〈3〉湯煙武闘会
東沢高校との練習試合を終え、翌週末。蕾がようやく開いた桜の下で、李桃は模擬具足の胴鎧を仰いでいた。まだ四月だというのに。寒気が過ぎた途端に猛烈に押し寄せる気温が憎い。
「ふぃー、あっづいよぉ……」
目の前にある扉の向こうでは、軽鎧にマントを身に纏う男性が、将棋の盤面を模した石畳の上で敦盛を舞っていた。ここ舞鶴山近辺は、織田信長の血筋を引く天童織田藩縁の地でもあるため、蘇った信長が再び戦を催すという設定らしい。近隣には信長を祀る建勲神社も存在する。
舞の後に続いて、これまた甲冑を身に着けて躍り出た武将たちが殺陣を披露する。勢いのある槍や刀の演舞は完成度も高く、見ていて気持ちが良い。
「あーあー、あんな足捌きしちゃダメなんだー」
「……重心、ぶれぶれ」
自分たちも覚えたてであることを棚に上げる翡翠たちも、暑さのせいか、どこか元気がない。
「約束動作ですからね。当たることがない分、観客のために動きを派手にしているのでしょう」
「とはいえ、敵の太刀を刃で受けるのはいただけないわね。あれじゃあ蛍も直してくれないわ」
苦笑する瑠璃と、複雑な面持ちの姫芽香は落ち着いている方だろうか。というのも、呻いている翡翠や咲を含め、彼女たちは着物に胴垂だけという、女性が担当する『歩』の衣装なのだ。
そんな中、一人だけがっちり兜まで被り『玉』と書かれた陣旗まで背中に差している李桃は、
「ううっ、あじゅぅいよぅ~……」
半泣きになりながら、出陣の時を待っていた。
* * * * * *
事の始まりは、練習試合を明けた月曜日に遡る。稽古を終えた李桃たちが羽を休めている武道場へ、生徒会副会長――もとい、臨時会長が飛び込んできた。
毎年桜の最盛期である四月の第四週に、舞鶴山にて行われる『人間将棋』。これに生徒会を中心としたメンバーが、伊氏波高校の代表として参加し、駒役を務めるのが通例なのだが。
「うちは問題ないんですけど、他にも参加する予定だった団体さんが、初日の午前だけ急に出られなくなったらしくて……。会長を含めて、剣道部の皆さんにピンチヒッターをしてもらいたいんです。お詫びに、天童温泉での日帰り入浴をご用意しますから!」
生真面目に深く下げた臨時会長の頭を、姫芽香が慌てて上げさせる。
「ヒメちゃん、助けてあげようよ」
「ええ。そういう約束だし、構わないのだけれど。温泉は経費の無駄遣いなんじゃ……」
「太っ腹」
「なになに、面白そー!」
「温泉なんて久しぶりですね」
興奮気味に集まってくる李桃たちの耳には、「けっ、遠慮なくジェラート二色頼みやがった癖に経費は気にするのかいああそうかい」という背後からのやさぐれた声は届いていない。
「会長のおかげで浮いているんですよ。他のみんなも、是非会長を労いたい、と」
「おおっ、ヒメちゃん大人気だね!」
「でも、まだ四月よ? これから入り用になるかもしれないから、とっておかないと」
「だーもう面倒くせぇ。くれるって言うんだから、新入部員歓迎会も兼ねて息抜きしてこい!」
続行される押し問答に、ついに不貞腐れ屋が吼えた。
「もー、紅葉センセーってば。温泉に行きたいなら行きたいって言えばいーのに」
「んなわけあるか。ちょいと野暮用があってな。元々、週末は休みにしようと思ってたんだよ」
「えっ、先生こないのー? なんで? 心配しなくても料金は一緒だよ?」
「……それは言わない約束。紅葉、小さいから、気にしてる」
「お前らもう一回稽古つけたろうか、地獄掛かり稽古すっぞゴルァ! !」
じっと紅いジャージの胸元を凝視してくる咲に、紅葉の何かが弾けた。
* * * * * *
あの後本当に実行された、連日の掛かり稽古を思い返したおかげで、李桃は幾分か暑さが和らいだ気がしていた。
掛かり稽古とは、決められた時間の中でひたすらに元立ちへと打ちこんでいく形式の稽古法のことだ。通常は十五秒ないし二十秒程度の時間でローテーションが組まれるが、紅葉が実践してくださった地獄掛かり稽古は、一回一分、かつお互いに打ち合うものを数十本。あれにくらべれば、この程度の暑さなど大したことが――
「(んんっ!? もしかして、あれでバテたから暑さに弱いんじゃ……っ!)」
