる?」

「うん、分かってる。お前は充分に魅力的だよ」


     6

「必殺くすぐり攻撃!」


 いくやまさとは、たけるの全身をこちょこちょしはじめた。健は四歳の男の子で、かじはなの弟だ。


 健はくすぐったさに、笑いながら身をよじっている。


「喜んでるけど、やり過ぎると急に泣き出すから気をつけてね」


 傍から見ている梶尾花香が、注意する。


「あたし不器用だから、そんな加減出来ないよ。だからタケちゃん泣くなよ、君は男の子なんだからな」


 いう通り、くすぐりの手は微塵も緩むことがない。


「里子、子供好きなんじゃん」


 梶尾花香は、ぐるり首を動かすと、またミニテーブルに置かれているノートに視線を落とした。

 自分の筆跡ながら、なんと書いたものか判別に困るところがあって、時折渋い表情を浮かべている。モキチ先生、黒板消すのが無駄に早いんだよなあ、などと心の中で愚痴などこぼしながら。


「別に好きでもないよ。花香の子だから可愛いだけ」

「えー、そうかなあ。って、あたしの子じゃないよ!」

「あ、そうか。いや、実質お母さんみたいな感じだからさぁ、ハナが。で、お母さんがお父さんで」

「うちはただ母子家庭ってだけなのに、なんだかややこしい環境のようにいわないでよ」


 ここは梶尾花香が住んでいるアパートだ。

 ここにいるのは、梶尾花香、生山里子、花香の弟であるけいりよう、健、の五人である。啓太と亮太は、部屋の隅で二人でプロレスごっこをしている。


 特に理由はなくとも、里子はよく遊びに来るが、今日訪れているのには理由がある。

 本日、学校で大変な出来事が起きたのだ。


 モキチの現代国語、オカマ貴族の数学、と二科目も宿題を出されてしまったのだ。しかも、示し合わせているのではないかと思えるほど、今日はどちらも難題。

 花香は里子に対し、運動においては全面的に負けを認めているが、勉強面ではライバルであり、宿題見せ合うような仲ではない。しかし事情が事情であることから、今日だけは共同戦線を張ることにしたのだ。


 でも、里子はある程度進めたところで、休憩といって梶尾家三男坊の健と遊んでばかりいるのだが。まあ、健が里子にまとわりつくものだから、仕方がないのかも知れないが。

 とはいえ、仕方ないで済ませていたら、勉強が出来ない。いや、わたしは一人で進められて助かるけど、里子にフェアでない。


「お姉ちゃんたち忙しいんだから、向こうの部屋で子供たちだけで遊んでなさい!」


 笑みを浮かべながらも、ピシッと命令すると、今日の健は素直だった。


「はーい」


 すっと立ち上がると、兄の啓太と亮太を連れて奥の部屋へ移動した。

 梶尾家の男子は、啓太九歳、亮太七歳、健四歳。甘えん坊ではあるものの、末っ子の健が一番しっかりしているのだ。


「ね、啓太ちゃん、亮太ちゃんときて、なんで健ちゃんだけ太がつかないの?」

「ああ、えっとね、太って普通は長男に付けるものなんだって。健も本当は健太の予定だったんだけど、お父さん、生まれる直前に誰からかそう聞いて、名前を変えたらしい」

「へえ、知らなかった。太って長男に付けるものなんだ」

「太郎次郎なんていうでしょ。……いけない、お鍋かけたままなの忘れてた! ちょっと見てくるね。里子も晩御飯食べてく?」

「せっかくだけど、遠慮する。家でやりたいことあるから、もうそろそろ帰るよ。宿題の残りは、別々にやろう」


 帰るという声が耳に入ったのか、また梶尾三兄弟が隣の部屋からあらわれて、里子にまとわりついた。


 里子は五分ほど遊んであげると、梶尾家を後にした。


     7

 食事の準備は出来た。

 でもその前に、まずお風呂。

 それが梶尾家の生活の流れだ。


 といっても、そうなったのはつい最近のことだが。

 なぜならば、去年まで暮らしていたアパートにはお風呂がなかったからである。


 ここは以前より建物はボロだけど、お風呂があるだけ遥かに快適だ。

 銭湯が潰れたことがきっかけで、花香の母親は近隣に風呂付きアパートを探し、ここへ引っ越してきたというわけだ。


 お風呂には、まず啓太と亮太の二人が入り、二人が出て花香が体を拭いてやり、それから花香と健が入る。いつもそういう順番なのだが、でもよく、花香たちが入っているところへ、啓太と亮太が戻り入って湯船へ飛び込んで来ることがある。

 今日もである。


「こら、あんたたちはもう入ったでしょ!」

「いいじゃん。健だけ姉ちゃんとズルイ」

「せっかく身体を拭いてあげたのに、もう」


 啓太と亮太は姉の言葉などまったく聞かず、湯船の中に入ってきた。

 花香もなんだかんだ文句をいいながら、ぎゅうぎゅう湯船を楽しんで、はしゃいでしまうのであるが。


「体ちょっと冷めちゃったろうから、風邪ひかないようにしっかり肩まで暖まるんだよ」


 暦の上では秋であるが、実際にはまだ夏の終わりかけ。そうそう風邪などひくものではないが。

 それより昨日のように風呂上りにふざけた啓太たちが逃げ回って、四人全員全裸のままで部屋という部屋を走り回る方が、よほど風邪をひくというものだろう。

 今日はちゃんと、服をしっかり着込むまで監視しないとな。


 昨日の追いかけっこは、ほんと参った。

 良太が思い切り玄関のドアを開けて外へ逃げようとするものだから、わたしも咄嗟に腕を伸ばして良太の腕を掴んで引き寄せたんだけど……もしかしたら、誰かに裸を見られちゃったかも知れないよ。

