终于等到你(やっとあなたに出会えた)

Wakei Yada(ぽんきち)

作品

 冬の晴れ空を窓の向こうに見ながら、外務相の和啓フーチィは考えていた。この混沌とした状況を、いかにして打開しようかと。

 2090年代、いよいよミレニアムを迎えようとしている地球に降り注ぐ太陽に、巨大なもやもやした黒点のようなものが現れた。太陽放射量を意味するアルベドが低下し、太陽の光量が急速に低下し始めた。それは最初、本当に黒点だと思われていたが、太陽の爆発や黒点らしきものの温度の観測から、それが黒点ではなく、どうやらまた別の存在であるらしいことが明らかとなった。その正体はミュウで、亜粒子と呼ばれる特殊な粒子によって構成された知性体であり、それは地球へと突然やってきた。地球の空に、真っ赤な霧となって現れたのである。空は霧で空の青みと相まって赤色に染まった。

 それは2100年代にはアメリカ、ロシアへと侵略域を広げ、ついに次は成都に現れることになった。その霧はミュウを名乗り、人型に実体化して対話することができ、人語を解することができたので、発見当初は和平的なスタンスを取ることができるかと思われていたが、外務省の長官和啓を前に、翻訳機を介して語りかけ始めたその内容は、彼らが持っていない何かを提供せよ、というもので、これは和啓にとっては悩みの種だった。この課題を前に和啓は、自らをミュウと名乗るその知性体の持っていないものを研究すべく、ミュウの調査を宇宙研究所に依頼していたが、ミュウはどうやら性別の区別のようなものがないらしく、集合して繁殖するらしいというところまではわかっていたものの、何を提供したらいいかはわからなかった。

 しかしながら、ミュウがどこからか手に入れたらしい情報源を提供したことにより、その内容の解読が進んだ。それが何であるかを知りたがっているらしいというのはわかったが、「一番いい時にあなたと出会えた」というところまではわかったものの、具体的に何なのかは全く見当がつかなかった。戦闘強硬派であったアメリカとロシアが無残にミュウに焼き尽くされているのを知っていた和啓は、その情報の手掛かりを必死で得ようとしたが、ミュウにそれを与えたところで、戦闘力の高いミュウには敵わないので、何をされるかもわからないという見解が主流だった。ミュウは全体で一つで、一つで全体であるという非常に特殊な知性体で、一つの知性が全体の知性であり、全体の知性が一つの知性だった。個々は統一されていながら、指揮系統によって離散したり集合したりを繰り返す、特異的な知性体だったのだ。ミュウは敵性を示すとその赤みが増し、辺りを加熱して焼き払うため恐れられていた。それが成都に訪れたとき、当初は成都を壊滅状態に追いやるかと思われていたが、そのミュウの渡した内容が成都に関係があるという話を和啓はミュウから聴き、ミュウに侵略されないために、過去の情報を探っていた。

(この仕事、なかなか過酷だ……だが、私は必ず成功させてみせる……)和啓はそう思った。彼はそう密かに思いながら、ミュウのいる成都の会館への冷たい大理石の階段を登っていった。その姿を見たものは、その足取りがどことなく重鈍に感じられただろう。

 そんな2119年の冬の成都だった。


 端末の非常アナウンスが流れたことによる、がなりたてるような警報からの目覚めは、ひどく鬱屈としたものであった。大学院を卒業した24歳の麗蘭レイランは端末から召集令状を受け取っていたが、それは見ずに、腕を傾けて端末を起動するとニュースが入っていた。『アメリカ本土に襲来したミュウ、本土成都に飛来。成都にて和平会議。交渉団の和啓は、翻訳機にてミュウと対話。』麗蘭は苦い顔をしながら、そのニュースを端末から見ていた。

「あ〜あ。なんでこいつらとまともに張り合おうなんていう気でいるんだろうなあ。」麗蘭が呟くと、麗蘭の母親が答える。彼女は成都の出身だ。

「上の人には上の人の事情があるのよ。それに彼らと戦争なんかして、勝てる見込みはないでしょ? 大国アメリカが火の海に包まれた映像を見ているでしょう? アメリカが本気を出しているから、ミュウとは確実に戦闘になる可能性があるわ。でも、和啓としてはそれはなんとしても避けたい考えなのよ。」

「お母さん、はっきり言うけどね、こいつが太陽の近くで観測されてから、減照が起きてどんどん地球の温度が減少し、それが問題になっているんだよ。言っとくけど、宇宙科学部の常識だからね! 学部レベルの!」

