少女剣聖伝 -外伝-

白武士道

陽炎の太刀(前)

 茜色の空に、野犬の物寂しい遠吠えが尾を引いて吸い込まれていった。


 その日の夕焼けは湧水に朱墨を垂らしたが如く鮮やかだ。薄く千切れた雲は赤みの強い黄金色に輝き、隊列を組んで横切る群鳥の影を色濃く浮き立たせている。東の空からは、そろそろ宵闇の息遣いが聞こえ始めていたが、天頂に星影が満ちるには、まだ暫しの時を要するようであった。


 王国新暦八五年。陽春の候。


 レスニア王国の東南部、イール地方。その一帯を統治するバーウェル伯爵の城下町へと続く街道を、二人の女が早足で歩いていた。年若い女と妙齢の女の二人組みである。


 夕暮れになると街道の往来はすっかり絶える。闇が深まるにつれて、腹を空かせた野犬の群れや大蜥蜴、人食い甲蟲といった月夜の捕食者が目を覚ますからだ。ある程度、人間の手が入った街道とはいえ、夜間は彼らの活動圏内。強行軍は自殺行為にも等しい。日が傾くと、どこか見晴らしの良い場所で火と蟲除けの香草を焚いて、早々に夜営を決め込むのが、この時代の旅の心得である。


 道往く二人がその心得に背いているのは、既に手持ちの香草を使い切ってしまっているからであった。獣は火を恐れるが、逆に蟲は火に引き寄せられる。現状、野宿は得策ではない。多少の無理を通してでも、太陽が没するより早く人里に辿り着く必要があるのだ。


 幸い、城下町までおおよそ二里の距離まで来ている。道中、何事も無ければ、日没までの数刻で到着することは充分に可能だろう。


「ここまでくれば、暗くなる前に到着できそうね」


 僅かに歩幅を緩めながら、年若い女が振り返って言った。


 まるで大輪の白薔薇を思わせる、清々しくも華やかな少女である。


 年頃は多く見積もっても二十歳には届かないであろう、まだ幼さの残る容姿。艶やかな白磁の肌。小作りで整った目鼻立ち。磨き上げられた翡翠を思わせる、澄み切った双眸。蜂蜜にも似た透明感のある金紗の髪を、馬の尾のように結い上げているのが特徴的だ。


 麗しい面貌とは裏腹に、出で立ちは実に殺伐としている。小柄で、ほっそりとした肢体を包み込むのは、緩やかな曲面で構成された積層胸甲鎧。両腕は鉄篭手、足回りは板金で補強した革靴と中々に重々しい。優美な柳腰を締める革帯には、独特の反りを持つ大小の黒鞘と数本の短剣が固定されている。


 少女が武芸を生業にしていることは間違いないであろう。何も戦装束を纏っているからではない。彼女の所作の一つひとつに、武人特有の無駄のなさが漂っているのだ。斯様に洗練された所作は、激烈な修行の積み重ねでしか培われない。何気ない足運びが、彼女の半生と力量を静かに物語っていた。


「左様ですね」


 その少し後ろを歩く妙齢の女が、薄く微笑んで返した。


 こちらは二十歳を少し過ぎた頃であろうか。肌は白絹のように映え、優しげな顔立ちが印象的である。肩口で丁寧に切り揃えてられた深い墨色の髪が、歩を重ねる度にさらさらと音を立てるようだ。四肢はすらりと伸び、一見して華奢であるが、腰から尻にかけての稜線はふっくらと盛り上がっており、成熟した大人の色香を漂わせている。薔薇のように華美ではないが、野に咲く桔梗を思わせる素朴で淑やかな美女であった。


 彼女は、先を行く武人風情の娘とは異なり、白と黒の侍女服に身を包んでいる。両者が主従の間柄であることは想像に難くない。


「やっと、保存食をかじる生活ともおさらばか。早く温かいご飯が食べたいなあ。お風呂にも入りたいし、柔らかいお布団でぐっすり眠りたいよ」


 これまでの道中を胸裏で振り返っているのか、少女は感慨深く呟いた。


 少女の名はミリアルデ=ローザリッタ=ベルイマン。モリスト地方領主ベルイマン男爵家の長女である。


 ベルイマンは古の戦士の血を引く、由緒正しき武門の一族だ。ミリアルデの実父であり宗主テオドールは王都防衛の要たる第一騎士団の副団長。その弟で、彼女の叔父に当たるマルクスは王都武芸大会の覇者であり、剣術指南役として王宮に招かれたこともある名手であった。代々、優れた剣士を輩出してきた家柄であったが、その長い歴史の中でも最強を誇る二人によって家名は更に高まり、今や剣の道を志す者の中で其の名を知らぬ者なしと称される名門中の名門である。


 血統が為せる業であろうか。ミリアルデもまた、ベルイマンの名に恥じぬ剣の申し子であった。女児であり、体格は小柄で、筋肉の質にも量にも恵まれてはいなかったが、剣を自在に振るう感性にかけては神域の冴えを見せたのだ。