 まったく、こいつらは子供なんだから。

 ……でも自分だって子供だよな。幼い弟がいるから、大人の真似事だけしているけれど。


 花香は無意識に、ぎゅうぎゅうの湯船の中で身体をくねらせて、顔の半分ほどを水面下に沈めていた。ふと気が付くと、弟三人も同じことをしている。


「真似しないの!」


 というと、それを受けた啓太がすかさず良太へくるんと顔を向け、


「真似しないの!」


 すると亮太が健へ首をくるん。


「真似しないの!」


 健は、言葉を回す相手がおらず、困ったようにきょろきょろ首を振る。その仕草がなんともおかしく可愛らしく、花香は爆笑してしまった。


     8

 食後の後片付けをしていると、電話のベルが鳴った。どうせ母親からだ。帰りが遅くなりそうだという連絡だろう。

 出てみると、果たして本当にその通りだった。

 こっちはもう、母からいわれている時間に三時間を足して予定を組んでいるから、そんな連絡など必要ないというのに。

 平日は朝も夜も、ときには休日ですら、弟たちは母親の顔を見ることが出来ないのだと、とうに分かっていることなのに。


 しかし、今日の電話の用件はそれだけではなかった。


「なんで」


 はなは、少し語気を荒らげた。


 今度の日曜日に、けいりようの通う小学校で運動会がある。急な仕事が入り、それにいかれなくなってしまったというのだ。


「分かるよ。分かるけどさあ。仕事大切だよ。いつも感謝してる。でも、そういう時間くらい作って欲しくて、でも、でも、仕事大変なのも分かるからっ、だから家事を全部やってるのに」


 父親に死なれ、母親が一人で生活費を稼いでいる。花香としては、部活どころか学校を辞めてでも働いて家計の足しにしたい気持ちでいる。自分は女だからまだいいが、弟たちが、いきたい学校にもいかれないだなんて、あってはいけないと思うから。


 母は、四人の子供たち全員とも、自分の働いたお金で絶対に高校までは出させるといっている。

 でも、例え公立高校だって、それなりのお金はかかるのだ。

 だから実際、学資保険などもかける余裕のない、完全な自転車操業だ。

 本当に弟たちを、望む学校にいかせてやることが出来るのか。

 花香は、自分が学校を辞めて働けばその貯金が出来るのに、と常々考えている。そのことを母に話すと必ず、高校くらいは絶対に卒業しろといわれるのだが。

 ならばせめてアルバイトくらいしたいところであるが、それすらも禁止されている。学校の授業に、部活に、友達との会話に、と高校生ならではのことを全て堪能して欲しいから、というのが理由である。

 だから花香は、遊ぶことをまったくせず、学校関係以外はとにかく家事に専念している。母親に心置きなく働いてもらいたいということと、母と弟たちの最低限のふれあいの時間くらい作ってあげたかったから。

 なのに、せっかく作ってあげた貴重な時間にまで、仕事を入れてしまうなんて……


「いいよ、仕事してなよ。日曜はあたしがいくから。じゃあね!」


 受話器を叩きつけるように置いた。


「姉ちゃん、なんでおっきな声出してんの?」


 すぐそばに、長男の啓太と次男の亮太が立っていた。

 亮太のその何気ない問いに、花香は一瞬頭の中が真っ白になってしまっていた。

 そして、


「あんたたちがいるからでしょ!」


 怒鳴り付けていた。


 我に返った花香が見たのは、びっくりした亮太の顔。みるみるうちに目に涙がたまり、そして大声をあげて泣き出してしまった。

 連鎖反応で啓太も泣き出した。

 おろおろとうろたえる花香。心になにか込み上げてくるものがあったのか、ついには彼女まで声をあげて泣き出してしまった。

 座り込み、弟たちの頭を抱え、一番の大声で。


 お互いの泣き声が胸の奥の防ぎようのない部分を刺激して、次々やってくる悲しい気持ちに、三人はいつまでも泣き止むことを知らなかった。

 三男のたけるがちょこちょこと歩いてくると、花香の頭をなでた。まるで、親が子をあやすかのように。

 花香は健も抱きこんで、三人の頭をぎゅっとおさえた。


「ごめんね。酷いこといっちゃってごめんね。お姉ちゃん、みんなのこと大好きだから。誰よりも大切に思っているから」


 ひぐっ、としゃくり上げると、花香はなおも泣き声を上げ続けるのだった。


     9

 一瞬の隙をついて、ゆうはするりと抜け出し、ためらいなく右足を振り抜いていた。

 至近距離からの鋭いシュートに、相手ゴレイロはブロックの体勢に入る間すら与えられず、ゴールネットが揺れていた。


「よっしゃ、追いついた。サジ、やったね」


 やまゆうが佐治ケ江に走りより、ぎゅっと身体を抱き背中をぽんと叩いた。

 二人とも青い上下、わらみなみ高校フットサル部のユニフォームだ。


 現在行われているのは、ひがし高校との練習試合である。

 フットサル大会で毎回のように上位進出している、強豪校だ。

 ユニフォームは、真紅の上下である。


 現在青いユニフォームを着てピッチに立っているのは山野裕子、佐治ケ江優、真砂まさごしげかじはなの四人。ゴレイロのたけあきらは、FPと区別がつくようグレーのユニフォームだ。