「減照っていうけど、汎家庭用核融合炉があるでしょう? そんなに深刻なことなのかい?」母親は呑気にもそう言う。

「地球の植物の光合成が行われなくなったら、あたし達が大好きなお野菜だって取れなくなるんだよ? そんなの絶対やばいわよ」

「そうなのね。まあ、お野菜が値上がりしたら、食べ物には困るわね」呑気なもんだ。ずいぶん前には、私たちは太陽消滅を生き延びた世代なのよと、危機感を持って言っていたというのに。

 麗蘭は香港科学技術大学の宇宙科学部を最近卒業したばかりだった。就職先にあぶれていた麗蘭は、どこで働くことにしようかとじっくり考えていたところだった。親の実家のある成都に戻ってもいいが、あそこは今ミュウが現れて大変なことになっているし、大学院進学も考えていたが、多額の奨学金を返すのに苦労はかけたくないと、ロケット軍の入隊手続きを取っていた。あれ、そういえば今朝のインフォメーション、何か非常アナウンスと一緒に召集令状みたいなのも来ていたな。そう思って麗蘭は端末を動かし、メッセージを見た。


 IN:*********(個人情報のため秘匿)

 ミュウ殲滅のための特殊法に基づき、アメリカとの共同作戦を開始する。このIN(Identification Number)は、貴殿が宇宙要塞九龍城の艦長補佐となったことを証明する。


「あ、お母さん。これ見て!」麗蘭は叫んでいた。「私、軍に入れることになったわ! しかも艦長補佐だって!」

「本当?! それはよかったわ。配属先はどこなの?」

「宇宙要塞九龍城だって!」

「九龍城?! あの入ったら二度と出られないと言われている魔窟に行くのかい?!」

「昔はそうだったけど、今は改造されて軍事設備になっているんだって。どういう設備なのかは私もよく知らないけど。海岸の警備とかをやるのかな?」

「とにかく派遣されてみないとわからないわね。幸運を祈るわ。あなたならきっとできるわよ。」母はそう言いながら、こんなことを考えていた。あの子、本当に大丈夫かしら? せっかく一生懸命生み育てたGMOサピエンスの一人なのに、戦争で死んでしまうのではないかしら? いや、考えてはダメよ。今はあの子の背中を押してあげることが大切よ。

「じゃあ行ってくるね。ちょっとわくわくかも。」麗蘭は笑顔で家を出た。彼女は香港行きの飛行バスに乗りながら、こんなことを考えていた。私たちの世代ぐらいから普及したGMOサピエンス技術で、私たちはみんな能力の高い人々になった。けれども、それは同時に激しい競争を生むことにもなり、就職の氷河期がまたやってきたのだった。だから結局、軍に入らなくちゃいけなくなってしまったのだ。せっかく院まで行ったのだし、できれば、避けて通りたかったけれども、背に腹はかえられない。

 この時代には飛行バスというものが存在していた。飛行できる車はすでに普及しており、バスも飛行できるように改良されて普及していた。その車窓から見える空の色は淡い水色で、自分がひどく浮ついたような存在のような気がしてきた。



 入隊指示を受けることになったのは、とんでもない偶然がきっかけだった。アメリカが突然中国と軍事的に協力する姿勢を見せ、緊急軍事同盟を中国と締結したために、フロリダ生まれの父を持つまだ若干19歳のリンのもとにも、共同軍事作戦に参加せよとのお達しが出たのである。

 凛は、ミュウの襲来により火の海と化したニューヨークを離れ、台湾に渡っていた。耳の中に埋め込まれた生体反応端末『リクード』が、母国からの退避指示を出していた。その情報は脳の情報野に伝わり、視界の中に情報として現れていた。

 凛は網膜の中の時計を見た。10時を回っている。お腹も少し空いてきた。飛行機の待ち時間が、思った以上に長く感じられた。

「あーあ。こんなことになるなんて、全く想定外だよ。どうしてニューヨークに帰れないんだろうなあ……。」思わず凛は中国語で喋っていた。

「やっぱりインフォマー世代は違うわね。私が何も言わなくても、アメリカには帰れないっていうことがわかっているのね。」そう中国語で、凛の母親が言った。インフォマー世代とはもちろん、耳に情報端末を埋め込んだ新世代のことで、彼女の母親はそれを持っていないで、手持ち式の端末で情報を得ていた。

「今の私にはフロリダもネバダも火の海に包まれているのが、網膜に浮かび上がる動画情報で見えるのよ。これじゃあ、私たちまるで、難民じゃない。」そう、端的に言えば、彼女たちは難民だったのである。「私にも見えるわ。本当に酷い有様。」凛の母親が言う。