 彼女の刀線刃筋を通す技術を以ってすれば、宙を舞う蝶を斬り落とすことさえ容易い。幼少の頃より、一族が誇る最強二人と大勢の兄弟子から剣を学んだミリアルデは、齢十六の若年でありながら、既に卓越した剣技を会得している。


 今春、元服を迎えたミリアルデは、側仕えであったイルザを従者に据え、武者修行の旅の途中であった。


 位高ければ徳高き。国王より各領地の三権を与えられた貴族には、特権と同等の義務が生ずる。その中の一つが兵役だ。武者修行とは、元服を迎えた貴人が軍務に服する前準備として行う慣例であり、行脚を通じて武芸の腕を磨き、豊富な人脈を築き、見聞を広めることを目的としていた。


 とはいえ、ミリアルデのように貴族の子女が武者修行に出ることはあまりない。爵位の継承も軍務に服することも、長男が担うのが慣わしだったからだ。


 宗主テオドールは子宝に恵まれなかった。正妻との間に十五年も子ができず、ようやく生まれた第一子は女児だったのだ。それ以降も懐妊の兆しはなく、家付きの薬術師から、高齢と心身の疲弊から、もう子を生すことはないだろうと言われている。


 悲嘆したテオドールは、周囲の勧めに従い、マルクスの息子を養子に迎え入れることを考えていた。しかし、ふとしたきっかけでミリアルデの天賦の才を見抜き、彼女を正当な嫡子として扱うことに決めたのである。


 当然、周囲は反対した。女児が家を継いだ前例がない。マルクスの息子を跡継ぎに据えるべきである。そんな家中一同の正論を、だが、ミリアルデの輝きが切り捨てた。彼女は年寄りが古い考えを改めるほどの原石であり、故に将来を嘱望されたのだ。


 故郷を旅立ち、イール地方へ入った二人は休息と物資の補給を兼ね、城下町ヴェラスへ行く心積もりであった。


「そういえば、ヴェラスってどんなところなのかな?」


「活気に満ちた都市だと聞き及びます。バーウェル卿の執政が行き届いておりますので、物流は安定し、治安も良いそうです」


「そっか。それだけ人が集まっているなら、これの手入れができる人も見つかるかな?」


 ミリアルデはそっと黒鞘に触れた。


 冶金技術と防具の発達により、現代戦では剣が主流になっているが、ベルイマンは刀を今も変わらず使い続けている。しかし、主流でないということは、運用の面でも整備の面でも、扱える人間が少ないということだ。郷里を離れればなおのことである。初歩的な手入れはミリアルデでも出来るが、それ以上となると専門の職人でなければならない。


「お嬢様は太刀の扱いが巧みにございます。刀身が疲弊していたとしても、あと一、二度の実戦ならば耐え得るかと」


「だといいけどね」


 どれだけ慎重を重ねようと安全な旅路というものはない。ヴェラスに向かうこの数日、避け得ぬ脅威に対して白刃が閃いたのは一度や二度ではなかった。二人の体力もさることながら、装備もそれなりに疲労しているのだ。


 武具の不備は、それだけの己が命を危険に晒す。万全の状態を維持するために、定期的な整備は必要不可欠であった。


 何せ、戦いはいつ始まるか分からないのだから。


「――お嬢様」


「うん。わかっている」


 イルザの囁きに小さく頷いて、ミリアルデは歩みを止める。すると、草叢が音を立てて激しく揺れ動き、とりどりの武器を帯びた男たちが次々と飛び出してきた。


 彼らは二人をぐるりと取り囲むように広がると、得物の矛先を向ける。


「ちょっと待てもらおうかい」


 行く手を遮るように立ちはだかったのは、十尺ほどもありそうな大身槍を携え、綻びた硬革鎧を身に纏った髭面の大男である。


「……誰?」


「儂を知らんとな? さては、貴様ら余所者じゃな。知らんとあれば教えてやろう。儂はこのイールで名を轟かせる大悪党、ガラフ様よ!」


 頭目と思しき大男は仰々しく名乗ると、濁った笑い声を上げた。どうやら、追い剥ぎののようである。


 逢魔ヶ時は、どうしても急ぎ足になるため、注意力が散漫してしまう。その隙を狙って旅人を襲うのが、追い剥ぎの常套手段であった。長引けば自分たちにも危険が及ぶため、少人数を大勢で囲んで手早く仕留める。身包みを剥いだ後は、襲った相手の血や肉を餌に捕食者から逃れるのだ。


「見たところ、遊歴のお武家様といったところか。護衛を付けぬとは無用心じゃったな。野郎なら殺して身包みを剥ぐところだが、女、それも上玉とあっちゃあ話は別だ。武器と鎧を渡し、儂らを楽しませれば、命だけは助けてやろう」