 ここは我孫子東高校の、体育館である。

 我孫子東高校の女子フットサル部には、三十人以上の部員が在籍しているが、本日この練習試合に出場しているのは、普段公式戦に出ることのないような、いわば二軍選手のみ。その条件ならば、と練習試合を受けてくれたのだ。


 でも、ピッチの外では、我孫子東の主将であるなかしましようが腕を組んで、しっかりと試合を観ている。

 佐原南だけが、主力組の戦い方を相手に晒すことになるわけであるが、別に構わない、と裕子は思っている。

 戦い方を観察されて困るものでもないし、それに確か今年の関サルからは、我孫子東とは地区予選のエリアが異なるので、奇跡が起きて勝ち進まない限りはまず対戦することはないからだ。

 レベルの高い相手と戦えて、佐原南の方にこそ利益が大きいというものだ。


 二十分が二セットと、最後に十分が一セットという変則試合で、現在一セット目だ。


 得点は一対一の同点。


 佐原南は開始早々に単純なミスから失点してしまったが、その後は粘り強い守備で、ボールは回されるもゴールは許さず、そして九分、佐治ケ江のゴールで追いついたばかりである。


 佐原南のベンチでは、しのきぬがさはるづきいくやまさとともはらりんなしもとさき、の六人が試合の様子を見守っている。


 二年生の篠亜由美と衣笠春奈の二人は、声を出して選手たちの気持ちを盛り上げ、そしてピッチ内で駆け回っている部長に代わって戦術面での指摘や修正の指示を出している。

 一年生で声を出しているのは、友原鈴だけだ。

 九頭葉月は、小さく口は開いているものの、まったく声になっていない。

 咲は、いつも通り不機嫌そうに腕を組んで、はなから声を出す気もない様子。

 生山里子も似たようなものだが、しかしピッチに親友の梶尾花香がいれば、彼女に対しての声掛けは真剣にするのに、今日は咲と並んで不機嫌そうに沈黙したままだ。

 実際、面白くないのだろう。

 里子の立場からすれば、それは当然かも知れない。


 つい最近までは、試合に出るのは二年生と三年生だけであったが、もう三年生は引退しており、一年生と二年生にスライドしている。ならば、自分こそが一年生の代表として試合に出て然るべきなのに、なぜベンチなのか。花香のごときが試合に出ているというのに、自分はそれより無能なのか。


 相手ファールでプレーの止まった間に、山野裕子は選手たちに声をかけた。

 選手交代の指示だ。

 里子の肩が、微かに震えた。

 次の瞬間、ため息に変わった。


 山野裕子 アウト 篠亜由美 イン

 梶尾花香 アウト 友原鈴 イン


 アラ、つまり両翼のポジションを二枚替え。

 里子は、これが気に入らないようであった。

 四人の選手たちは、交代ゾーンで手を叩き合い、入れ替わった。


「お疲れ、花香」


 里子は、花香の肩を叩いた。不機嫌な顔を隠しもしていない。隠せるようなタイプではないし、隠す気もさらさらないのだろう。

 裕子に代わって入った篠亜由美であるが、彼女の技術的な能力はけっして高くない。しかし相手との力関係から組織のバランスを取る能力はそこそこ優れており、また、最後列を守る真砂茂美とのコンビネーションも相性がいい。親友同士で、普段からいつも一緒にいるからだろうか。

 友原鈴もまた、能力は高いとはいえない。ただ子供の頃からずっと何らかの運動をやってきているので、単純な身体能力はしっかりしている。技術より体力という点では、部長である山野裕子と似ているだろうか。

 鈴と裕子とで、決定的に違うのは自信だ。

 山野裕子には、「自分には、ちょっとやそっとの技術差など吹っ飛ばすくらいの体力がある」、とそんな自信に溢れている。実際に、それくらいやれているから、部長にもなれたのだ。

 鈴にはそこまでの自信がないどころか、並にやれる自信すらない。

 本人がそう気持ちを吐露したわけではないが、普段の言動に接していれば、誰でも分かるところだ。


 現在、第一セットの十四分。得点は1―1のままだ。


 佐原南はこの交代によって個人能力平均値はぐっと下がったが、はなから自分の技術が並であることを理解して中盤での舵取りに徹している亜由美と、技術がないからこそ必死に走り回ってチームの害にならないようにする鈴、これはこれで面白い効果をチームにプラスしていた。


 うちの実力を冷静に考えれば、二軍とはいえ強豪校を相手にこれまで一失点であることは、充分に及第点だ。このチームワークによる守備力は、むら前部長が残してくれた宝物だ。それを殺すことなく、さらに上を目指さないと。

