十五、餓鬼の砂漠(続き)

 声の主はマタヨシに言った。


『あなたは自分のことを

 自分勝手な人間だなどと、

 気に病むことはありませんよ? 


 あなたは善人と悪人のちがいを

 正しく理解できていますか? 


 自分のことしか考えない人は、

 善でも悪でもありません。

 あなたはただ、ちっぽけな、

 弱い人間だというだけのことです。

 もともと人間なんてのは、

 ちっぽけな弱い生き物です。

 他人を救うだなどとうぬぼれて、

 人生を棒に振るのはおやめなさい。


 あなたの人生は、あなたのものです。

 あなたの人生をお行きなさい』

 

 マタヨシは答えて言った。


「あなたが言う、

 ちっぽけな人間とは、

 尊敬に値しない人間のことか? 

 悪人ではない人たちのことか? 

 

 悪人は、社会に居場所などない。

 居ないに越したことがない人間を

 人は『悪人』と呼び、

 恐れ、忌み嫌うのだ。

 社会に居ることを認め、

 軽蔑すべきなのは、

 善でも悪でもない人たちのことだ。

 何もしない人たちのことだ。


 彼らの尻を叩いて、軽蔑しなければ、

 善を志向する社会など

 どうして考えられよう。

 おれは人間を尊敬したい。

 尊敬できる社会を

 おれは望みたい。

 おれは望むべきことを望む。

 すべきことをなすことが、

 人間であるおれの使命なのだ。


 おれは行って、かれに

 水筒の水をわけてやろう」


 声の主は言った。


「あいつはもうだめだ。

 おまえは生き残りたくないのか? 

 見捨てて行け。

 誰も助けることなどできぬ!

 聞け。愚かな人間よ。

 先達もこのように言っておろう。

 裁きの対象となるのは、

 生前の行いだけだと。

 いまさら人助けなどしたところで、

 おまえは何の褒賞も得られぬ。

 わかったか? もう一度言うぞ? 

 あんなやつを救ったところで、

 おまえは何も得るところがない!

 報われないとわかっていながら、

 あんな汚い餓鬼のために、

 おまえは自分の命の水を

 差し出すというのか。

 仲間がおまえのために

 汲んできた水を、見ず知らずの

 輩にくれてやるというのか。

 それは命を

 どぶに捨てるようなものだ。

 あの餓鬼と同じ道を歩むのか? 

 その水さえあれば、

 おまえはまだ引き返せる」


「ちがう――。

 無償の行為こそが、

 おれを浄福なる生に導くのだ。


 死の淵にあえいでいる者を見捨てて、

 自分だけ助かったところで、

 おれは永久に、彼を助けられなかった

 後悔と、罪と呪いを背負って、

 生きていかねばならぬ。

 神がしたことには、

 おれは口出しできぬとしても、

 自分の意志で選び取ったことには、

 人は責任を持たなければならないのだ。

 

 もしそうしないならば、

 そのときからおれは、永久に、

 人であって、人でないような、

 惨めな生き物に成り下がるだろう。

 おれは人として生きたい。

 たとえこの身が朽ち果てようと、

 おれの魂が続くかぎり、

 最期のその時まで、

 おれは人間として生きたいのだ」


 マタヨシは行って、餓鬼に

 水筒の水を渡した。


「この水は、おまえにくれてやる。

 たった今からこの水は、

 おまえの持ち物だ。

 おまえの好きにしろ」

 

 餓鬼は水筒を受け取って言った。


「この水をおれの好きにしろと、

 おまえは言ったな?」


 餓鬼は水筒をひっくり返し、

 中の水を捨ててしまった。


「ああ、なんてことをするんだ……!」


「おれは誰の力も借りぬ。

 ひとりでこの砂漠を生き抜くのが、

 天がおれに課した仕事、

 おれの宿命なのだ」


 マタヨシは絶望して言った。


「宿命か――。

 おまえのためを思って、

 おれがしたことは、

 余計なことだったのか」


 マタヨシが立ち去ると、

 餓鬼はこっそり、

 水筒の底に残った水を飲んだ。


「ああ、うまい!

 生き返った心地がする」


 餓鬼は自分がしたことをひどく悔やんだ。


「ああ、おれはなんてことをしたんだ! 

 おれのことを思ってしてくれたのに、

 あの男にひどいことをしてしまった!

 どうしておれはもっと

 素直になれないのか……!」


 そう言って、餓鬼はむせび泣いた。


 それを遠くから見ていたマタヨシも、

 餓鬼のことを不憫に思って、

 涙を流した――。


 マタヨシは引き返して、餓鬼を

 背中にかついだ。


「行こう。泉はすぐそこだ。

 神はおれたちを見捨てないだろう」


 それからマタヨシは、砂漠を延々と

 さまよい歩いた。


 彼はついに力尽き、砂の上に倒れた。


「…………」


 異教の神プルートーは、上空から

 一部始終を見ていた。


 プルートーは、マタヨシの心に

 呼びかけて言った。


「なんて愚かなことをしたのだ!

 あれほど注意してやったというのに。

 おまえは生きたくないのか?

 おれは、おまえという

 人間を見損なったよ。

 あろうことか、餓鬼なんかを背負しょって、

 泉の幻影に追い縋るとは!」

 

 マタヨシは

 プルートーに答えて言った。


「声の主は、あんただったのか。

 言っただろう――? 

 たとえこの身が朽ち果てようと、

 最期のそのときまで、

 おれは人間として生きると」


 マタヨシは意識を失った。


 プルートーは、

 マタヨシに近づいて言った。


「やれやれ――。

 とうとう行き倒れたか。


 おまえの虚しい努力も、

 どうやらここまでのようだな。

 善いことをすることは、空しい。

 そんなことをしても、

 心が虚しくなるだけさ。


 ちっ、まったく。


 まさかこのおれまで、

 ばかを背負い込む羽目になるとは」


 プルートーはマタヨシを肩に担いで、

 砂漠から飛び去った。

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