〈9〉截剣道

 夜にもなると、山の中だけあって真っ暗だった。市の中心部で見るよりも星空は綺麗だが、駅の電灯や、駅前の居酒屋などから漏れる光もあって、幻想的とまではいかないか。


 まぁそういうものだろうと、李桃は窓から目を離し、手元の本へと意識を戻す。


 合宿も四日目が終わろうとしていた。稽古で流した汗を風呂でさっぱりとさせ、学習時間という名目のお喋りタイムが唯一の憩いだった。

 相変わらず紅葉には一本も打ち込むことが敵わないが、慣れのせいだろうか、多少は余裕が出てきたように思う。例えば、夕食はまだだったな、だとか。



「翡翠ちゃんの方はどんな感じですか?」


「きっついよーもう。あのお姉ちゃん、顔に似合わずやることえぐいって……」



 机にかじりついている瑠璃たちの会話を、窓辺から聞くともなく聞く。初日などは疲れ果て、喋る余裕もなく死んだように眠っていたことも懐かしいように思える。


 一方で、李桃は眠れなかった。眠ろうと横になっては、恐怖に飛び起きることを繰り返していたのだ。その叫び声にも起きなかった瑠璃と翡翠には驚いた。

 驚いたといえば、姫芽香の髪型が変わる寸前だったこともそうだ。学習の進度に差があるため、一年生と二年生では部屋が分けられているのだが。今頃どうしているだろうか。



「ねーねーモモっち、何読んでるの?」


「ふぇっ? わわ、あふん!?」



 不意に声をかけられて、腰掛けていた窓枠から盛大に落下する。



「うぅ、いっだぁーい……」



 どうやら『達観しているように振る舞って恐怖を克服しよう』作戦は失敗に終わったようだ。



「……紅葉先生から渡された本だよ。『ストレート・リード』っていう、截拳道の」



 お尻をさすりながら、反対の手で本を掲げて見せる。



「お、ついにモモっち自身が武術と融合をするのか!」


「千葉さんに負けてから、新しい必殺技を得て立ち上がるヒロイン! 素敵です!」



 さっきまでの自分のテンションとは大きく異なる温度に、苦笑する。



「賑やかだな、お前たち。そろそろメシにするぞ」



 入口の扉が開き、紅葉が顔を出した。手にはビニール袋が握られている。



「紅葉先生、その袋は?」


「ああ、ちょっくら山形駅まで行ってきた。お前たちも頑張ってるからな、女将さんと話して、今日の夕飯はオレたちから差し入れることにしたんだよ」


「「ほんと? やったぁ!」」



 翡翠と手を合わせ、思わず跳ね回る。直後、ドンと壁が叩かれた音がした。



『うるさいわよ、二人とも!』


「「ど、どうして二人だと分かった!?」」


『分かるに決まっているでしょう!?』



 姫芽香の怒声に竦み上がる馬鹿な二人をよそに、瑠璃は袋の中を覗いていた。



「お肉……みたいですね。もしかして、平田牧場、でしょうか」


「「げっ……」」



 小首を傾げる彼女の背後で、李桃たちは硬直する。

 平田牧場といえば、真っ先に連想するのが、県内でも有名な定食屋『とん八』だ。その定番メニューに用いる豚肉に平田牧場の三元豚を採用している。

 そして、その定番メニューとは、『豚カツ』なのだ。


 合宿に慣れ始めたとはいえまだ四日である。普段なら喜んで飛び付くような御馳走も、疲労困憊の胃にとっては鞭で打たれることと同義だった。

 そんな、李桃たちが戦々恐々とする理由に見当がついた紅葉は、肩を震わせながら手を振る。



「いや、確かに販売店が駅ナカにあるが、これはトンカツ用の肉でもなければ、豚肉ですらない。平田牧場とはまったく関係ない物産コーナーで買ってきた米沢牛だよ」


「なんだよぅ、じゃあ駅まで行ってくる必要ないじゃん!」