 と、部長である山野裕子はどうすればチームがより強くなるのか、そればかりを考えている。

 考えているが、しかしさっきから脇でゴチャゴチャうるさい。


「花香や鈴が出て、なんであたしが出られないんですか? 花香がスタメンだったのに、あたしが控えってどういうことですか? 次、交代してくれますよね」


 結局、里子は黙っていられず、語気こそ荒らげてはいないものの、あきらかな不満を裕子へぶつけまくっていたのである。


「それじゃ、交代」


 裕子の声に、里子の目が期待に輝いた。

 しかし……


 佐治ケ江優 アウト

 衣笠春奈 イン


「おかしいじゃないですか!」

「おかしくないって。だってこれ練習試合だけど、あたし、勝ち狙ってるもん。意地でも全員使う必要はない」

「あたしが役立たずっていってんですか? 花香や鈴より下ってことですか? 先輩、普段、練習全然見てないんじゃないですか? 遅刻ばっかりしているから」

「うるせえなドアホが! お前はおとなしくここから、みんなのこと見て勉強してりゃいいんだよ!」


 気持ちは分かるので別に怒ってはいなかったが、さすがに鬱陶しいのと、里子をからかうのは楽しいので、裕子はちょっと怒鳴ってみせた。


「分かりましたよ!」


 里子は、どっかり激しい勢いでパイプ椅子に腰を降ろした。

 片足組んで、肘付き顎掛け、むくれっ面だ。


     10

 見る目無しの無能部長が。

 いや、見る目がないんじゃない。意地が悪くて臆病なだけだ。

 わたしがここで活躍するのが、いやなんだ。

 常々わたしが、部で一番になってから辞めるといっているから、そうなったら屈辱的な敗北だとかなんとか思っているんだ。

 無能のくせに頑固で臆病な最低部長!

 アホ。

 バカ。

 体育以外通信簿オール1!


「ね、里子」


 花香が、むくれっ面の理由を察したか笑顔で声を掛けてきた。


「ごめん、黙ってて」


 一瞥すらせず吐き捨てる里子。

 花香は、いわれた通り口を閉ざした。きつい態度に、特に落ち込んだ様子はない。里子とは長い付き合いで、このような性格であることなど充分に分かっているのだろう。ちょっとだけ寂しげな表情になったのは、自分が、というより、里子をなんとかしてあげたいという気持ちの表れであろうか。


 笛の音。

 1―1のまま、第一セットが終了した。


 裕子は手を叩き、ピッチから出てくる選手たちを迎え入れた。


「お疲れ。我孫子東に1―1なんて上等だよ」


 去年行った練習試合では、1―9でボロ負けしたのだ。それを考えれば、1―1が1―2、1―3であっても上等だろう。


 余談であるが、去年のその試合での、佐原南唯一の得点者は、まだ一年生だった山野裕子である。


 佐原南は、出る選手と出ない選手、部員全員で車座になった。

 裕子、晶、春奈、亜由美の四人が中心となり、反省点を出し合い、次のセットでやるべきことを話し合った。

 その間も、里子はずっとつまらなそうな顔をしている。


 本当につまらないのだから、仕方がない。

 なにがチームプレーだよ。

 相手を抜いてシュートを決めりゃ得点なんだから、結局、個人技で抜ける者の勝ちじゃないか。

 全員が全員そんな能力持ってないってんなら、そういう能力を持つ者を先頭にして、そこにボールを預ければいいだけじゃないかよ。

 わたし、そういう能力持ってるんですけどねえ。

 バカな部長じゃあ、それが分からないんだろうなあ。

 なあにが勝ちにこだわってるだよ。

 嘘ばっかり。

 二年生の沽券が、とかなんとか、逃げてるだけなんだろうなあ。


 などと里子が、試合に出られない不満を心の中でぐちぐちぐちぐち吐き出している間に、第二セットが始まった。


     11

 FPは、きぬがさはるかじはなづき真砂まさごしげ。ゴレイロはたけあきらに代わって、なしもとさき

 第二セットのスターティングメンバーだ。


 やまゆうはピッチの外から大声で指示を飛ばしながら、時折紙になにやら書き込んでいる。試した結果や、なにが通じて、通じなかったか、そういうものをまとめているのだ。この試合を勝ちにいくことはもちろん大切だが、それ以上に、戦力の底上げへと繋げたいからだ。


 だからこそ、この試合に絶対に出したくない部員が一人いる。


 自分を見つめ直して欲しい。それこそが、佐原南の戦力を上げる最もたるものになるはずだから。

 その当人は裕子の隣で、パシッ、パシッ、と自らの膝や腿を殴りつけている。いくやまさとだ。

 イライラして仕方ないのがよく分かる。

 裕子は心の中で笑った。苦笑とか嘲笑といったものではなく、どちらかといえばそれは微笑みのようなものであった。


 第二セットであるが、佐原南は最後のところで茂美が踏ん張ってくれるため、なんとか失点せずに済んでいるが、葉月、花香の動きがたどたどしく、たまに嫌なボールの取られかたをして大ピンチを招いている。


