第40話 change the destiny⑤
【七月十八日 水曜日】
「演技の練習、やってみる?」
「え!?」
それは昼休みに彼女と話すようになってから数日が過ぎた日のことだった。
何故か、突然、何の前触れもなく、演技の練習をしようと彼女が言いだしたのである。
「い、いいんですか?」
「うん、時間もあるし、少しだけやってみようよ」
数週間前、彼女に直接演技の練習を手伝いたいと申し込んだ時、重いだとか、怖いだとかという理由でこっぴどく断られてしまった記憶が今も苦く頭の中に残っているせいか、俺は今一つ、彼女の発言が信用できずに身構えた。
どういう心境の変化だろう?
何か、罠でもあるのか?
頭の中で名探偵ばりの推理をしていると、不安そうな表情で彼女が尋ねてくる。
「いや?」
「と、とんでもない! やりたいです!」
その問いに慌てて合意の返事をするも、心の中は曇ったまま。
確かに、やりたいのか、やりたくないのかと問われれば、答えはもちろん前者になるのだろう。
その決定に異論はない。
ただ、どうしてそういう思考に至ったのかが気になったわけで、知りたかったわけで。
結局、何か自分の中で納得が着かずに、彼女に発言の意図を聞いてみた。
「でも、本当にいいんですか?」
「え、何が?」
「先輩、俺のことまだ信用してるわけじゃないって言ってたから……」
「…………」
「だから、もしかしたら気を使わせちゃっのかなって思って……」
伏し目がちに、思いの丈を吐き出してみる。
もしも俺に気を遣ってそう言ってくれたのであれば、それは余計な気遣いだった。
彼女の本意に反してまで、彼女の大切な部分に触れたくなんかない。
やりたくないという気持ちが少しでもあるのなら、やらなくたっていい。
彼女に無理をさせてまで、紛い物の信用を得たいわけではないのだ。
彼女の意思を一番に尊重したい。
それが、俺の本心だった。
「……にぶちん」
「え?」
そんな俺に、彼女は不機嫌そうにそう返す。
………………に、にぶちん?
脳内にその言葉が増殖していき、頭の中に反響する。
え、どういうことだ?
何かの暗号?
俺にはもう、彼女の言わんとしていることがさっぱり分からなかった。
「私がやりたいって言ってるんだからいいの! ほら、早く立って!」
「は、はぁ……」
むくれてそう促す彼女に手を引かれ、俺は彼女の隣に立った。
しかし、依然として彼女の本心は理解できないまま、成り行きに任せて彼女に従ってしまっている。
一体、彼女は何を望んでいるのだろうか。
信用できないから演技はしないと言ってみたり、演技をしてもいいと言ってみたり。
挙句、その意図を汲み取れなかった俺に対して“鈍い”とまで言いだす始末。
乙女心が複雑なのか、はたまた俺がバカなだけなのか、よく分からなくなってきた。
彼女の心理は現在どのような状態なのだろうか。
彼女は何を思ってそのような提案をしたのだろうか。
演技を見せれないのは、俺が信用に足る人間ではなかったから。
なら、演技を見せるというというのは一体…………あ。
そこまで考えて、ようやく理解する。
つまりは、ここ数週間の努力がようやく実を結んだということだ。
頭をポリポリ掻きながら、彼女の方を見る。
俺が彼女の発言の真意を理解したのを察したのか、彼女はそっぽを向き、決して視線をこちらに合わせようとはしなかった。
黒く長い髪の毛からはみ出した耳が、桃色に染め上がっている。
彼女のその反応に、俺も何だか居心地が悪くなり、体ごと視線を彼女の逆方向に外す。
にぶちん……あぁ、そういうことだったのか……これだから、察しの悪い男は困る。
「というか、俺、演技のことなんて何にも知らないですけど大丈夫ですかね?」
「大丈夫だよ、私だってほぼほぼ素人みたいなものだし」
「知識量に差がありすぎるんですが……」
「それは……気合でカバー!」
「えぇ……そんな無茶な……」
照れ隠しも兼ねて、そんな問いを彼女に投げかけてみる。
すると、彼女は穏やかな、柔らかい草木のような笑顔を浮かべて、俺の懸念を取り除こうとしてくれた。
しかし、言っている内容自体はパワハラそのもの。
時代遅れの根性論で問題を解決しようとしている。
む、無理だ……気合で不可能を覆せるのなら、人類はとっくの昔に不老不死の境地に到達している……