 ビビって損したとじゃれるように叩く翡翠の手から逃げながら、紅葉は腹を抱えていた。



「悪い悪い。今日は月曜日、うちは休みでも他の学校が登校日だから、出なきゃならん会議があったんだよ。それより、恨むなら早とちりした瑠璃にしてくれって」


「えっ、わたしですかっ?」


「とにかく。もう少ししたら、散歩がてら川原へ来い。姫芽香たちにも声をかけとけよ」



 紅葉が騒がしく部屋を出てからしばらくして、窓の外から「あ、きたきた、鬼畜教師!」などという彩羅の声が聞こえた。

 かつての仲間たちからもそういう認識なのだと思うと可笑しくなって、李桃たちは顔を見合わせて笑った。


 山寺へと来た時の道を遡るように歩き、立谷川を跨いで暫く進んだところに、下へと降りる場所があった。薄々気がついていたが、大小様々な石が転がる川原の中央に、でんと置かれた大鍋が決め手となって、李桃たちの目が爛々と輝く。


 紅葉が買ってきたのは牛肉。川原に大鍋。山形県内でここまでキーワードが揃えば、芋煮会以外には有り得ないだろう。


 どうやら鍋にはまだ里芋と笹がきごぼうまでしか投入されていないらしい。待っている間は銘銘に雑談に耽ることにしようと、李桃たちは散開した。



「えっ、彩羅さんってモデルさんなんですか」


「そうだよん。普段は仙台に住んでるんだあ」



 姫芽香が呆然と目を瞬かせていると、彩羅が慣れた様子でウィンクを投げてくれる。その美しさに見惚れる一方で、自分が過去に剣道きたない生徒会きれいを天秤にかけたことを思い出した。



「ですが、剣道はモデル業にマイナスになってしまうのでは……?」


「本当はNGなんだけどねえ。まあ、ちゃんとやることやっていれば大丈夫だよん」


「それは仕事をという意味ですか、美容ケアをという意味ですか!」


「どうしたの姫芽香、目、血走ってるんだけど!?」



 鬼気迫る勢いに、隣で静観を決め込むつもりだった凛が声を上げる。



「んー、どっちも? というか、面を被って蒸れるのって、蒸気パックみたいでいいと思うんだよねえ。なーんで禁止なんだろ?」


「いや、剣道をそんな風に捉えてるのはお姉ちゃんだけだから。お願いだから姫芽香も真に受けないで、ねっ?」



 親友の説得が先か、芋が煮えるのが先か。そんな三人から、少し川の方へ寄った所は、打って変わって静かだった。



「真澄さんは、どんなお仕事をされているのですか?」


「えっ、なになに、ウチも聞きたーい」


 訂正。つい今しがたまでは静かだった。水切りをして遊んでいた翡翠が身を翻し、瑠璃の隣へと戻ってくる。それを律儀に待ってくれてから、真澄が口を開いた。



「拙は自衛官だ」


「そうなんですか? 私たちの父も自衛官なんですよ」


「自衛隊ってキツそうですよねー。パパなんか、ママに毎日湿布張ってもらってます」



 大袈裟に苦い顔をする翡翠に、真澄は静かに頷く。



「やれば疲れる。それは学生の部活とて同じだ。ただ、真面目に取り組まぬ場合の見返りが国の危機、という違いはあるがな。そうならぬために、拙らは訓練するのだ。無駄だと言われても構わぬ、忘れられるくらいが調度いい。有事以外にも気を張り続けるのは、拙らだけでいい」



 国を想う者の真摯な気持ちに、瑠璃と翡翠は吐息を漏らした。きっと同じ志で仕事に励んでいるだろう父へ、合宿から帰ったら母の代わりに湿布を貼ってあげよう。そう思えた。

 ヒキガエルの合唱や背後からのみんなの談笑が聞こえる。



「……実は、先の言葉は受け売りなのだ。三年ほど前に茨城から転勤してこられた、興梠三佐という素晴らしき御仁でな。此度の有給申請も、未来を育むためなら行ってこいと、快く受諾してくださった」



