〈7〉襲撃
「よーしモモっち、武道場まで競争だ!」
「うん、負けないよっ――うひゃぁっ!?」
翌日の放課後。今日も今日とて騒がしく教室を飛び出した首根っこが、隣の教室から現れた鬼の手によって捕らえられた。
「翡翠……李桃……お前たちは元気だなぁ? そうかそうか、廊下を走るほど元気かぁ……」
「「ひっ……」」
口の端から幽気を漏らしながら、あごをしゃくれさせた般若の如き形相で二人を睨めつけるのは、紅葉。彼女は李桃たちの隣、一年A組の担任なのだ。
「ったく。剣士たるもの、常日頃から他の模範になるように振る舞えよ」
「ぶー。武道場をサボり場だって言っちゃってる誰かさんには言われたくな――」
「何か言ったか?」
「いえめっそーもございません!」
理屈などというものは、『悪鬼』の前には無力。残酷なものである。
後から楚々と教室を出てきた瑠璃によってようやく解放された李桃たちは、
「オレは週例会議の後でそっちに向かうから、先に稽古を始めててくれ」
という見送りの言葉を背に、今度は小走り程度の足並みで武道場を目指した。
* * * * * *
職員会議で顧問不在のまま、面をつけてのメニューへと移行していく。基本の稽古である切り返しを十分に行ったあとで、基本技・連続技の特訓が始まった。
「相手の竹刀を無視しないで。中心を取れなかったら、相手の方を誘い出していこっ!」
「小手先での崩しになっているわ。腰をつかって攻めなさい!」
まだ探り探りではあるが、経験者の李桃と姫芽香が先導していくことで、紅葉からの課題はある程度の形にはなっていた。
咲が素早く右に回り込めば、李桃は同じく右に回って体制を整える――ことはせず、敢えて斜め左前に足を送って間合いを詰める。自分の理想とする打ち間を見失って戸惑う、がら空きの面に元立ちから打ち込んで、仕切り直し。
膝関節の柔らかさで遠間から一気に間合いを詰める術を身に着けた翡翠は、飛び込むだけならば美しいはずの足捌きが、一撃を打ち込もうと必死になるあまり、今度はへっぴり腰のようになってしまう。その隙に相打ちを狙われれば、中々有効打突が成立しない。
もちろん、李桃たちも悠然と指導をしている余裕はなかった。打ち込むべく飛びかかれば咲に視界から姿を消され、技を見切って防御した翡翠からは、剣道の構えの性質上脆弱な、横からの体当たりで転倒させられる。一番厄介なのは瑠璃だろうか。二刀流というだけでもやりづらい上に、わずかにでも躊躇った瞬間に竹刀をもぎとられてしまう。
一般の高校生剣士たちがこの稽古を見れば、誰もが互角稽古だと認識するだろう。もはや基本技とは名ばかりの、ガチンコのぶつかり合いだった。
休憩に入った頃には、基本技だけでたっぷり一時間は経過していた。
「ぷっはー! うっへーしんどーい! でも楽しー!」
「そうですね。常に頭を使わなければならないのは、とても刺激になります」
「……刺激? 瑠璃は、ディスアームしてただけ」
「うぅっ……返す言葉がございません」
面を外した翡翠たちは、思い思いに感じた手応えに沸いている。
通常であれば、基本技の稽古は約束動作のように行われることが多い。大抵は一人三本交代で、相手を変えつつ二、三セットもすれば次の技、といったローテーションになるだろう。
それが試合と同様に互いが攻め合っての一時間。密度の差は大きかった。
「思ったんだけどさー。剣道の指導って、何かエロいよねー」
「……はい?」
不意の爆弾発言に、手拭いで顔の汗を拭っていた姫芽香の手が止まる。
「だってさ、『相手を誘え』とか『腰で攻めろ』とか『突いて!』とか、ヤバいじゃん」
「完っ全に異常な論拠ね……そんなことを考えているのはあなたくらいよ」
「そうですよ翡翠ちゃん。前二つはともかく、最後のは誰も言ってません」
「瑠璃ちゃん、そのツッコみも変だよぉ……」
周囲からの猛反対を受けてもなお納得がいかない様子の翡翠は、ついに禁断の「つか竹刀ってエロくね?」という呪文に手をだしたがために、姫芽香から叩き伏せられた。
翡翠が後頭部を摩りながら呻いていると、武道場の扉が音を立てた。
「あっ、紅葉先生、来た…………んだ、ね」
真っ先に気づいて振り返った李桃は、語尾のトーンダウンとともに、竹刀を取り落しそうになった。入口で礼をしてから入ってきた人物が、待っていた人物ではなかったこともある。
しかし、その一番の理由は、黒を基調とした気品のある制服に身を包んだ、黒髪の少女にあった。彼女は防具袋を背負い、竹刀袋を手に提げている。剣士であることは明白だった。
髪の長さは姫芽香と同じくらいだが、まったくの異質。彼女がたおやかで清楚な美しさを持つとすれば、来訪してきた少女は薄氷のような鋭利さを含んだ麗しさを放っている。
「今日はいらっしゃるようですわね、皆様方?」
かけられた優美な微笑みに、李桃は奥歯ががたがたと鳴るのを必死で堪える。
街で自然に歩いていれば、誰もが振り返るだろう美少女。