「下手だなあ、二人とも。もう、なにやってんだか」


 里子は、睨み付けるような視線で、ぶつぶつ文句をいっている。

 裕子は里子のそんな呟きを片耳に、反対側の隣にいるゆうへと話し掛けた。


「葉月は最近になって基礎もしっかりしてきたし、あとは気が小さいのさえ直ればいいんだけどな。なんか去年までのサジを見ているみたいだよ」


 苦笑する裕子の、気持ちが届いたのか、それとも単なる偶然だったのか、葉月は仕掛けていた。相手に近づいたかと思うと、急遽、ボールを大きく右に蹴り出し、抜き去ろうとした。

 相手も素早く反応し、ボールを奪おうとする。

 まだまだ発展途上中である葉月の技術力と経験とでは、抜き去ること容易ではなく、二人の身体はぶつかりあい、ボールがこぼれた。


 衣笠春奈が拾い、躊躇なくドリブルに入りゴールへと直進。

 直線上には相手のベッキ、そしてゴレイロ、その向こうにゴールがある。

 春奈はベッキをかわしてシュート、と見せかけて踵で後ろへとボールを流した。そのままシュートを打っていても、ベッキの上げた足に当たっていただろう。

 後ろから走り込んで来ていた梶尾花香が、ボールを拾って中央突破。ゴレイロと一対一になった瞬間、冷静にゴール左隅へとボールを転がした。


 ネットが揺れた。

 花香の得点で、佐原南が逆転だ。


「ハナ、ナイスシュート! しっかり守って、追加点狙ってくよ!」


 という裕子の叫び声を、ダン、と激しく床を踏み鳴らす音が掻き消した。

 足音の主は、生山里子であった。

 裕子は、里子の顔をちらりと見る。

 視線が合った。

 里子は、裕子の顔を睨み付けていた。

 裕子は面倒くさそうといったしかめっ面で、がりがりと頭を掻くと、立ち上がった。


「里子、次、春奈と交代するよ」


 表情の通り、口調までけだるそうであった。


「え……どうして」


 里子の表情が、きょとんとしたものに変わった。


「なにいってんだ。試合、出たいんだろが」

「当たり前じゃないですか! あたし以外、一年生みんな出て。花香がゴールまで決めて。レベル低い連中の底上げのための練習試合ならいいですよ。……勝ちにいくって、いってましたよね。それじゃあなんですか、あたしが一番レベルが低い、少なくとも先輩にはそう見えるってことですよね。また、さっきみたいに怒鳴りたきゃ怒鳴ればいいですよ、でもやっぱり先輩、練習見てませんよ」

「だからさあ……お前はね、技術的なレベルは、もの凄く高いんだよ。あたしなんかよりもずっとね。でも、レベルが高いだけなんだよ」

「意味が分かんない」

「そりゃ分かんないだろうよ。ずっとみんなのプレー見てて、分からなかったんだから。なら経験させてやるしかない。もうこの試合、どうなっても構わないから、思い切りやってこい」