一度目の世界で彼女の演技に付き合い、無様な失態を晒した自分の姿が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
また、彼女に笑われてしまうんじゃ……
「うーん、何の練習にしよっかな……夏目君は初心者なわけだし……」
俺の意見などお構いなしに、彼女が悩む。
何を言っても聞いてはくれなさそうなので、黙ってその様子をしばらく見守っていると、彼女はぽんっと手を叩き、まるで百点満点のテストの答案を手渡された小学生のような顔をしながら俺に言った。
「そうだ、表情を作る練習してみよっか。 演技をする上では基本的なことだしね」
「表情……ですか?」
「そう、感情をコントロールする練習とも言えるね。喜怒哀楽を操るの」
表情の練習。
その言葉を聞いて、俺が最初に抱いた印象は「あれ? 意外と簡単そうじゃね?」だ。
何故、そう思ったのか。
それは、“表情”という概念が、人間が生きていく上であまりにも身近で日常的なものだったからだ。
人は時に笑い、時に泣き、時に怒り、時に苦しみ、それらを何度も何度も繰り返しながら生きている。
そんな生まれながらにして染みついている習性など、練習なんかしなくても簡単にできてしまうだろうと、そうやって高を括ったのだ。
「喜怒哀楽……笑ったり悲しんだりってことですよね? よく分からないけど、それくらいだったら俺にもできそ……」
「言ったね」
自信ありげにそう言った俺を見て、彼女はニヤリと頬を緩ませた。
「今の言葉、忘れちゃダメだよ」
ほくそ笑むように、不穏な、意味深な言葉を残す彼女が少しだけ怖くて、背筋に悪寒がゾゾっと走った。
え……何……やめて、そういうの……陰キャだからどう反応していいか分からなくなる……
「じゃあまずは私がお手本としてやってみるから、夏目くん、指示お願い」
「わ、わかりました。えーと……それじゃあ、笑ってください」
それはどういう意味かと聞き返す前に彼女がそう切り出したので、抗うことができずになし崩し的に表情の練習が始まってしまう。
俺がそう指示すると、彼女は真剣な表情を一転させ、すぐにその顔に満面の笑みを咲かせてくれた。
やはり、彼女の演技はうまい。
まるで、木漏れ日の下で赤子に微笑みかけるような柔らかい笑顔。
そこに物語があるような、想像を刺激するような表情を彼女はした。
表現力だけではなく、スピードも速かった。
多分、彼女がその表情を作るまでに掛かった時間は一秒にも満たなかったと思う。
「お、おぉ……すごい……」
シンプルに、尊敬の念を込めてそう口走った。
表面上は、そうとしか思っていないように見せかけた。
しかし、心の中には口にした言葉以外にも様々な感情が芽生えていた。
正直、ドキッとした。
多感な時期の男子高校生が、可愛らしい女子高生、しかも年上の女の子にそんな顔を向けれてしまっては、動揺からは逃れられないわけで。
必死にそれを隠すために、本心を半分、取り繕うための偽りを半分混ぜた言葉を彼女に投げた。
「ふふ、じゃあ次は夏目君ね。はい、笑ってみて」
褒められたことが嬉しかったのか、先ほどのような意図的に作られた笑顔ではなく自然な笑みを浮かべて、彼女が俺に指令を出した。
その笑顔に、俺はまた心を奪われてしまいそうな気がして、本心を気取られまいと、急いで指示された演技に取り組んだ。
頬に力を入れ、口角を吊り上げる。
シンプルで、とても簡単な動作。
の、はずなのに、意図的にそれをやろうとすると何だかうまくいかず、不自然な感覚が自分の顔じゅうに広がった。
頭でも、体でも分かっているはずなのに、何十年も己の体に刷り込まれてきたしぐさのはずなのに、何故か、今だけは、俺には“笑う”という動作ができなかった。
「ん、あ、あれ? なんかうまくできない……九条先輩、俺、笑えてます?」
違和感を覚え、彼女に慌てて確認する。
すると、彼女はうーん……と微妙な声を漏らした。
「厳しいこと言っちゃうけど……」
険しい表情をした彼女が、少しだけ気を遣ったような声音で言う。
「限りなく無表情に使い」
「えぇ……」
彼女のその言葉に、少しの落胆と、それ以上の困惑を覚えた。
どうして、俺は笑えなくなってしまったのだろか。
もしかして……陰キャだからか?