「ねえパパ、なんで日本にしないの?」凛は英語で父に尋ねる。

「なんで中国語にしないんだ。中国人のフリをしないと、お金を掻っ払われるぞ。これからは我々は中国人になるんだ。この後の台湾発の飛行機で、香港に行くんだ。そこなら多少英語が通じるだろうから、そこに行くまでは辛抱だ。」父が中国語で答えると、凛は英語で言う。「お父さん、お母さんが香港人だからという理由で、お父さんが親中的なのはわかるけどさ、そこまで頑なに中国人のふりをする必要なんてないんじゃない? だってパパの前のお母さんは日本人だったんだし……。あーあ、前のお母さんが病気で亡くなってなかったら、なんて言ってるかなあ。」凛は英語で続ける。

「彼女なら確実に、中国語で話せと言っていただろうよ。」父は中国語で言ったが、そこからの話は英語に切り替えた。「お前のお母さんも、語学に堪能だったから。亡くなる少し前まで、フライトアテンダントをしていたんだから。彼女に出会ったのは羽田からサンフランシスコに向かう便の中で、それはファーストクラスの優雅な席だった。その優雅な女性にワインを注いでもらったついでに、連絡先を書いた手紙をプレゼントしたのがきっかけで出会って、ニューヨークで結婚式をあげて、それでお前が生まれたんだ。」

「はいはい、その惚気話はもう何度も聞いたわよ。どうせ私は生まれも育ちもニューヨークのヒヨっ子ですよ!」凛は英語で言ったが、後ろから母親が「あんたたちねえ」と中国語で言う。彼女は英語がほとんど喋れないが、その目は凛たちの英会話を理解していることを物語っていた。彼女の右耳にはピアスの形をした光る宝石のようなものが、明滅を繰り返していた。

「もういい加減にしてよ。翻訳機简语を私が耳に付けていないとでもお思いで? いくらこれが旧式の翻訳機だからって、私があんたたちが散々同じように話す英語の一つや二つ理解できないとお思いで? その惚気話、再婚相手の前ですることじゃないこと、わかっておいでで?」

「私は悪くないからね」中国語で凛が言うと、父は「すまん、俺が悪かった」と中国語で謝った。「それで、入隊指示が出ていると聞いたけど、どういう指示なんだい?」父は中国語で聞く。

「なんか、九龍城に行けっていうことなんだって。ミュウが侵略しているのは成都のはずなんだけど、どうしてよりにもよって九龍城なんだろう? このニュースやっぱり変。でも、国からの指示だから、きっと多分連合軍として派遣されるとか、そんな感じじゃないのかなあ。」凛は中国語で返す。

「ミュウの考えることだ、どこをターゲットにしているかわからない。香港行きの指示が出たのは、海沿いの警備に当たれというお達しじゃないのか?」

「うーん、そう考えるのが妥当なんだけど」凛は続けようとする。しかし続報が来て、意識を網膜に向けて情報を開示すると、メールが表示され、そこにはこう書いてある。


 IN:*********(個人情報のため秘匿)

 アメリカとの共同作戦を開始する。このIN(Identification Number)は、貴殿が宇宙要塞九龍城の艦長となったことを証明する。


「宇宙要塞九龍城?」思わず凛は叫んでいた。「あの九龍城を改造して作ったあの巨大戦艦みたいなのに乗ることができるの?!」凛は思わず発奮していた。「嘘っ?! それってマジヤバ! めっちゃわくわくする!」あまりの感動に、「マジヤバ」は日本語で出てしまった。

「本当か!」父は思わず日本語で言った。「おめでとう!」続けて出たのも日本語だった。

 やがて飛行機がやってきた。凛たちは乗り込み、凛の母親に説明すると、話を一通り聞いた凛の母は、「私の娘が戦争に行くだなんて……。」と中国語で言った。

「心配いらないわよ! 基本戦闘はドローンで行うし、対人相手の戦闘じゃないんだから血を見ることもない。」凛は嬉々として言った。

「戦争は恐ろしいわ。亡くなった私の祖父の話では、祖父は徴兵されたんだけど、軍事パレードの準備中に銃の誤射が起こって、手術で胸から弾を取り除いたわ。」凛の母。

「でもお祖父ちゃんの死因は癌でしょう? 今はもう遺伝子コントロール技術が進んでいるから、ほとんど発症することもなくなったでしょう? 私もGMOサピエンスだって、お母さん話してくれたじゃない。」凛は答えた。GMOサピエンスとは、CRISPR-Cas9を用いてゲノム編集を行うことによって、癌の発生率を低下させ、統合失調症やうつ病をはじめとする精神疾患や、認知症、糖尿病などを事前に予防するのみならず、生得的な高い知能指数、語学能力などを飛躍的に向上させるという遺伝子操作技術によって生まれた子どものことだった。凛は昔の言葉で言うところの、デザイナー・ベビーの一人だったのである。