「はあ? なにをいってんですか先輩。サジ先輩みたいなのばかりならともかく、このメンバーにあたしが入って戦力ダウンすると思ってんですか?」

「普段ぶすっとしているくせに、カッとなるとまぁ喋ること喋ること。話はあとで聞いてやるから。春奈、里子と交代だ」


 念願の出場だというのに、あまりのいわれようにに納得がいかず、里子は不満げに足を踏み鳴らしながら交代ゾーンへと向かった。


「里子、頑張ってね」


 春奈は汗まみれの爽やかな笑顔で、右手を上げた。


「いわれなくたって、ばんばん点取りますよ」


 里子は不機嫌そうな顔のまま、春奈と手を打ち合わせた。


 衣笠春奈 アウト

 生山里子 イン


 こうして、生山里子がピッチに入ることになったのである。


     12

 初めての対外試合。ゲーム運びだのそういうことはよく分からないけど、一対一の勝負なら関係ないだろう。全員を抜けばゴール出来る。ただそれだけのことだ。

 自分の実力を、みんなに見せてやる。

 認めさせてやる。


 いくやまさとはピッチに入るや否や、あわやファールかというくらいの猛烈な勢いで、我孫子東の選手へと激しく突っ込んだ。そしてその勢いのまま、ボールを奪い取っていた。


 ほおら、たいしたことない。

 胸のうちでほくそ笑む里子。


 しかしそんな彼女に一人つき、二人つき、気付けば奪い返されていた。

 さすがに意表を突かれ里子に渡してしまったものの、チームで奪い取る我孫子東の守備は、一軍に勝るとも劣らない見事なものであった。


 佐原南も、づき真砂まさごしげが巧みな連係を見せて、パスコースを塞ぎ、再び奪い返した。

 奪い取るなり葉月は、花香へとパスを出した。


 花香は走りながらうまくボールを収めたものの、相手のポジショニングがよく出しどころに困ってしまい、とりあえずドリブルしようとしたところをカットされてしまった。

 慌てて相手の背中を追いかける花香であるが、勢いあまって、ぶつかって転ばせてしまった。


 笛が鳴った。


「花香、ためらってないで、とっとと抜いちゃえばよかったんだよ。もたもた考えてっから、取られるんだ」


 倒れた相手選手を助け起こしている花香の後ろから、里子は声をかけた。


「無茶いわないでよ。あたしそんなテクニックない。それより里子が受けに戻ってきてよ。はる先輩みたいに」

「そんなこといってるから、攻撃のチャンスを潰しちゃうんだよ」


 ほんと、軟弱な考え方しているんだから。ハナも、みんなも。


「ハナ、里子、とっとと壁作れ!」


 裕子の叫び声に、二人は葉月たちと一緒に壁を作った。

 我孫子東のFKだ。

 キッカーは小さく助走し、蹴った。


 壁を越え、すっとゴールへ落ちていく。

 ゴレイロの梨本咲が、両手で弾いた。

 高く舞い上がり、再び落ちてきたボールを、今度は真砂茂美が跳躍しヘディングでクリアした。

 クリアボールが里子の足元へ。


 里子は迷わずドリブルで上がり始める。

 我孫子東の選手がすっと身体を寄せ、一対一になった。


 里子はフェイントを仕掛け、バランスを崩す相手のわきを通り抜ける。しかし、横から伸びてきた足にボールを奪われてしまった。


 九頭葉月がそのボールを奪い返そうと我孫子東の選手へ走り寄るが、ワンツーでかわされ、簡単に突破を許してしまった。


 佐原南は、明らかに前線から掛ける重圧が弱くなっていた。そのため相手が自由に動けるようになり、さすがの真砂茂美も単純なパス交換に抜かれてしまう。

 残るはゴレイロのみという大ピンチを迎えた佐原南であるが、しかしその瞬間、勢いよく飛び出したゴレイロ梨本咲が、スライディングでボールを弾き飛ばした。


「いいよ、咲」


 武田晶が、ベンチから咲のファインプレーを褒めた。


 咲は表情一つ変えることなく立ち上がり、すぐゴール前に戻った。


 クリアボールは我孫子東の選手が頭でトラップし、足元に収めた。だが次の瞬間には、背後から回り込んだ九頭葉月が奪い取っていた。


 葉月はドリブルで駆け上がるが、すぐ相手にマークにつかれてしまう。フェイントで突破をこころみようとするが、ぴったりとマークされて抜くことが出来ない。もたもたしている間に、さきほど葉月がボールを奪った相手に、同じことをやり返されてしまった。背後から回り込まれボールを奪われたのだ。

 あっという間にボールは佐原南ゴール近くへ。


 我孫子東がシュートを放った。

 咲はブロックの体勢をとり、身体で跳ね返した。茂美がコースを切っていたためブロックすること自体は容易であったが、しかし、こぼれ球を拾われ再びシュートを打たれてしまう。


 ばちん、と鈍い音がした。

 ボールが、咲の顔面を正面から直撃したのだ。


 咲は苦痛に歪んだ表情で、天井を見上げると、舞い上がったボールが落ちてくるのをなんとかキャッチした。


「みんな、さっきまでより一段と下手になっていないか?」


 里子としては、疑問を口に出しただけという、実に何気ない言葉であった。

 だけど、周囲の選手からすれば、「何気ない」で済む言葉ではなかった。

 佐原南の選手たちは、驚いたような、苦々しいような、様々な感情を顔に乗せ、里子を見つめていた。

 里子はみんなの向ける視線の意味に、まったく気づいていない。


 みんな、ほんとに下手になっている。さっきまでは、上手くはないながらもボールを回して、守備をして、ときには決定的な得点チャンスだってあったというのに……なのに、いまのこの状況、なんなんだ。何失点しても、おかしくない。なにやってんだ、こいつら。


「あたしが入ったから、手を抜いてんじゃないよね」


 みんなで示し合わせてさ。王子先輩が、「ほら、お前が入るとダメだろ」といいたいばかりに、裏で命令してて。


「バカなこといってないで、里子こそちゃんとやってよ」


 里子の態度に食いついたのは、親友の梶尾花香であった。


「やってるでしょ、ちゃんと! みんな、もっとあたしにパス出せばいいんだよ。この中で一番点が取れそうなの、あたしでしょ!」


 ばちん、という音、視界が一瞬真っ白になり、そして頬に張り手を受けたような電撃にも似た痛みが走った。

 足元にボールが落ち、転がった。

 里子は、自分の頬にそっと手をあてた。

 ボールは、梨本咲が投げつけたものであった。


「誰が手を抜いてるって?」


 咲のユニフォームの袖や胸は、血で汚れていた。さきほどのブロックで顔面を強打し、鼻血が出たのだ。


「どうでもいいんだよ、本当は。あたしも自分のことしか考えてないタイプだからさ。でも、ハナと葉月が可哀想だよ。……あたし、こん中で一番子供だって思ってたけど、違ってた。二番目だわ。あんたさ、一人でチームをグチャグチャにしちまってることに気付けよ、バカ!」

「点取りゃいいんでしょ、要は! フットサルってのは! いまあたしがピヴォなんだから、あたしにパス出すの当然でしょ。あたしが点を取るの、当然でしょ。あたしは技術だってあるんだから。じゃあ、協力すりゃいいじゃない。チームのこと、点取って勝とうということ、考えてないのはあんたらじゃないの?」