しかしながら、彼女の奥底から迫りくるような覇気の大蛇の存在に一度気づいてしまっては、身震いするなと言うのは酷というもの。全身が悲鳴を上げてのた打ち回るような、底の見えない恐怖に囚われるのだ。
まるで剥き出しの刀。それはおそらく、この中では、李桃にしか視えていない。
「千葉……直刃……」
来訪者の名前を、姫芽香が苦悶の表情で零す。彼女もある程度は気の圧力を感じてはいるようだが、恐怖心の軽さは李桃の比ではないだろう。そんな彼女の目も、千葉のあとに続いて道場へと入ってきた面々に、大きく見開かれることとなる。
「おっ、たしかあんた、お遊戯の。伊氏波の剣道部だったのかい」
――大江実業高校医学部三年・榊原凪。
「ちんまいのも居るとは興醒めじゃのう。齧ったシステマに齧った剣道……底が知れるわ」
――大江実業高校情報学部二年・栄花聖。
「どうやら私と君は、剣においても戦うことになるらしいね」
――大江実業高校体育学部三年・宮崎茉莉奈。
「偉そうにお姉様へ盾突いたクセに、何よその顔。これはもう麗緒奈の勝ちでいいわよね☆」
――大江実業高校音学部二年・宮崎麗緒奈。
千葉だけでは状況を掴み切れていなかった翡翠たちの間にも、次々と姿を現した因縁の相手立ちによって、俄然空気が張りつめて行く。
「あら、全員顔見知りでしたのね。ならばわたくしの自己紹介も必要ないかしら?」
――大江実業高校経済学部三年・千葉直刃。
「本日は、貴女方の部活動を解散していただきたく参りましたの」
そう彼女は宣言した。尊大に胸を張っていながら、肩に力が入っている様子がない。そう振る舞うことが自然体であるかのようだ。
「ちょっとー、意味わかんないんだけど!」
「突然来られたかと思えば、剣道部を解散しろと言われましても」
「ん。納得できない」
立ちはだかるように前に立った翡翠たちにも、千葉は微動だにしない。
「わたくしは剣道部を解散しろとは申し上げておりませんわ。部活動を解散してくださいまし」
何を言っているのか分からないといった声色に、それはこっちのセリフだと姫芽香が立つ。
「私たちの所属は剣道部よ。それとも、大江実業剣道部の大将ともあろう方が、武道場がどういう場所かご存知ないのかしら……?」
嫌味交じりに睨みを利かせる。しかし、それを虚勢だと見破った嘲笑に一蹴されてしまった。
「剣道? あなた方がやっているものが剣道と、そう仰いますの?」
「それは、どういう……」
「どうもこうもございませんわ。貴女方は、剣道に他武術を取り入れるなどということを実践しているそうですわね。しかし、剣道とは人道。命を研ぎ澄まし、生を全うするための精神を修める誇り高きもの。
理性を御することもできず、獣の如き暴力を徒に振るうことしか能のない野蛮な武術と迎合した剣など道に非ず。剣道と呼ぶわけには参りません」
千葉の信念めいた双眸が、一度に姫芽香たちを射抜いて行く。
「『徒に、高き理ばかり語りても、業に疎くば、空しかるべし』――剣を手にして敵を斬るということが、どれほど傲慢で重い業であるか。それが理解できないのでしたら、今すぐにその手の竹刀を置き、『部活』を辞めておしまいなさい」
「そ、そんなことしませんっ!」
李桃が悲鳴を上げた。歯を食いしばり、袴の中で膝を震わせながら、それでも踏みとどまる。
「剣道は、楽しいものなんです。あたしは、みんなで学ぶ剣道が大好きなんですっ!」
「ですから、その仲良しごっこで剣道を穢すなと申し上げておりますのよ」
理屈とは遥かに遠い子供めいた主張に、千葉の顔にも苛立ちが表れる。一体どこの馬の骨なのかと品定めしてきた彼女は、ふと、李桃の垂に書かれた名前に目を止めて、
「村山……? ああ、ああ。なんてことかしら! 思い出しましたわ、貴女――」
嬉しそうに口端を歪めた。
「わたくしの最後の中総体。県内で唯一、わたくしから一本を奪ってくれた猪口才な娘。わたくしに打ち据えられて、一時は剣道を辞めたと聞いておりましたけれど……」
「うぅ……」
挑発的な視線に、李桃はぐっと唇を引き結んで耐える。怖い、怖い、怖い。
「これでもわたくし、貴女を買っていましたのよ? 言い訳のできない、私自身の甘さに気づかせてくれた剣士なのですから。しかし、再び剣を手に取ってやることが、このような児戯とは。これは、わたくしの眼も曇っていたということなのかしら」
あれから姫芽香に負ける悔しさを拭ってもらい、以来、イメージトレーニングで千葉との再戦を目指してきた。そう、確実に追いかけてきたつもりだったはずなのだ。
しかし、克服したと思っていた恐怖に全身が支配される。何故だ。
「更衣室をお貸しくださいまし。わたくしはこの場で、貴女に試合を申し込みます!」
胸の内で膨れ上がるモノの原因が解らないまま、李桃は、言われるがままに小さく頷くことしかできなかった。
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