「……治安が良い、ねぇ?」


 ミリアルデはイルザを横目に見やる。


「ヴェラスは、と申し上げたはずです」


 主人の訝しげな視線を素知らぬ顔で受け流すイルザ。


 ミリアルデは肩を竦めると、囲んでいる追い剥ぎの数と装備を素早く目で追った。数は二十人。得物は刀剣、槍の類がほとんどだが、弓を携えているのが二人混じっている。


 舐められたものだ、とミリアルデは思った。


 本来なら、離れた場所に置いて支援攻撃を担うべき弓兵までもが、この場にいる。金品を奪うだけでなく、女を楽しみたい彼らにとって、殺傷能力の高い弓矢を使うのは不都合だったのだろう。


(――侮ったことを、後悔させてやる)


 ミリアルデの胸中に闘争の炎が静かに灯った。恐れなど微塵も無い。恐れる必要が微塵も無い。何故なら、彼らは自分の敵ではないからだ。

 されど、先手を取られたのもまた事実である。数の上でも明らかな劣勢。この状況からどうやって斬り伏せてやろうかと、ミリアルデは冷静に、冷徹に思考を巡らせた。


「さあ、武器を捨てろ、鎧を脱げ。料簡違いをすれば、わかっているな?」


 頭目は槍の穂先をちらつかせた。陽光を弾き、ぎらりと鈍く輝く。


 ミリアルデは黙って腰から二つの太刀を抜き、そっと地面に置いた。それから、イルザに手伝ってもらい、胸甲鎧も取り外す。


 追い剥ぎたちは互いに顔を見合わせ、下卑た笑みを浮かべた。二人が自分たちに怯え、大人しく言うことを聞くと思い込んでいるようである。武器を構えてはいるものの、本気で使う覚悟の者は誰もいないようだ。


「……これでいい?」


 鎧下の衣装と革靴のみとなったミリアルデは、一歩下がって軽く両手を挙げた。


「よかろう。おい、拾ってこい」


 頭目は手下の一人に具足を拾ってくるよう命じた。


 手下は二人が妙な動きをしないよう、槍で威嚇しながら近寄ってくるが、構えを取っているだけで手元はおざなりだ。


 その油断を、ミリアルデは見逃さなかった。


「ぎゃっ」


 手下の男が顔を押さえて情けない悲鳴を上げた。ミリアルデは、彼が鎧を拾おうと視線を移した一瞬の隙を突いて一息に間合いを詰め、彼の鼻っ柱を蹴り上げたのである。


 ミリアルデはすぐさま刀を拾い上げると、痛みでのたうつ手下を飛び越えて頭目に肉薄した。神速の踏み込みである。端から見れば消えたように映ったに違いない。


「なにっ」


 頭目が慌てて大身槍を構えようとするが、既にミリアルデは懐に潜り込んだ後だ。初太刀で柄を叩き割り、返す刀でガラフの喉元を切り裂く。やや遅れて鮮血が噴き出し、彼女の白い肌が真紅の斑に染まった。


 倒れ伏す頭目を見て、慌てて弓兵が矢を番える。それよりも早くイルザが動いた。侍女服の裾を翻して、太股に巻いた革帯から短剣を手に執ると、そのまま投擲。弓兵二人の眉間に違わず突き刺さり、両名は絶命した。


 一瞬で四人が倒され、悠長なことは考えられなくなったのだろう。残りの者たちも得物を振り回し、怒声をあげて二人に殺到した。


 ミリアルデは太刀を肩に担いで、先頭を迎え撃つ。正面から飛び込んできた敵を一撃の下に切り捨て、すれ違い様に二人目の首に打ち込んだ。血飛沫を潜り抜けるように走り、三人目に迫った。繰り出される短槍の突きを紙一重で躱し、間合いを詰めて切っ先で小手を払う。腱を断たれ、激痛で槍を手放したところを踏み込み、鮮やかに額をかち割った。


 ミリアルデは囲まれないよう絶えず位置を変え、常に一人と戦うよう立ち回っていた。十人を同時に相手取る必要は無い。一対一を十回繰り返せばよいのだ。所詮は烏合の衆。技の練度も、修練に費やした時間も、ミリアルデに遠く及ぶべくもない。追い剥ぎどもは見る見るうちに数を減らしていった。


 半数を斬り捨てた頃、これは勝てぬと判断したのか、追い剥ぎどもは傷を追った仲間に目もくれず我先にと逃げ出した。


 ミリアルデは追わなかった。もうじき日が暮れるからだ。これ以上、ここで時間を浪費するのであれば、血の臭いに惹かれて暗闇とともに現れるであろう、もっと恐ろしいものを相手にする羽目になる。


 斬り捨てられた何人かはまだ息があったが、手当てをしてやる義理も余裕もない。


 二人は急いで身なりを整えると、早足でその場から立ち去った。


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