 里子は負けじと咲を、そして周囲のみんなを睨み付けた。


「そんなこと」


 と、花香がいいかけた時である、


「そんじゃ、里子のいう通りにしましょうか。みんな、どんどん里子にボール預けて。……ま、どんどん預けることが出来るんならね。……試合ぶった切っちゃって、すみませんでした。はじめてください」


 山野裕子部長は、審判役の顧問教師と、相手選手たちに深く頭を下げた。


 試合再開だ。

 梨本咲は、前方遠くへとボールを放り投げた。


 里子はそれを受けようとするが、後ろから飛び出してきた相手のベッキにヘディングで弾き返されてしまった。


 ルーズボールを相手ピヴォと競り合い、競り勝った真砂茂美は、足元に落ちたボールをきゅっと踏み付けるなり花香へとパスを出す。

 しかし花香にはパスの出しどころがなく、茂美に戻すしかなかった。


 茂美に我孫子東のピヴォが襲い掛かる。紙一重でかわすと、今度は左アラにいる九頭葉月へとパス。


 葉月も、受けるまではよかったが、やはり出しどころがなく、戻そうと振り返ったところ、今度は茂美にしっかりとマークがついており、バックパスも出せない状況であった。

 ピヴォがベッキをマークするなんて普通逆だよ。と、葉月が思ったか思わなかったか分からないが、いずれにしても結果は一つ。葉月は、簡単にボールを奪われてしまったのである。


 茂美にぴったりついていた我孫子東のピヴォは素早く後退して、味方からのパスを受けた。

 葉月からボールを奪ったアラは、そのピヴォを追い抜いていた。

 二軍ながら熟成を感じさせる、素早いパス交換。アラに、ボールが渡った。

 我孫子東は見事な連係で、佐原南の守備陣を一瞬にして突破した。佐原南ゴールが近付きコースが見えるや、躊躇うことなくシュート。


 ゴレイロの咲は、なんとか手に当てて、弾いた。

 落ちてくるボールに素早く駆け寄り、キャッチした。

 咲はすぐさまロングスローで、最前線の里子へと投げた。

 ようやく、里子へとボールが渡った。


 里子の背後に、我孫子東のベッキが密着する。里子は迷わず振り返り、ベッキを抜きにかかった。

 だが、ベッキは粘り強い守備で簡単には抜かせてくれない。また、簡単には飛び込んでこない。焦らされ、勝負そのものをさせてもらえないうちに、我孫子東の最終ラインにアラが一人戻ってきて、里子は挟まれてしまった。

 ならば強引にでも勝負をつけてやる、と里子は二人の間に身を割り込ませるように突破をはかるが、ベッキの肩を突き飛ばしてしまい、ファールを取られてしまう。

 我孫子東に、FKが与えられた。


 FKは、茂美が落ち着いて大きくクリア。

 こぼれを葉月が拾う。しかし、裕子の指示通り里子にパスしようとするのだが、相手のポジショニングが巧みで、迷っているうちにカットされていた。


 ドリブルのボールタッチが大きくなったところをうまく狙って、花香が奪い返したが、すぐ二人に取り囲まれてしまい、前線の里子へと送ることが出来ない。


 里子は一人、前線孤立の状態になっていた。


 仕方がない、と里子は下がってボールを受けにいく。

 ボールを回すためではなく、ただ単にボールを貰うために。

 フットサルはピヴォもボール回しに参加しなければ、すぐに数的不利になってしまう競技であるというのに。


 せっかく中盤に下がってボールを受けても、一枚、また一枚、と防火壁がどんどん閉じて、里子の進むべき道を塞いでしまう。

 里子をフォローしようと、葉月はサイドを駆け上がるが、里子の視界にはまったく入っていなかった。いや、もしも見えていたとしても里子はパスを選ばなかっただろう。


 里子は、攻撃すべき立場であるはずだというのに、火事場で退路を塞がれるような、じわじわと追い詰められるような、そんな焦燥感に全身を支配されていた。


 こんなはずじゃあ……


 自分の全身から血の気が引いて、さあっと冷たくなっていくのを感じていた。


「里子!」


 花香の叫び声。気付くと、自分に向かってボールが転がって来ていた。ただ足で受ければいいだけの、やさしいパスだ。それなのに、里子は受け損ない、それどころかボールの上で足を滑らせてバランスを崩し、転んでしまっていた。