「そういう問題じゃないのよ。あなたに恐ろしい経験をして欲しくないのよ。戦場に行けば多くの人が死ぬわ。ニューヨークで多くの人が死んだように。」母は粛々と言う。その目は涙で潤っていた。

「でも、お母さん。私は大丈夫よ。私ならなんとか上手くやっていけるわ。どこにもその根拠はないけど、自信だけはあるの。」そう伝えると、母は少し考えてから、

「そうね。あなたは昔からそういう子だったわ。どこに行っても、自分の道を切り拓いてきたわね。世の中には難しいことはないわ。ただその人に揺らぎなき決心があるかどうかよ(天下無難事 只怕有心人)。」と言った。こんな風に言葉を交わしてから、凛とその家族はその日、飛行機でしばらく眠った。



 宇宙要塞九龍城への入隊通知がきた26歳の美花メイファは、正直なところ戸惑っていた。成都出身で、軍の情報部で働いている彼女は、今回どこでどんなタッグを組まされるのか戦々恐々気味だったが、派遣先が宇宙要塞九龍城であると知ったときにはゾッとした。しかも情報部なので色々調べることができた彼女は、艦長が凛というアメリカ系の人で、宇宙物理学の大学院まで出た恐らくは士官候補とも言える麗蘭を艦長補佐に構え、さらにその欄の下に「情報部長兼副艦長」として自分の名前が埋め込まれていて、めちゃくちゃな組織図の中にめちゃくちゃな形で入り込まされてしまったなあと思わずにはいられなかった。この三人でこの艦隊の指揮を執るというのは、はっきり言って破滅的な人事配置としか言いようがなかった。

(はぁ〜。)美花はため息をついた。

(これ、絶対負け戦だよ……。誰だよこれ決めたの……。)

 せめてもの救いは、自分以外の艦長と副艦長がGMOサピエンスであるという点だった。

「あーあ、私もGMOサピエンスに生まれたかったなあ……。でもまあいいか、情報部長だし。色んなことがわかって、みんなのためになるように動ければ、私はそれでいいや。」そう独り言つと、美花はミュウについての情報を調べ出した。


 太陽系にミュウと呼ばれる謎の知性体が突如出現したのは、2092年のことだった。当初、エアロゾル粒子の一種とされており、収斂と発散を繰り返すその形態から、何か太陽光を遮る厄介な「動く微粒子」とされていた。しかし、動きに規則性があることや、サンプルを採取しても分析ができないことがわかった。同じ頃から、太陽の光が突如減退する『減照』という現象が発生する。各国はその原因追求の過程で、何か靄のようなものが太陽の周辺に漂っていることを突き止めた。この頃、『太陽も人間もいなくなる』『人間は光であり、太陽がなくなれば人間もいなくなる』『宇宙外生命体に滅ぼされる』という終末思想が流行り出した。2095年、同年、ロシアで落下物を研究していたグループが、大量に現れた宇宙外知性体が太陽の光を遮っていたという事実を明らかにする。宇宙に存在する物質のうち、暗黒物質は23%、暗黒エネルギーは73%、原子からなる物質は4%だが、その知性体はそもそも原子や暗黒物質、暗黒エネルギーからも構成されておらず、完全に未知の亜粒子からできた亜物質でできていて、彼らはエアロゾルのような粒子となって突然アメリカのミネソタやロシアのベオグラードに漂い始め、人間の前で集合体となって人型に実体化し、人間の言語を理解して交渉を開始し始めたのである。この生命体はミュウと名乗っていて、ミュウは全体で一つ、一つで全体の知性体で、個々の連携と判断が統一的でなかなか厄介だった。各国は和平派と抵抗派に分かれた。この頃には、太陽光発電に依存していた全世界の電力供給が問題になった。2098年には、家庭用核融合炉であるファミコアの世界各国への普及が始まる。終末思想いよいよ世界全体に蔓延。

 2099年には、遂にミュウとの戦闘が臨戦態勢に。アメリカは当初和平派が多数派だったが、終末思想に取り憑かれた抵抗派がハンガーストライキを始めた結果抵抗派が選挙で当選してしまう。ロシアは和平的に交渉を進めようとしていたが、依然膠着状態だった。

 2100年にはアメリカとミュウとの戦闘が開始。戦闘を仕掛けたところ失敗し、アメリカ国土全域が火の海に包まれる。というのもこの頃には他国との戦争はドローンやサイバー攻撃を使った戦略兵器が主流で、兵士たちに戦闘訓練の経験がまるでなかったのだ。ミュウは赤い霧状となって辺りを漂い、衝撃波を放ち、周辺のエントロピーを増大させて辺りに熱を帯びさせ、発火させ、侵略していった。