心当たりのあり過ぎる原因が脳裏を掠める。
“陰キャは人前で自然に笑えない”
それは、人類が誕生する前から説かれている通説だ。
陰キャは総じて人前で笑顔を見せるのが苦手だ。
それは何故か?
陰キャは、世界から笑うことを許されていないからである。
それを裏付けるエピソードが一つある。
昔々、小学生の頃の俺はあまり笑わない子供だった。
笑わないというか、厳密に言えば“人前で”笑わない子供だった。
理由は簡単。
陰キャだからだ。
そんな薄暗い小学校生活を送っていたある日。
普段はクソほどくだらないことしかやらないクラスのお調子者が、珍しくセンスの良いギャグを披露し、それを見て思わず笑ってしまったのだ。
その時である。
隣の席の女子が「あ! 夏目君が笑ってる!」とクラスの全員に報告し出したのだ……
………………何で言うの!?
別にいいじゃん! 笑っても!
陰キャは教室で笑うことすら許されないのか?
喜びの感情を滲ませることすら許されないのか?
おかげで、クラス全体の注目がお調子者から俺に移り大変微妙な空気になったのを今でも覚えている。
何が「え、嘘!?」「本当に笑ったの?」だ!
俺を銅像か何かとでも思ってたのか?
思えば、あの時から人前で自然に笑えなくなったのかもしれんな……
あの女子、街中で会ったら確実にしばく。
「なんか、思ってたより難しいですね……俺にも簡単にできそうだなんて言ってすいませんでした……」
「ふふふ、でしょ? わかればよろしい」
俺にもできそうだとか、簡単そうだとか言ってしまった手前、立つ瀬がなく、暗い表情で彼女にそう謝罪すると、彼女は少しだけ嬉しそうに笑って得意気な顔をした。
おそらく、彼女にとって演技を、演じることを見くびられたのは腹立たしくて納得できないことだったのだろう。
だから、できないのを重々承知の上で俺に表情の練習をさせた。
可愛い顔をして、中々の意地の悪さである。
自分が悪いのは分かっていたけれど、胸にむかむかとした何かが突っかかって、気になって仕方がなかったので、何かしら文句でも言ってそれを晴らそうと彼女を見た。
「ごめんね、私もムキになっちゃった」
「え、あ……いや、別に謝るほどのことじゃ……はは……」
けれど、俺が何かを言う前に、彼女がしゅんっとしながらそう謝ってきたため、俺は何も言えずに、その場で力なく笑うことしかできなくなってしまう。
自らの身に宿る悪意に耐えきれずに、優しさに抗えずに、非を詫びる彼女。
結局、最後の最後には悪人になり切れずに、穏やかな本性を見せてしまう彼女。
その姿を見て、彼女らしいなと思いながら頬を緩めた。
知らぬ間に、胸のもやもやはどこかに消えていた。
彼女もちょろいが、俺もちょろい。
「というか、九条先輩は完璧でしたね。表情作るの」
「え、そ、そうかな?」
優しい笑顔を浮かべながら彼女を褒めると、彼女は照れたように頭を掻いた。
「表情を自在に操るにはね、表情筋を常に柔らかく保たなきゃダメなんだ。筋トレみたいに毎日練習を続けていかないと、すぐに固くなっちゃうし」
頭を掻いた手を今度は胸の前で組み、表情の練習についての説明を始める彼女。
声音は弾み、表情は生き生きしているように見えた。
「なるほど……俺は表情筋が固かったのか……どうすれば……」
「うーん……そうだね……」
真剣に悩む俺と、真剣に悩む彼女。
屋上には、二つの重々しいうめき声が響く。
表情筋はどうやってほぐせばいいのだろうか?
こねくり回せばいいのか?
それとも、洗濯バサミで挟んだりしたほうがいいのか?
頭の中でぐるぐると考えていると、いつの間にか彼女が俺の目の前に立ち、上目遣いで俺の顔をまじまじと覗いていた。
ビクッと体をひねらせて後退しようとするも、彼女は逃がしはしまいと自分の両の手を俺の頬にあて、軽く握る。
「え、 ちょっ」
「こうやってほぐしてあげれば少しはマシに……」
突然の出来事に戸惑い、情けない声を上げた。
むにむにと、俺の頬をこねくり回す彼女。
彼女のすべすべの白い手が、顔の表皮を伝って温もりを与えてくれる。
え、あ、ちょ………………
や、やめて! 変な世界の扉開いちゃいそう!
