第33話 夢③
目を開くと、また、あの場所にいた。
景色も、背景もない、虚ろのような空間。
ぼやけた世界に、俺は、ただ、立ち尽くしていた。
はぁ、と溜息をついた後に、自分の周りを見渡す。
そうして目的のものを見つけると、ゆっくりとそれがいる方向へと足を向けた。
いつもなら、こんなことはしないはずだった。
この空間では、何をやっても、どう足掻いても、全てが無駄になる。
それを長年の経験から理解していたから、この空間では極力動かず、解放されるのを待っていた。
けれど、今回は違っていた。
この空間に呼び出される時、俺はたいてい直前の記憶を失っている。
自分が今まで何をしていたのか、この空間で何が起こったのか、それらの記憶の全てを抜き取られていた。
けれど、何故か、今回は覚えていた。
この空間で起こったこと、ここ数回で、この空間で変わってしまったことの全てを。
それの前にたどり着き、少しだけ距離を取って座り込む。
「なぁ」
そして、柔らかく、何かを諭すような声音で話しかけた。
「お前は、何なんだ?」
俺が声を掛けたのは、アイツだった。
全てがぼやけたこの世界にただ一つ、いや、一人だけそびえ立つ、凛とした人型のようなもの。
何故か影が被っているように見えて、どんな顔なのか、どんな姿をしているのかを見出すことはできないけれど、そのシルエットからして、おそらく女。
そんな、何もないはずのこの世界に唯一存在しているアイツに疑問も投げかけた。
当然、答えなど返ってくるわけもなく、アイツは黙ったまま、俺に背を向けた状態で動かない。
いつも通りの光景だった。
いつも通りの結果だった。
アイツが、俺に言葉を返すだなんてあり得ない。
ましてや、人なのか、物なのかも分からない。
それを知っていたから、俺はアイツに干渉するのをあきらめてきた。
けれど、今は知っていた。
「どうして、笑ってたんだ?」
どうしてかは分からないが、俺は覚えていたのだ。
以前、アイツが俺を見て、ニヤリと頬を緩めるような動きをしたのを。
「どうして、泣いてたんだ?」
以前、暗い影に覆われた体から、透明な、悲しい雫を垂らしていたのを。
それを、俺は忘れていなかった。
泣いたり、笑ったりできるのは、アイツには意思があり、自我があるという根拠になる。
つまり、アイツには生命が宿っているのだ。
そして、不思議に思っていた。
アイツを見た時に覚えるようになった感情を。
悲しみや虚しさと共に、温もりや安らぎを感じるようになったのを。
アイツに、誰かを重ねていたのを。
それが、気掛かりだった。
「なぁ、答えてくれよ」
俺が再度問いかけても、アイツは何も言わなかった。
分からない。
俺は、アイツに誰を感じていたのだろうか。
俺は、誰に対してその気持ちを抱いていたのだろうか。
それだけが、思い出せなかった。
沈黙が、ぼやけた世界に広がっていく。
また、俺は何もできないままこの世界を去るのか。
せっかく、今まで起きたことの全てを覚えていたのに、忘れずにいたのに、何の成果も得られずに、また振り出しへと戻ってしまうのか。
それを思うと、残念でならなかった。
「お前は……何なんだよ……」
最後にもう一度だけ、希望を込めてアイツに問いかける。
けれど、やっぱり返事は返ってこなくて、俺は肩を落として元居た場所へ戻ろうとする。
立ち上がり、振り返って、歩き出す。
そうして、少しだけアイツとの距離が開いた時だった。
「ゴ……ン……」
物凄い勢いで振り返る。
耳を疑った。
何て言ったのかは聞き取れなかったけれど、微かな声音がぼやけた世界に響き、俺の鼓膜を揺らしたのだけは理解していた。
どこか聞き覚えのあるその声は、耳から全身にその声音を響かせて、俺の心臓の鼓動と呼吸のスピードを速めさせた。
「おい……今、何て言ったんだ?」
ゆっくりと近寄って、アイツに聞いた。
「……メ……ン」
すると、アイツはまたそう言った。
アイツを見た。
影のかかった後ろ姿は、小刻みに、寂しそうに揺れている。
「泣い……てるのか?」