 2111年にミュウはロシアにも進出。ロシア全域を壊滅状態にする。

 2119年現時点では、宇宙外物質の交換を条件に、中国とミュウたちとの和平交渉が進められている。しかし、ファミコアの普及により、太陽光度を維持しなくてもよいという主張もあった。和啓は、何かミュウが交渉のカードとして、「一番いい時にあなたと出会えた」という成都に関連した何かを求めているのだが、それが何なのかはまだわかっていない。



 凛と麗蘭、美花は九龍城の会議室に集まった。和平交渉の担当者和啓(フーチィ)が、ミュウとの交渉に失敗したという見出しが出たからだ。和啓は宇宙外物質の提供を要請したものの、それ自体が貴重なのでミュウ側が許可できないと失敗してしまったのだ。

 軍の内部で、いよいよ宇宙要塞九龍城を発進させる計画が濃厚になってきた。宇宙要塞九龍城では、薄暗い大井路を抜けていくと、無数の看板が天井にライトアップされており、至る所にカメラとモニタが設置され、オルゴール屋は放送局に、美脚屋はトレーニングルームに、美顔屋は化粧室に、美羅花園(メトロガーデン)北門の歯医者は歯医者のまま、問診屋は薬局になり、狭い家だったところは兵士たちの部屋となってすべてモニタが設置されており、小姐路のネオンサインはそのまま灯っていて、狭い階段にもLEDランプがついていた。麻雀屋は娯楽室に、維多利亜大廈(ビクトリア・マンション)は相変わらず賑やかで、小姐窟の中は更衣室になっていて、闇鍋屋は調理場に、献血屋は医療設備に改装されており、ダンスホールはちょっとしたホールになっていて、そこが会議室だった 。

「この会議室、寒いわ……配管がむき出しで、においがひどい……。」美花が言った。彼女の言う通り、会議室には無数のモニタと配線と、むき出しの配管が張り巡らされた、コンクリートの暗く冷たい壁でできた窮屈な部屋の中に押し込められていて、冬の気候のせいもあってとても寒く感じられた。

「私も嫌だわ。」凛が言った。「しかも、和啓がミスったせいで、とんだ尻拭いだわ。男って使えないわね。」凛が言う。

「文句を言うのはそれくらいにしておきな。」麗蘭。「和啓が国防省をやっていたときの改革のお陰で、うちは私服軍になったんだから。それだから、今みたいな温かい恰好ができるんだよ。あと、男だから、女だからは禁句よ。」

 確かに、凛も麗蘭も美花も、腕章だけは付けていたものの、地味目ではあるが軍隊らしからぬ私服だった。凛は白のセーターに茶色のパーカーを着ていて、スカートは黒に青のチェックがプリーツの合間に入っていて、凛の赤みがかったショートヘアを際立たせていた。会議室が寒かったので、麗蘭はロングの髪を靡かせ、灰色のオーバーを着ていたし、美花も染めた金髪のお団子を頭の両端につけて、ピアスまでして、薄灰色のふさふさしたダウンジャケットに勾玉のアクセサリーを付けていた。

「はっきり言うわ。」美花が透明な、しかしそれでいて明晰な声で言った。「私たち、このままでは絶対に勝てないわ。なんとか朝礼のときに指揮系統を整えないと。」美花が言った。

「わかってるって」凛は言った。「でも、ハドロン砲も成都軍が準備しているし、はじめから私たち期待されてないでしょう?」

「ハドロン砲は米軍の研究では効果がないわ。」麗蘭が言った。「ミュウに対しては気休めにしかならない。連中は拡散と集合を繰り返しながら辺りのエントロピーを増大させていき、周囲のものを発火しながら進軍していくから。」麗蘭は厳しめにこう続けた。

「朝礼の時間だわ。もうじき成都に出発よ。なんとかしないといけないわね。」

 軍の朝礼が始まった。全部隊は各々の部屋で起床し、小さな部屋に設置されたカメラの画面を前に作戦の指示を仰いだ。一畳に4人という広さの部屋に集められた五万人分もの兵士のすべての部屋で、その朝礼が行われた。

「我々は本日より行軍を開始する。隊長の凛、何か言うことは?」麗蘭が言った。

「我々は大きな危機を前に立ち向かわなくてはならない。我々に期待されているものは恐らくは他部隊の比ではないもので、とてつもない重責だ。今回の敵は強いが、ミュウ殲滅を達成すればこの九龍城の辿った負の歴史を大きく塗り替えることになる。宇宙要塞九龍城の乗組員の皆、心してかかれ!」