「ほら、これで少し柔らかくなった!」
どうしていいのか分からずに、彼女にされるがまま顔をいじられること数分後、そう言って手を離しながら、彼女は無邪気に笑った。
おそらく、彼女に他意はなくて、ただ純粋に、善意で俺の顔の筋肉をほぐそうとしてくれたのだろう。
けれど、それはかえって質が悪い。
その無邪気さに振り回される側の人間はたまったもんじゃない。
こっちの身にもなってほしいもんだ。
危うく、心臓が止まりかけたくらいである。
「あ、ありがとうございます……」
心臓をバクバクさせながら、彼女に一応のお礼を言うと、彼女はいえいえと手を振って笑った。
「せ、先輩も毎日こんな風にほぐしたりしてるんですか?」
心の内を彼女に悟られないように、不意に頭の中に思いついた疑問を言葉にしてその場を誤魔化す。
「ちょっとだけね。あと、手を使わずに目とか鼻とか動かしたり……」
「動かしたり?」
「あ……ごめん、今のやっぱりなし」
「え? いや、ガッツリ聞いちゃいましたけど……」
適当に放った質問はどうやら地雷だったようで、彼女は急いで口を噤んだ。
けれど、そこまで聞いてしまったら逆に気になってしまうというのが人間の性で……(以下略)
とにかく気になってしまったので、彼女が口にした言葉を、追究というか、深堀してみることにする。
「手を使わないでって……具体的にどうするんですか?」
「ま、まぁ……色々ね……」
「色々って……先輩、気になるんで一回やってくれません?」
「ぜ、絶対にいや!」
今まで見てきた中で、一・二を争う程に激しい拒絶を示した彼女に俺は驚いた。
これほど抵抗するのはきっと、その行為が、所業を他人に見られるのが、彼女にとっては死ぬほど嫌なことなのだからだろう。
しかし、そんな反応を返されてしまうと、俺の知的好奇心は強く刺激されてしまうわけで、もう、それを見るまでは簡単には引き下がれなくなってしまうわけで。
「えぇ……なんで」
「だって、あれやると滅茶苦茶変な顔になるんだもん……絶対に引かれる」
「引きませんよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないです」
「でも夏目君、先週、笑わないって約束にしたのに笑ったよね?」
「そ、それは……」
しぶとく食い下がろうとするも、彼女もまた一歩も引こうとはせず、論理的に、俺の前科までも持ち出して理論武装を始めた。
うわぁ……ガチだ……これほど嫌がるってとこ見たことない……こうなったらあきらめるしかないな……
渋々、自らの敗北を認め、降参する旨を彼女に伝える。
「残念ですけど……それなら仕方ないですね……あきらめます……」
「そ、そんな悲しそうな目しても、やらないからね!」
しょぼくれた顔でそう言うと、彼女は苦悶の表情を浮かべながら、もう一度拒絶の言葉を口にした。
彼女は優しいから、人が悲しんだり、落ちこむところを目の当たりにしてしまうと良心の呵責に苛まれてしまうのだろう。
頼まれたら断れないタイプの人間なのだ。
本当、根っからのお人よしというか何というか、将来が思いやられる性格をしている。
俺がちょくちょく指摘してあげて、高校を卒業するくらいにまでは治しておかないと…………あれ? ちょっと待て? これ、もうちょい押せばいけるんじゃ……
「本当はすごく見たいし、このまま家に帰ったら気になって夜も眠れないけど、九条先輩がそこまで嫌だって言うならあきらめるしかないですね」
「う、うぅ……」
ねちっこく、それでいて大げさに。
本当は知りたいけれど、先輩のためを思って身を引くという部分を強調して、再度揺さぶりをかけてみる。
すると、彼女は引き続き苦悶の表情を浮かべ、頭を抱えて悩み始めた。
そして、数分の時間が経った後、彼女は不安そうな表情を浮かべてこちらを見た。
え……まさか……
「わ、笑わない?」
えぇ……ちょ、ちょろい……さすがにちょろすぎる……これ完全に将来DVとかに遭うやつだよ……貢ぐやつだよ……だって、ボディがガラ空きなんだもん、自分から当たりに行ってるんだもん……もっと自分の意思とか、尊厳とかを大切にしてくれ……
「……言いだしの俺が言うのもなんですけど、さすがにちょろすぎませんか?」