李桃は気がついてしまった。温泉に浸かれば回復するだろうなどと誰かさんはのたまっていたが、間違いなくこれが原因だろう。山形県民が晩春の暑さ程度にやられるはずがないのだ。
そんなことを考えるうちに殺陣も終了し、出陣の時間となった。駒が立ち並んだあとで、烏帽子を被った両軍の棋士たちが入場する。
ついに、山形名物『人間将棋』の幕が切って落とされた。
「まずは2六歩で様子を見ようかのう」
「ふむ、その手で来よるか。ならばこちらは、3四歩じゃ」
芝居がかかった口調の指示を受け、該当する人間駒が移動する。台の上から俯瞰する棋士たちにも見えるよう作られた、先端に駒の形のボードがついたスタンドを運ぶのは大変そうだ。
「ほいほい、りょうかーい!」
指示を受けた翡翠が、ムエタイで鍛えた脚力を駆使してひとっ跳びしていく。直接ぶつかってはいないのだが、驚いた他の歩兵役の子たちが、思わずスタンドに手をかけてしまった。
「きゃあああああっ!?」
悲鳴が上がる中へとすかさず滑り込んだのは、瑠璃。スティックや竹刀よりも遥かに重い二つのスタンドを受け止めると、柱部分ではなく、自分の身体を回転させることで勢いを殺す。
「あ、ありがとうございます……」
「いえいえ、気にしないでください」
「……怪我、ない?」
不意の事故にすっかり竦み上がった女の子たちに、咲がさくらんぼ味のミルクケーキを差し出した。しかし、女の子たちがきょとんと瞬きしたわずかな間に、お菓子がもぎ取られていく。
「まったく……油断も隙もないわね、いつの間に持ってきたのよ」
刀を持たずともさすがの居合抜き。姫芽香の仕業だ。
「これは一旦預からせてもらうわ。あとで改めてお渡しするから、待っていてくれるかしら?」
桜の花吹雪を背景にした大和撫子に微笑みかけられて、女の子たちの顔から湯気が立ち上る。
「みんなすごいなぁ……」
将棋の内容とはまったく関係ないところで活躍する仲間たちに、まだまだ出番は先の李桃は暢気にきょろきょろとするだけだった。
* * * * * *
湯煙の漂う中で、澄んだ輝きを秘めたお湯。そこへそっと足を踏み入れると、爪先から走るぴりぴりとした感覚に脳が蕩けそうな錯覚を抱いた。
「おっきい駒。男湯にも、ある?」
「そうですね。『夫婦風呂』と言われているくらいですから、きっと」
壁一面に張られたガラス窓から差し込む鮮やかな日の光の中央に鎮座する、巨大な石造りの『王将』駒が特徴的だった。ガラスの向こう側に絶景が見える――などということはないが、その分大名屋敷の塀のような趣のある壁に囲まれている。将棋の駒にはぴったりの趣だ。
人間将棋を終えた李桃たちに生徒会がプレゼントしてくれたのは、舞鶴山を下りて、コンビニが角にある道を市街地へと抜けたところの老舗『王将ホテル』の日帰り入浴だった。
この辺りは天童温泉を売りにした旅館が集結しており、居酒屋からスーパーからファミレスから、天童市内の主要な店々にも足を運びやすい快適な立地となっている。道を数本外れて国道沿いへと出れば見える道の駅の足湯も、有名な観光スポットだ。
「ふぃぃ……生ぎがえるぅ……」
どっぷり肩まで浸かった李桃は、両手足を放っておっさんのように唸った。地獄掛かり稽古の疲れがほろほろと抜けていくようだ。
洗い終えた長い髪を頭の後ろで結びながら、姫芽香が顔を顰める。
「もう、モモちゃん。はしたな――」
「やったーおっふろー!」
「…………いわよ」
しかし言葉の途中で、後ろから湯船へと飛び込んだ翡翠が立てた飛沫を真正面から浴びてしまう。露わとなった絹のようなうなじが、小刻みに震えた。
そんな姫芽香の怒りを知る由もなく、翡翠の先制攻撃に立ち上がった李桃は、きゃっきゃとファイティングポーズをとった。
「やったなあ?」
「お、やるかいモモっち。剣道ではそっちが上だけど、
四本の指を上にくいっと招いて挑発される。
「剣道だって負けないんだから。間合いを取る能力はピカ一なんだよ」
実際に、剣道の動きを活かした総合格闘家も少なからず存在する。特に某コスプレファイターなどはその典型で、彼の巧みな間合いのコントロールは目を見張るものがあった。
問題は、剣道一本だと
「げ、お湯の中でも早い――っ?」
「へへっ、取ったよ、翡翠ちゃん!」
「なんの!」