 聞き覚えのある名前に、瑠璃たちはお互いを見やった。階級も間違いないだろう。



「それ、私たちの父です」


「なんと。三佐が常々自慢していた二人の娘とは……なるほど」


「帰ったらウチら、パパに真澄さんのこと色々聞きますね!」


「それは、その……困る。恥ずかしい」



 ぽっと頬を赤らめて膝を抱く真澄に、やはり女の子らしいと、笑い声が沸いた。

 それを遠くから眺めていた紅葉が舌を巻く。



「おお……あの堅物が笑う所、久しぶりに見たな」


「失礼ね。あなた、真澄を女の子だと思ってないでしょう」



 美由紀の嘆息に、紅葉は明後日を向いて誤魔化す。そこへ、刀子が紙コップを三つ抱えてやってきた。さすが居合道の指導者といったところか、彼女は普段着から和服らしい。



「柳沼先生、鷹見先生。お茶は如何ですか?」


「すみません、いただきます」



 ふざけていた姿勢を正し、紅葉はありがたく紙コップを受け取る。



「今回は、本当に助かりました。道場もあるのに……」


「いいのです、旦那に任せてきましたから。あの人にも、たまには動いてもらわないと」



 控えめに笑いながら、刀子は辺りを見渡して、感慨深げに息を漏らした。



「お礼を申し上げるのはこちらの方です。これだけの若い気に囲まれて、私も、年甲斐もなく熱くなって参りましたのよ」


「いやいや、林崎先生もまだ四十代でしょう。これからですよ」


「あら余裕そう。ところで……柳沼先生と鷹見先生は、好い人はいらっしゃるのですか?」


「「ぶっ!?」」



 紅葉たちはほぼ同時にお茶を噴出させた。



「ふふふ。お二人とも剣道はお強いのに、色恋の話には弱いのですね。可愛い」


「けほっ、けほっ……わ、私たちは、まだ二十代ですから……」


「……オレたちのことはいいんで、せっつくなら彩羅の尻にしてください」



 既に三十路目前であるという、なけなしのプライドを落とさないように抗議する。しかし、



「あの子なら、先月だったかしら。彼氏を連れて遊びに来ましたよ」


「「マジで!?」」



 驚いた拍子に零れ落ちたプライドは、粉々に砕け散った。


 そんな顧問たちの静かな阿鼻叫喚を知る由もなく、李桃と咲は、暢気に大鍋の前でご馳走が出来上がるその時を待っていた。

 鍋の管理をしているのは、宿の女将だ。本来なら李桃たちが自分たちで取り仕切るべきところなのだが、芋煮会に誘ったところ、ついつい腕が鳴ってしまったようである。



「おっにくー、おっにくー。よぉし、米沢牛ちゃんを入れちゃうぞ!」



 お手伝いと称して菜箸を持っていた李桃が、止まらない涎に逸る気持ちを抑えきれず、トレイへと手を伸ばした――その出ばな小手を、女将に捉えられる。



「いけません。先にこんにゃく、ぶなしめじ。それからお肉です」


「ふぇぇ、ごめんなさい……」



 うな垂れる李桃の隣で、女将の手の速さに感心していた咲が、酒瓶を持つ左手とミルクケーキを持つ右手の手根部で拍手をしていた。

 そこへやってきた――もとい、逃げてきた紅葉がにやにやと挑発してくる。



「やーい、怒られてやんの」


「べ、べつに今の紅葉先生なら怖くないもんっ!」


「ほう、言うようになったじゃないか。明日からもっとハードにしてやろうか、うん?」


「おっ、おーぼーですよっ!?」



 手をわきわきとさせながら詰め寄ってきた紅葉が、こちらに飛びかかろうとした正にその時だった。彼女が伸ばそうとした手も、しっかりと女将に撃ち落とされる。



「いけません。大騒ぎすると、お鍋に土ぼこりが入ってしまいます」


「……すみません」



 鍋奉行の前には、かの『悪鬼』も形無しだった。

 しばらくして、鍋にはついに牛肉が投入される。この時を待ちわびた李桃と紅葉は結託して、女将の両側から追従笑いで挟み込んだ。手には仕上げの調味料を抱えている。



「お醤油、いつでもおっけーです!」


「酒は子供に持たせられないですから、オレが入れます!」


「いけません。箸が通らないうちに調味料を入れてしまうと、里芋が固くなってしまいます」


「「はい、すみません」」



 早く食事にありつきたいという下心は、見事に一蹴されてしまった。



「ううっ……お腹すいたよぉ……」


「……仕方ないよな。こういうものは上手い人が作らないと台無しになっちまう」