「なっ!」
余りにも酷すぎる彼女のダメ男ホイホイっぷりに、逆に良心の呵責に耐えられなくなった俺がそう注意すると、彼女はどこからそんな音を出しとたんだと思わせるような声を上げた。
「わ、私はただ……夏目君のことを思って……」
「いや、その気持ちは嬉しいですけど……もっと自分を大事にしたほうがいいって言うか、嫌なら嫌って言ったほうが……」
そこまで言って、自分の発言の過ちに気がついた。
彼女の顔を見ると、際限なく微妙な表情をしていた。
しまった! 最近は以前と、一度目の夏をとほとんど変わらない接し方をしていたから、距離感の取り方を勘違いしてしまった。
それほど仲の良くない、しかも一年年下のクソガキに生意気なことを言われれば腹もたつだろうし、何より彼女のプライドが傷つくはず。
しかも、元は俺が振った話題なのに、それを棚に上げて、あまつさえ彼女に説教までするなんて。
いくら彼女が優しい人間だからと言って、今回に関しては憤りを感じるのは必至。
苦労して得た彼女からのいくらかの信頼も、白紙に戻されてしまう可能性だってある。
「え、あ、いや……すいません……調子乗りましたね……」
「…………」
慌ててご機嫌を取ろうと、彼女に頭を下げた。
けれど、彼女は何も言わず、下を向いて頭を垂れるだけだった。
「お、怒ってます?」
「………………」
へんじがない…ただの怒れる女子高生のようだ…。
あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
やらかしたぁぁぁぁぁ!
怒ってる、怒ってるよ。
だって、何も言わないもん。
静かな怒りに燃えてもん。
憤怒の使徒と化してるもん。
終わった……全部終わった……俺は、彼女に嫌われたんだ……
絶望の淵に立ち、頭を抱えて天に懺悔をする。
時すでに遅し、今更何をしたって手遅れだとはわかっていたけれど、そうせずにはいられなかった。
ごめんなさい、ごめんなさいと心の中で平謝りしていると、不意に、右肩をポンポンと誰かに叩かれた。
前を向くと、そこには彼女の顔があった。
してやったり、と言わんばかりのにやけた表情でこちらを覗いている。
「こんな風にさ、表情を自在に操れると便利なことが多いんだよね」
……………………………………………は?
理解が追い付かずに、彼女の顔をまじまじと直視し続けた。
つまり……それは……
だ、騙された。
完膚なきまでに騙された。
それは、つまりは、全てが嘘。
しゅんとした表情も、苦悶の表情も、怒ったような表情も、つまりは全てが彼女の演技。
俺が悩んだのも、心配したのも、後悔したのも、全ては彼女の掌の上で踊らされていたというわけだ。
や、やられた……
まさか、彼女が演じていたなんて……
「え、本当に怒ってないんですか?」
「怒ってないよ。夏目君、私の事を心配してそう言ってくれたんでしょ? 怒るわけないよ」
全てを見透かしたように彼女は笑う。
けれど、俺は何を信じていいのか、今も演技は続いているのかが分からなくて、不安げに彼女に聞き返した。
「本当に…本当ですか?」
「本当だよ~しつこいな~」
彼女がまた、呆れたように笑う。
けれど、まだ俺の頭の中は混乱しているようで、それを落ち着かせるために、直接的にそれが真実なのかを確かめることにした。
「え、じゃあ、あの、今笑っているのは演技とかじゃないんですよね?」
「うーん……」
傍から見れば、相当おかしな質問だったろう。
けれど、彼女はそれを真剣な表情で受け止めてくれた。
胸の鼓動を高鳴らせながら、彼女の返答を待つ。
数秒後、悩んだ末に彼女は、その答えを決めてくれたようで、俺の方に向き変える。
その顔には、嬉々として悪戯をする子供のような純粋さが映っていた。
その笑顔、まさに悪魔的。
「教えないっ!」
屋上に、頭を掻きむしりながら膝まづく男が一人、悲鳴を響かせる。
彼女は笑っていたけれど、俺は笑ってなどいられなかった。
彼女が俺への信用を失う前に、俺が彼女に対する信頼を失いそうだった。
どんなホラー映画の怪物よりも、どんなサイコキラーよりも、どんな幽霊よりも、その時だけは彼女の方が恐ろしかった。
× × × × × × × ×
