冥府

芳野まもる

第一章 死 霊

一、臨 死

 わたしはこのように聞いた。


 尊敬すべき男、マタヨシ・ハートマンは、

 若くして病に倒れ、いま死の淵にあった。


 誰も彼のことを気にかける者はなかった。

 親族たちからも遠く離れていたので、

 今際のとき、彼は完全にひとりぼっちだった。

 彼のほうでも、もう誰のことも気にかけていなかった。

 彼はただ、孤独に病苦と向き合い、

 体の苦痛に耐えて、静かにそのときを待っていた。


 マタヨシは自分の枕元に立って、

 病床に横たわるもう一人の自分を見つめて言った。


「いやはや、もう、

 おれは生きるのに飽きた。

 いったいこの苦行はなんだというのだ? 

 人間、死んで、無になるとすれば、耐え忍ぶことに、

 いったい何の意味があろう。それとも、

 無が有るとでもいうのか?

 

 おれの体に巣食う悪霊が、

 生きながらにおれの身を焼き、

 おれは高い熱にうなされ、

 おれの乾き切った喉には、

 一滴の雨粒さえ落ちて来ない。

 おれはこの狭い部屋の中で、

 ひとり最期の時を迎える――」


 不屈の男、マタヨシは続けて言った。


「いっそのこと、こいつの喉元を

 剣で掻っ切ってやれば、

 いますぐ楽にしてやることができる。

 おれは本気でそんなことを考えているのか? 

 我が身かわいさに、

 自分の喉元に剣を向けるなど、

 卑怯者のやることだ。


 あるいは、誰かがおれの枕元に立って、

 おれを死の世界に連れ去っていくとすれば、

 そいつはおれの祖先か何かだろうが、

 生憎おれは祖先の顔を存じ上げぬ。

 誰だか分からない爺婆に、

 このおれが素直について行くと思うか? 

 悪いが御免こうむる――」


 そうこうするうちに、呼吸が弱くなってきた。

 いよいよ最期の時が近づいてきたと見える。


「いまのおれにはもう、声を出すことはおろか、

 苦痛に眉を歪める力さえ、残っていない。

 しだいに感覚が遠退いて行き、幻聴だろうか、

 遠くに祭囃子が聞こえる」


 (精霊がマタヨシを導いて歌う。)


  懐かしき、楽しき思い出、

  走馬灯のように。

  草原に黄色い花が咲き乱る。

  いつか見た風景のように。

  其は生命の最後の煌めき。

  苦を減じ、楽しき夢見にて、

  歩み入る、不思議中の不思議。

  謎の架け橋――。


「やめろ。見せかけの幻影でおれを誑かすな。

 終わりよければすべてよしとは、

 これまで受けてきたすべての苦痛が、

 まるでなかったかのような言い草ではないか。


 おれは最後までこの苦痛と向き合うつもりだ。

 ここまで来たからには、もう誰の力も借りぬ。


 見よ。最後の息が吸われ、

 ゆっくりと沈み込んでいくおれの胸は、

 再び大地の生気を吸い込んで、

 踊り高まることはない。

 おれの弱った心臓は、かすかな響きで、

 最後の太鼓を打ち終わると、

 その役目を終えて萎み、

 命の流れは止んだ。


 おれの生涯の幕は降ろされた。

 おれは二十六歳で死んだ。

 おれが死んだことに、

 まだ誰も気がついていない」

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