迎え撃つ翡翠は震脚で水飛沫を立てる。李桃は目を瞑りながら徒手の剣を突き出したが、それは翡翠の背中を掠めるだけだった。
その理由が、彼女が体を回転させながら肘打ちを放ってきたからだと気付いた李桃は、斜め前への開き足で躱す。
しかし翡翠は、肘を振るった遠心力を利用して飛び上がり、上からの回し蹴りを叩きこんできた。
「うわっぷ!?」
頭から湯舟に飛び込む。肩に食い込む足刀は、心臓に到達するかと思う程だった。
「ちっちっち、甘いぞモモっち。ムエタイは強靭な体が武器って言ったじゃん。ふつーは隙が大きいからって嫌われる回し蹴りなんかも、強さと速さがカバーしてくれるんだよー」
「ひゃい、思い知りましたです……ぶくぶく」
「――ふふ、元気ですね翡翠ちゃん。けれど、当たらなければどうということはない、という言葉もあるでしょう?」
「……む。聞き捨てならないなー、お姉ちゃん。エスクリマなんか、スティックを持たなきゃなんもできないっしょ?」
微笑みを湛えた瑠璃に向かって、翡翠は再び構える。
「そのバスタオル、脱がせてやる!」
遠間から一足で飛び込んだ翡翠は、連続でパンチを繰り出した。踏み込むたびに飛沫の上がるような強さでありながら、一秒に三発は打ち込んでいく速さがある。
しかし、対する瑠璃は冷静に、そのすべてを
「スティックを持たなければ何もできない、という認識は誤りです。徒手空拳で戦う『マノ・マノ』や、今のように敵の攻撃を捌く円運動の『タピ・タピ』などもあります。徒手、剣、短剣、二刀、棒術……すべてに対応する技術が、フィリピン国技・エスクリマの神髄!」
「くっ、可愛い名前してるくせに、厄介な。おりゃあああ――!」
逸る気持ちに攻めのテンポを崩したのが、翡翠の敗因だった。
「――ディスアームの際の『得物』とは、何も刃物だけではないのですよ」
「なっ……わあああっ!?」
掬い上げられた腕を肘から絡めとられた翡翠は、すかさず瑠璃が放った足払いを受け、湯舟へ背中から落ちていった。
ざっばーん、とひと際激しく弾けた飛沫が、またも姫芽香を襲う。
もちろんそれは、手の空いている咲と視線の火花が合った李桃の意識には入っていない。
先手必勝。李桃は咲へ目がけて足を蹴った。諸手で繰り出した会心の突き。
「――ふ、単純」
「えっ……?」
確かに指先が咲の胸に突き立ったかと思った瞬間、彼女は体軸を保ったまま、体を柳のように揺らした。それだけで、なぜか攻撃が逸れていく。
「システマにおいて、ディフェンスはガードじゃない。導線にナイフを構えたり、いなしたりして、躱す。ガードは、その時点でダメージになるから」
「なら――っ!」
李桃は大きく振りかぶって、飛んだ。突き刺していなされるならば、横薙ぎにするのみ。
しかし、咲がぽやーっと脱力した状態から腕を振った瞬間、こちらの鼻先をぶおん、と凄まじい拳圧が掠めていった。反射的に躱そうとして重心を見失い、お尻から崩れ落ちる。
「あいたたたあ。咲ちゃん先輩、今のは……?」
「脱力状態から、腰で技を出す。すると、音速の鞭になる。ロシア軍人たちの短期決戦用体術、それがシステマ。最強」
李桃は咲のサムズアップに呆けながらも感心していた。
内臓まで到達するような、後々まで残る固く強い打撃と考えれば、翡翠のムエタイの方が適している。そうした『打ち合い』を想定している武術相手には、瑠璃のエスクリマが輝くだろう。しかし、速攻で相手を制圧するという一点においては、システマが頭一つ抜けている。
剣道を含め、どれが最強なのかは判らない。しかし各々、武『術』たる所以があった。
「あななたち……ねえ」
ふと、怒気の震える声に振り返る。
散らばっていた李桃たちの中央で、姫芽香が仁王立ちをしていた。普段は後光が差してさえいるような彼女の背後には、陽炎がごとく立ち昇る不動明王の憤怒の湯気が見える。
「お風呂は静かに入りなさい!」
それは一瞬にして、四つの手刀が閃いたかのようだった。多くの流派に初伝として伝わる基本の技『四方切り』の応用である。
「ごめんヒメっち! ごめんて、うわあああっ!?」
「ふぇぇぇぇぇっ!?」
脳天に手刀を振り下ろされ、躍起となっていた格闘家たちは、居合道家の前に沈黙した。
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