「はっ!」全員が画面を前に敬礼した。会議室ではその様子が無数のビルのように郡列をなすモニタ上に写っていた。



 作戦が開始された。陸軍は軍用ロボを遠方から稼働させ、空軍はドローン偵察機を派遣した。

「宇宙要塞九龍城、発進します!」操縦士が言う。九龍城は香港上空にジェットエンジンでホバークラフトのように浮かび上がる。空からは巨大な立方体の石棺が火を噴きながら浮かび上がるように見えただろう。大気にそのジェットの波動が伝わって柱のような飛行機雲が出来上がった。

「香港より九龍城、貴州を経由し、成都に発進開始。九龍、成都に前進中。ロボ部隊たる77516、78516部隊と66625部隊 、成都に前進中。」兵士の通信が聴こえる。

「ZC(偵察兵)からの情報によると、攻撃対象ミュウは霧のような実体をしており、人型になったときに攻撃すると拡散して消えるため、常に攻撃を続けることで行動を抑制できる模様。」別の兵士。

「LJ2JTJ(陸軍二師団軍)、機関銃掃射を継続せよ。対象は攻撃を継続すると拡散して消滅する。その隙を見てEP(第二砲兵)よりハドロン砲を対空射出せよ。」また別の兵士。

 軍は指示に従った。陸軍二師団軍のロボ兵はミュウを攻撃して拡散させた。そこにロボ兵の第二砲兵がハドロン砲を発射する。

「ハドロン砲射出。」兵士。

 モニタ上で見ながら、

「いっけ〜! 汚物は消毒だゴルァ!」凛は叫ぶ。

「何今の言葉?」麗蘭。「何かの呪文?」

「日本の漫画にあったのよ! そういう台詞がね!」凛は言う。

 砲孔に光が蓄えられ、テクノミュージックのような、あるいは何かが増殖するようなハドロン砲の轟が響き渡り、雲散霧消したミュウに向けて発射された。

 反動で成都の街の建物が破壊された。シックスセンシズ青城山の扉がギターの空洞のように開いてうつろな内側をむき出しにさせ、銀河王朝大酒店の窓には雷のような亀裂が入った。

「どうだ?」凛は言った。

 ミュウは一瞬ひるんだかに見えたが、再び集合して実体化し始めた。イナゴの大群が、殺虫剤を吹きかけられてひるんだあと、再び勢いを取り戻して飛び回り始めるかのようだった。

「攻撃対象、依然として実体化します! うわあ!」ミュウの一つ一つがそのとき赤く光って夜空の星のように照り映え、空気に波動が生み出された。それは衝撃波となって、映写している陸軍第二師団のカメラの方へと撃ち込まれた。そのロボのカメラとの通信が途絶え、破壊された。その映像が視察隊、陸軍カメラ、空軍カメラで観測され、要塞のモニタに映し出される。

「LJ2JTJ(陸軍二師団)、壊滅状態です……」

「こりゃやべえな」凛が言う。「こんな対象を見たのは初めてだわ。私なんかが作戦の指揮を執っていいのかしら?」麗蘭も思わずこぼす。

「やるしかねえじゃんかよ」凛。「でも、なんかいい方法がないかな。とりあえず、ミュウが実体化したときに何か行動に移すしかないっぽいな。ミュウの科学的データはないの?」

「ロシアの宇宙研究機関が、ミュウの破片を分析しています。そのデータでは、ミュウは素粒子ではできておらず、素粒子以外の何かによって構成されていて、宇宙物理学者の間ではそれを亜粒子と呼んでいるけど、亜粒子は場の力の影響を受けないから、およそあらゆる物理攻撃が効かないの。物理的な攻撃ではせいぜい拡散されるのが限度で、集合体に対してか、あるいは拡散した対象にハドロン砲を撃つのが限界みたい。」

「グラビトン砲はどうなんだ?」凛。

「そんなものあるんですか?」美花。

「実戦兵器として使ったことは今だかつてないけど、重力子グラビトンの非対称性を応用した砲弾が、弾薬庫にあったのを記憶しているよ。威力はえげつなくて、まあ1マイクロで成都全域が壊滅状態になる。使用されれば今回が初めてになる。グラビトン砲の使用はけっこう政治的に反対が根強くてね。」凛。