 結局、ネギが投入されて芋煮が完成するまで、李桃と紅葉は隅の方で一緒に拗ねていた。


 本来ならば秋がシーズンの芋煮会。季節外れではあったが、星空の下、大自然の麓で仲間たちと食べるだけでも格別だった。



「「「「「大江実業に勝つぞー、おー! !」」」」」



 夜空に突き上げた一握りの願いが、星たちに届いたのかは分からない。

 しかし、合宿の残り三日に立ち向かえる気力が湧いただけで、十分な収穫だった。






 * * * * * *






 山寺の蒼穹に、霊鳥の産声が響き渡った。

 打ち合ったままもつれ込み、その場に倒れた李桃と紅葉は、昼下がりの木漏れ日の中で、大の字になって並んだ。息が上がっている。乳白色の岩肌に反射した日光が眩しい。



「今、オレは本気でお前を殺すつもりだった。比喩ではなく、本気でな」



 充足感に満ちた声で、紅葉が言った。



「合格だよ。『剣道の構え』という価値観を、よくもまあぶっ壊してくれたな」


「ふぇっ? えへへへ……」



 李桃はくすぐったそうにはにかんだ。首を動かすことができず、師の表情は見えないが、それはきっと自分と同じものだろうということは伝わる。

 空を見上げると、黒い蝶が舞い上がっていた。疲れて靄がかかったような視界には、その軌跡が立ち上る竜のようにも錯覚する。それを称えるように、木々の間でシジュウカラの鳴き声が飛び交っている。いつの間に流れていたらしい垂水不動尊の、細やかな瀑布の音が聞こえた。


 自然は、雄大だった。初めて山に登った時には恐怖しかなかったことが懐かしい。



「李桃。ブルース・リーが型に囚われる武術を嫌ったのは、貸したDVDで見たな?」



 合宿中の稽古を懐かしんでいると、ぽつりと、紅葉が切り出してきた。



「日本にもいたんだよ。『昭和の剣聖』だとか『最後の武芸者』と称される、中山博道という大先生がな。先生は竹刀稽古や形稽古、居合や流派ごとの教えが別々なものとして考えられてしまうことを嘆いていたらしい」



 彼女の声色は、誇らしげだった。かのブルース・リーに匹敵、いやそれ以上の力を持っていただろう武士もののふが同じ日本人であることは、李桃にとっても感慨深いものだ。



「中山先生は、空手を見た際に『素手による剣術である』と言ったそうだ。だが、オレはこれを技術の話だけではないと思っている。分かるよな?」


「『ダオ』……ですね」


「そうだ。空手は素手の剣術であり、剣術は剣を振るう空手。人種が違えど本質が人間であるように、武術が違っても本質は生きる道だ。ブルース・リー師の言う『型に嵌るな』も、本質に目を向けろということなんだろうな」


「……はいっ」



 目を閉じ、紅葉の言葉を噛みしめる。瞼の裏の色が変わったことにそっと目を開けると、空高く伸びた木に支えられるように、太陽がこちらを覗いていた。ふわりと、面金の隙間から緑の温かい土臭さが入りこんでくる。



「まずは目下、大江実業との戦いがあるが。その後からが大変だぞ、李桃。現代剣道の基本と教えられてきたものをここまでぶっ壊したんだ。今後勝ち進むごとに、確実に批判は大きくなる。それは間違いない。それでもお前は、自分が目指す剣の道を信じられるか?」


「はい。みんながいてくれるから、きっと。できます」


「……そうか。もう少し休んだら、帰るか」


「はいっ!」



 憑き物がとれたような、満面の笑顔。しかしそれに、紅葉がむっと唸る。



「お前、実はもう立てるだろ」


「いえ、そんなめっそーもないっ!」



 この合宿中にどれほどの生傷を作ったか分からないほど、満身創痍なのだ。李桃は声だけで慌てて否定すると、再び意識を大地へと横たえる。

 ふと、シジュウカラの鳴き声の隙間から、蝉の声が聞こえた気がした。



「今、蝉の声が聞こえませんでした? 松尾芭蕉ですよっ!」


「……まだ五月の頭だぞ、聞こえるわけないだろう」



 興奮に思わず飛び起きた李桃へ、紅葉は鬱陶しそうな半眼を向けてくる。直後、彼女の目が憤怒に見開かれた。



「おいこら、やっぱりお前立てるんじゃねぇか!」


「ふえぇ、ごめんなさーいっ!?」



 合宿七日目の木曜日。明日の登校日を挟めば、約束の土曜日まであと二日。


 ついに、『截剣道ジージアンドー』は完成した。

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