「またね、夏目君」
放課後、昇降口。
そう言って手を振る彼女に軽い会釈を返し、俺達二人は各々の帰路に就いた。
オレンジ色の光を背中に浴びながら、トボトボと自宅へと続く道を歩く。
太陽はゆっくり、ゆっくりと沈んでいき、夕日の沈むスピードに比例して、影が世界を占める割合が増えていく。
そんな世界の明度に連結するように、俺の心の中にも薄暗い闇の部分が広がっていった。
彼女とまた、二人で演技の練習ができるだなんて夢にも思わなかった。
一度諦めたことだから、一度失望したことだから、それが再び目の前にぶら下げられた時、感情は、心根は、言葉では言い表せない喜びで溢れた。
本当に、夢のような時間だったと思う。
けれど、楽しい時間もいつかは必ず終わりを迎えるように、先程まで心の中心を占めていたはずの白く暖かい光は身を潜めだし、暗く、黒い感情が、焦りや、不安を含んだ感情が、徐々に心の中で幅を利かすようになってきた。
この不可解な現象が起きた時、俺は、彼女が生きてさえいれば、死の運命を回避さえすれば、他の事象はどんなことだって切り捨ててやろうと、彼女を救うという目的を達成する上で障害と成り得るのならどんなことだって排除してやろうと、そう決めていた。
けれど今、その決意は揺らいでしまっている。
彼女と再び接する中で、彼女と再びそれに触れたことで、気づいてしまった。
いや、最初から分かってしたのかもしれない。
分かっていて、合理的に、確実的に目的を遂行するために見えないふりをしていた。
彼女の心を占めること、彼女の笑顔の源になること、それは、“演じる”という行為だ。
今日、それを深く再認識した。
演じている時の彼女は、ピカピカとまばゆく輝いているように見えた。
演じる喜びを、自分とは違う第三者に為る楽しみを、体と心の内なる部分から溢れさせていた。
彼女が生きる上での絶対条件は”演じる“ことなのだと思う。
誰かの人生を考える、誰かの人格に成りきる、それが彼女の生きがいなのだと思う。
それを裏付けるように、今日の彼女の表情は生き生きとしていた。
そんな彼女を見て、思ってしまった。
“演技が続けられる可能性を、彼女に示してあげたい”と。
この世界で彼女は、未だ自分の未来に希望を抱いていないのだろう。
過去とか、未来とか、現在とか、自分を取り巻くありとあらゆる事情が彼女の足枷となり、前に進むのをあきらめさせているのだろう。
このまま何もしなければ、彼女は自分の未来の可能性を切り捨ててしまうことになる。
彼女は以前、自分が進む大学は、専門的ではなく、一般的な、社会的な分野を学ぶ大学だと言っていた。
高校三年生の夏は地獄の季節だ。
夏が始まる前に進路を定め、今から始まるであろう競争の準備に骨を折らねばならない。
今じゃなきゃダメなんだ。
今、彼女に可能性を示してあげなければ、逃げない大切さと逃げる大切さを伝えなければ、彼女の未来は後悔にまみれたものになってしまう。
分かっている、それがどれほど困難な道であるのかは。
彼女を死の未来から救うだけではなく、彼女の未来から後悔を取り除きたいだなんて、欲深で、傲慢で、虫のいい話だ。
でも、それでも、俺の心の指針はすでに固まっていた。
もしここで、彼女の“演じる未来”の可能性を見捨てて、彼女を救ったとしよう。
その先に待ち受ける結末は一体どんなものになるのだろうか。
その未来で、彼女は心から笑っているのだろうか。
その未来で、俺は彼女と真摯に向き合えるのだろうか。
答えはノーだろう。
彼女の命と魂を救う覚悟はできた。
しかし、具体的に何をすればいいのだろうか。
太陽が完全にその姿を消し、光の消えてしまった灰色の世界の中で、俺は考えていた。
まず、彼女に夢、目標から逃げないことを伝えなければならない。
これは一度経験したことなので、恐ろしく手間はかかるが、何とかなるだろう。
記憶や多少の価値観の違いはあれど、彼女の本質は一度目の夏と変わらないはず。
“大事な事からは逃げないで、それ以外の事からは逃げてしまおう”。
その約束を、もう一度彼女と結び直すのだ。
大丈夫、一度は成功したんだ、できない道理はない。
真摯な心でぶつかれば、彼女もきっとわかってくれるだろう。