「物理的威力はミュウには効かないわ。」麗蘭。

「それじゃあ何が効くっていうんだよ。」凛。

「私たちの作戦指示はミュウの殲滅だけど、物理兵器では拡散が限界だわ。」麗蘭。

「それなら核兵器は?」凛。

「あなたは成都の人口をそんなに減らしたいの?」麗蘭。

「とにかく成都に到着する前に作戦を練らないと勝つ試合に勝てないよ。」麗蘭。

「失礼しますわ。」美花が言った。「先の衝撃波なんですが、生還者がいる模様です。」

「え?」麗蘭と凛は同時に発していた。

「無傷の生還者ってことかい?」凛。

「はい。ミュウは亜粒子で構成されていると言っていましたが、ミュウの攻撃方法も特殊なようです。ミュウの攻撃の瞬間を分析した偵察隊のデータからは、ミュウの波動が特定の音響周波帯と同じ波動であることが観測されました。生還者は张学華というジャーナリストです。」と美花。

「その生還者につなげないのか?」凛。

「彼女は軍に非協力的で、今音楽を聴いているので話したくないと言っています。」美花。

「どうしてこんな有事に音楽なんか! どうすればいいんだ。」男勝りな凛は頭に血が上った。

「続報です。先の衝撃波ですが、まだ生還者がいました。」美花。

「どこだ?」凛。

「カラオケボックスです。」美花。

「どういうことなんだ……なぜ他のエリアは破壊されるのに、カラオケボックスだけ残るんだよ……。」凛。

「何を歌っていたの?」麗蘭が口を挟む。

「ジェーン・チャン(张靓颖)の『终于等到你(やっとあなたに出会えた)』です。このカラオケボックスは先ほどの度重なるミュウの攻撃の最中も延々とこの歌を歌い続け、建物自体が攻撃を回避できています。」美花。

「それよ!」麗蘭。

「それってどういう意味だ?」凛。

「ミュウは通常の攻撃方法を選択しない。音楽を聴いている人のコルチゾールが安定し、ホルモンバランスが整うという説があって、この説によると聴いている人の周囲に音楽場が形成され、良好な環境を形成できるというの。これは音楽免疫と言われていて、音楽療法で取り入れられている手法なの。とにかく、そのジャーナリストが聴いていた曲を調べて。」麗蘭。

「情報部より報告です。ジャーナリストの公開しているプレイリストにジェーン・チャンの『终于等到你』が上がっています。」美花。

「偶然にしてはできすぎているわ。」麗蘭。

 美花が続けてこう言った。

「和平交渉担当者の和啓から連絡です! ミュウが交渉の条件にしていた内容の解読が完了しました! ミュウの要求は歌でした。ミュウが知りたがっていたのは、ジェーン・チャンの『终于等到你』という歌のようです。ミュウは、この言葉が言いたくて言えなかったために、この言葉を求めて活動を続けていたようなのです。ジェーン・チャンはかつての成都出身の歌手で、『一番いい時にあなたと出会えた』に該当する歌詞が情報ソースから発見されました。」

「決まりだな。」そう言うと、凛は続けて、「大音量でジェーン・チャンの『终于等到你』を流すぞ!」と叫んだ。

「えっ、でも」麗蘭。「この宇宙要塞から?」

「あなたの判断は想定の範囲外です。」美花。「ですが、合理的でもあります。」

「現地の放送でジェーン・チャンのその曲を流すように指示できないか?」凛。

「指示はしてみますが、あなたがその作戦の指揮を取るんですよ?」美花。

「いや、多分私たちの放送と周波数が同期しなければ意味がないわ」麗蘭は続ける。「みんな、よく聴いて。この艦隊は15分後に成都に到着する。そのときに大音量でジェーン・チャンの『终于等到你』を流すの。ミュウが存在できた宇宙外は無だから音楽がなかったのよ。音楽の力を使ってミュウと和平することができれば、私たちの功績になるわ。全艦隊にスピーカーを設置して。」

「全部隊に告ぐ! 艦隊全体にスピーカーを設置し、ジェーン・チャンの『终于等到你』を流すぞ!」

「あの……申し上げにくいんですが隊長。」兵士の一人が凛に言った。「私どもも歌っていいんですか?」

 凛は一瞬の間を置いて、淀みなく言い放った。

「……許可する!」


「こちらから攻撃は一切しない。ジェーン・チャンの『终于等到你』を盛大に流す。こちらからは一切攻撃せず、和平的に事態を進行させる。音楽隊に所属した経験のある者はいるか? いれば、音楽に合わせて演奏しても良い。歌いたい者は歌うことを許可する!」凛はそう言い放った。それは放送により伝達された。ものの5分で、宇宙要塞九龍城の外壁にいっせいにスピーカーが向けられた。外から見ていた人には、上空に浮かぶ巨大な貝殻の四角い破片が、赤霧状のミュウのために薄赤い太陽の輝きを受けて煌めいているように見えただろう。