 我孫子東はその隙を見逃さなかった。

 ゴレイロを除く全員で攻め上がったのである。

 魔法陣の軌跡のように、縦横斜め、複雑なパスが次々と繋がり、佐原南は完全に翻弄された。

 ゴレイロの咲がスライディングクリアを試みるが、我孫子東のピヴォはボールを浮かせながら小さくジャンプでかわすと、空中でボールをちょんと蹴った。

 ボールは、無人のゴールの中に吸い込まれた。


 2―2。こうして佐原南は追いつかれた。


 ズレた歯車はどうやっても噛み合うことなく、数分後には、逆転された。


 第二セット終了の笛が鳴った。


「どうしたの、全然ボール回せなくなっちゃって。守備も、最初は凄くいい感じだったのに」


 ベンチから見守っていたしのが尋ねた。


「だって、パスの出しどころがなくて、すぐ奪われちゃうし」


 花香は、しょんぼりとした表情で視線を落とした。


「失点は、ゴレイロがあきら先輩じゃなかったからでしょ!」


 里子は、花香の言葉に、自分が責められているような気がして、すぐさま反論に出ていた。


「なのに、あたしが入ったからやられたようなこと、いわないでよ。だいたい、この際だからいわせてもら…」


 みなまでいい切らないうちに、里子は、梨本咲にぐいと強く胸倉を掴まれていた。

 里子は動じることなく、冷たい目で咲を一瞥。


「なに、この手? あんたが二失点して、なんであたしが締め上げられなきゃなんないの?」

「ごめんね。バカなピヴォのフォローも出来ない、無能なゴレイロで」


 二人は、静かに睨み合った。


「よし、仲間割れタイム終了! じゃ、三セット目だけど、とりあえずFPはこのままでいこうや。ゴレイロは、里子の望みどおり、晶で」


 山野裕子は、てきぱきと早口で次セットへの指示を出した。


「いいわけ出来なくなったなって、喜んでんでしょ」


 里子は、咲を睨みながら、自分を掴んでいる腕を払った。


「そんなこと思ってないよ。あたしどうやら、あんたほど性格悪くないみたいだから」


 咲はもう、普段の顔に戻っている。普段の顔といっても不機嫌そうな仏頂面であるが、少なくとももう睨んではいない。


「里子だって性格悪くないよ! ちょっと不器用で子供なだけなんだから! 里子、見返してやろ。ね。チームプレーでさ。頑張ろ」

「花香、横からうるさいよ!」


 里子は怒鳴っていた。

 しん、と場に沈黙が訪れた。

 何秒、何十秒が経過したか、


「ごめん」


 ぼそりと小さな声で、里子は謝った。


 選手がピッチに集まり、第三セットが開始された。

 里子の動きはまったく改善されず、チーム全体の動きも最悪な状態のまま、さらに追加点を許すことになった。

 二点差をなんとか追いつこうとするあまり、佐原南はますますチームプレーとかけ離れた、酷い状態へと陥っていく。


 五分が経過した。

 山野裕子は、選手交代の指示を出した。


 生山里子 アウト

 篠亜由美 イン


 交代ゾーンで、二人は入れ代わった。

 亜由美はアラの位置に入り、九頭葉月がピヴォへとチェンジした。


「あたし一人を代えたって、守備陣みんながへたばってんのに……」


 なにも出来ずに交代させられることになった里子は、あえて山野裕子の隣に立って、小声でぶつぶつと文句をいった。

 しかし、この後に起こること、それは里子の予想を完全に裏切るものであった。

 思わず絶句してしまうような光景が、目の前で繰り広げられることとなったのである。

 一言でいうならば、佐原南のパスが繋がるようになったのだ。

 力関係が均等に、いや、若干ではあるが、佐原南が押すようになっていた。

 相手は主力でないとはいえ、強豪校の選手。個人技の能力も高い。それに比べて葉月のピヴォとしてのプレーは、それほど上手とはいえない。しかし球離れよく、ボールを受けては即座に右に左にと捌いていく。その流れの中から、亜由美のパスに花香が飛び込み触れれば得点、などと惜しい場面を何度も作り出した。


 我孫子東が守備固めをしてきたこともあるにせよ、いつしか佐原南が一方的に攻め続けるワンサイドゲームになっていた。


 だが結局、追加点を奪うことは出来ず、佐原南は2-4で敗北した。


 信じられない、という呆然とした表情で突っ立っているのは、里子である。

 終盤に好ゲームを演じた葉月や花香たちのことを、なんともいえない複雑な表情で見つめている。


 自分がいなくなった後、明らかにチーム全体が変わっていた。


 と、これは里子にも分かる。目で見たままだからだ。

 しかし、何故なのかが分からない。

 自分を陥れるために、みんなで示し合わせて、わざとやっていた。そう考えなければ、とても納得出来ない。

 でも、そんなことをするみんなではないこと、それもよく分かっている。

 じゃあ、どうして……

 と、里子の脳内では疑問がぐるぐる回ってしまう。


 亜由美先輩や葉月なんかより、自分の方がずっと技術はあるはずだ。そりゃ、亜由美先輩の方が少しは経験があるのだろう。でも、自分に代わって亜由美先輩が入ったくらいで、あれほどにチームが変わるわけがない。

 自分に代わって葉月がピヴォになったからって、あんなにチームが変わるわけがない。

 じゃあ、わたしが抜けたから……

 いや、そんなことない。

 わたしは悪くない!

 当然でしょう。普段の練習だって、サジ先輩以外の誰にも負けてないんだから。サジ先輩の背中だって、もうすぐそこ。わたしは、誰にも劣ってなんかいないんだ。

 わたしは……


「はい、勉強になったねー」


 山野裕子が、里子の後ろに立ち、まるで子供をあやすかのように頭をなでた。


 両校の部員たちは、あらためて全員でピッチ上に集まると、それぞれ横一例に並んで挨拶をした。

 続いて、用具の後片付けを始めた。


 里子は、足元に転がっているボールを拾い上げた。

 高く振り上げると、激しく床に叩きつけていた。

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