問題は、その約束が七月三十一日、彼女が死の運命を迎えるその日にどう関わってくるのかだ。
彼女は死を迎える数時間前、“話したいことがあるから、今から会えないか”と俺にメッセージを送ってきた。
彼女と逃げないこと、向き合うことを誓った一週間後にだ。
話したかった内容は、十中八九演技に関することだと察しがつく。
彼女はあの日、俺に何を伝えたかったのだろうか。
母親の説得に成功したのを報告したかったのだろうか、それとも、説得に失敗してしまったのを相談したかったのだろうか。
分からない。
けれど、あの少しの緊張感と言うか、戸惑いを含んだ堅苦しい文面を思い出すに、吉報という可能性は限りなく低いように思えた。
となると、答えは、仮定は一つになる。
おそらく、彼女は母親の説得に失敗したのだろう。
そして、沈んだ感情の行き場が見当たらず、俺に相談を持ち掛けてきたのだろう。
合理的な判断もできずに家を飛び出し、心ここに在らずの状態で夜の街を歩いた。
そうして……彼女は……
想像力が暴走し、陰鬱な気分になった。
彼女に巻き起こるはずの悲劇を憂いても仕方がない。
それは、俺の尽力次第で変えられるはずだ。
今は、彼女を救うことだけ考えていればいい。
そう自分を叱咤し、気持ちを切り替えた。
彼女があの日家を飛び出し、死に至る事故に巡り合わせた原因は“演技”なのだろう。
失望や挫折が見えない形となって、影を、薄暗い“死”という運命を引き寄せてしまったのだ。
それを知ってしまうと、また迷わずにはいられなかった。
彼女の魂を救うのは、彼女の命を見捨てることだ。
彼女の命を救うのは、彼女の魂を見捨てることだ。
俺の推測が正しいのなら、彼女に演技の道を続ける可能性を示すのは、それすなわち彼女の死の可能性を高めることに通じる。
いや、七月三十一日に彼女を家から出さなければ全てが解決するのだが、人間追い詰められている時程何をするか分からない。
絶望した彼女が、俺との約束を破る可能性もなきにしもあらず。
1%でも彼女に危機が迫る可能性があるのなら、排除したいというのが本音だった。
けれど、それを考えて彼女の演技の未来を切り捨てるのにも納得がいかなかった。
今、彼女に伝えなければ、彼女の努力も、才能も、全てが無意味なものになってしまう。
それは、それだけは嫌だった。
人生は一度っきりだ。
やりたいことをとことんやればいい。
どうすればいい。
自問自答を繰り返した。
彼女の命と彼女の夢。
どちらが大事なのかと問われれば、もちろん答えは前者だろう。
合理的に考えるなら一択である。
けれど、人間の思考には必ず感情が伴うもので、できるのなら彼女の未来への可能性を潰したくないと思ってしまうわけで。
どうにかして、その二つとも救うことはできないのか。
決して相容れるはずのない答えを、俺は欲深く、強引に求めた。
もう一度、何か重要な見落としがないかどうかを確認した。
彼女は七月三十一日の夜、交通事故でその短い生を終えた。
彼女がその日交通事故に遭ったのは、ある目的で外出をしたからだ。
ある目的とは、俺との会合である。
そして、その会合の根底にあるのは“演技”だ。
おそらく彼女は、母親に演技を本格的に始めること、続けることを拒絶され、動揺したまま家を出て、俺に相談を求めたのだろう。
その途中で事故に遭い、この世を去った。
どう考えても“演技”が、彼女の死に関わってしまっている。
やはり、彼女に“演技の道”の可能性を示すのはあきらめたほうがいいのだろうか。
演技を続けることが、彼女の生命そのものを奪い去る原因になるのなら、俺には、それを推し勧めることはできない……
原……因……?
いや、そうだ、違う。
彼女を殺した原因は、演技を続けようとした意思ではない。
あの日、彼女を家から連れ出したのは、演技を続けられないことに対する絶望感だ。
その絶望感を生みだす元凶とは何か。
そうだ、盲点だった。
その元凶には、形があるんだ。
形がある物なら、俺にだって何とかできるはずだ。
彼女の未来を阻む、その、元凶は……
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