 成都に巨大な影が出現したのは、正午頃であった。宇宙要塞九龍城が、ミュウと和平すべく進軍を開始したのである。

「ただ今より作戦を開始する!」凛が叫ぶ。「皆のもの、自由に歌って良い。この作戦の責任は私が取る。許可する!」

 こうして、ミュウと和平するという目的によって、宇宙要塞九龍城の乗組員は、盛大に歌った。宇宙要塞九龍城の乗組員5万人分の歌声が、一体になって成都一帯にこだました。もはやそれは歌というよりは、魂の叫びに近かった。張り詰めていた緊張が一気に解け、空気は温かくなった。歌が響き渡るにつれ、ミュウは赤さを失い、次第に敵性を失って地上に降りていったため、空の青みが戻っていった。楽隊に所属しているものの中には、トランペットを吹き出すものもいた。全員の全体のハーモニーが一致して、「在最好的年纪遇到你(一番いい時にあなたと出会えた)」の歌詞のところでは、歌声のために要塞の壁それ自体が震えたほどだった。その歌声こだます巨大な立方体の要塞が、成都の雲ひとつない真っ青な上空に浮かんでいたのだった。

 成都の破壊された街並みの中で生き残っていた人々は、それに応答するかのように、流れてくるメロディに合わせて歌を歌った。成都全体が歌声に包まれ、歓喜に沸いた。

「報告です!」美花がモニタの赤の点の消滅を指差しながら言った。「ミュウの敵性反応がなくなっていきます!」みるみるうちに、モニタの赤い点が消えていき、緑色の画面になっていった。モニターには、ミュウの赤い霧が交渉中の和啓のいる成都の会館に吸い込まれていって、全体が曲に応答したのが映し出され、和平に応じようとしているのがわかった。

「成都から完全にミュウの敵性反応が消滅しました!」美花。

「これは……どういうことだ?」凛。

 次の瞬間、ニュースが流れた。和啓が、ミュウとの和平に成功したというのだ。

「彼らが友好的になったのね。」と麗蘭。

「歌の力が、これほどまでに大きいとは!」と凛。

 凛と麗蘭はハイタッチして喜んだ。美花もその表情から笑みを絶やすことはなかった。

 のちにこの作戦の映像が広まったとき、それを見たものは、その歌声を、まるで防波堤に打ち寄せる力強い波のようだと表現した。ジャーナリストたちは、成都に海が訪れた、と表現することになる。


 そのニュースの通り、ミュウは和啓との和平交渉に応じていた。地球人には、太陽光を遮蔽しないということの見返りに、地球人の知っている歌を聴かせるように彼らは要求してきたのである。

 宇宙空間に存在していた彼らミュウは、音楽というものの存在をまるで知らなかったのだ。ミュウたちは、音楽を聴くことによって、より人間と近しい存在になりたいと思うようになったと、翻訳機からの言葉は伝えた。できれば、私たちと共に素敵な運命を歩みたいと、ミュウは和啓に語りかけた。和啓がミュウに太陽光を妨げないよう依頼すると、ミュウは太陽から一気に成都のもとへ集った。その瞬間大気が引き裂かれたような赤に変わり、すぐに太陽の強い晴れ間が広がった。カメラに写っていたのはその様子だったのだ。そして集合したミュウたちは赤の漂う粒子となって、音楽に合わせて楽しそうに踊り始めたのである。ミュウは次第にジェーン・チャンの歌を覚え、理解し、周囲の熱狂的な歌声に合わせて見よう見まねで歌い始めた。その声は、まるで昔に流行していた初音ミクのような歌声だった。


 こうして凛、麗蘭、美花の三人は、九龍城の乗組員全員で歌を歌い、ミュウと和平交渉することに成功した。アメリカ、ロシアでも歌が使われ、地球全体からミュウの敵性反応が消滅した。その後の研究で、ミュウの残骸から音素子によって干渉する物質が発見され、通常の音波ではなくハーモニーと声の響きがミュウを魅了したことが判明した。こうして、凛、麗蘭、美花は世界的な功労者に選ばれたのである。

 叙勲に向かう飛行機のファーストクラスで足を伸ばしてくつろぎながら、「ところで、あの歌ってどんな意味なの?」凛は美花に聞いた。

「出会えてよかったっていう、昔の成都の歌手の流行歌よ。そんなものが彼らとの共存を可能にするだなんて、誰も思っていなかったわ。成都の歌姫の歌が、世界を変えるなんてね。きっとミュウたちは、私たちに出会えてよかったって、本当に心の底から言いたかったのよ」美花は澄んだ声で答えた。

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