「ゴ……メ……ン」
何となく理解した。
アイツは、泣いているのだろう。
泣きながら、俺に何かを伝えようとしていた。
そして、三度目にしてようやく分かった。
アイツは「ゴメン」と言っていたのだろう。
どうして泣いているのかも、どうして謝るのかも俺には分からなかったので、再び、アイツに聞いた。
「どうして謝るんだよ」
アイツは、また何も言わなかった。
「何か……言ってくれよ……」
そう言ってアイツを見つめる自分の瞳から、涙が零れ落ちた。
どうして、俺は泣いているのだろうか。
自分でも分からなかった。
アイツにつられてしまったのだろうか。
アイツと話せたのが嬉しかったのだろうか。
理由は分からなかったけれど、とにかく涙が止まらなかった。
両袖で涙を拭う。
本当に、今日はどうかしている。
この場所での記憶が残っていたり、アイツが謝ってきたり、悲しくもないのに涙が出たり。
以前とは明確に違う変化が、この空間に巻き起こっていた。
何も変わっていないようで、何かが変わっている。
その理由を知っているかもしれないのは、可能性を持っているのは、今のところはアイツだけだった。
とにかく、もう一度アイツを問いただしてみよう。
何か、情報が得られるかもしれない。
そう思って、涙を拭いアイツを見る。
その時だった。
目の前に、信じられない光景が広がっていた。
アイツを覆っていたはずの黒い影が晴れ、アイツの姿がくっきりと見えるようになっていたのだ。
俺は、言葉を失った。
心臓が、バクバクと鼓動を速めていく。
見覚えのある後ろ姿だった。
長く、腰のあたりまで伸びている黒い髪。
小さくもなく、大きくもない体。
見慣れた制服の姿。
それで、思い出した。
あぁ、そうか。
だったら、何もおかしな話じゃない。
アイツにそのような感情を抱いていたとしても、アイツに誰かの面影を重ねていたとしても、何もおかしな話ではない。
だって、アイツは君なのだから。
俺がそう思ってしまうのも仕方がないのだろう。
拭ったはずの涙が、また頬を伝う。
俺はそれを気にも留めずにアイツに近づいていく。
すると、アイツもこちらに振り返り、涙を浮かべた目でこちらを見た。
それで、確定した。
アイツは、俺より一つ年上の女の子だ。
アイツは、笑うと世界の誰よりもかわいい女の子だ。
アイツは、誰かを想い、自分を犠牲にできる優しさを持った女の子だ。
アイツは、臆せず、自分の道をひた走る勇気を持つ女の子だ。
アイツは、俺が大好きだった女の子だ。
アイツは、君だ。
アイツは、彼女だ。
どうして、もっと早くに気づかなかったのだろう。
自分はバカだと拳を握った。
気づいていれば、彼女をこの何もない空間に一人にすることも、泣かせることもなかったのにと、心の底から悔いた。
けれど、過去を嘆いていても仕方がない。
至らなかった部分は、今日から補おう。
彼女が泣いている理由は、今から聞いてあげよう。
彼女はここにいて、俺の手の届くところにいる。
それだけで、充分だった。
手を伸ばし、
彼女に触れようとしながら、
俺は、彼女の名前を叫んだ。
その時だったろうか。
何もないこの世界は、彼女から発せられた光に包まれて、本当の意味での「無」へと成り果てた―――――――――――――――――――――――――
「凪先輩!」
大きな声で叫びながら、飛び起きた。
伸ばした手の先に彼女はなく、掌は虚しく空を掴んでいる。
どうやら、俺はまた夢を見ていたらしい。
「…………くそ!」
虚しさと、悔しさと、悲しみがとめどなく胸の内に溢れ、行き場のない感情を、俺はコンクリートでできた屋上の地面へとぶつけた。
馬鹿にしやがって。
そう、心の中で何度も反芻しながら地面を叩いた。
夢の中でさえ、俺は彼女の側にいることを許されないのか。
そんな些細な願いさえ、望んではいけないのかと世界を恨んだ。
頭を地面に叩きつける。
鈍い痛みが全身を張り廻る、と思ったけれど、不思議と身体的な痛みはあまり感じず。
けれど、心の方は発狂してしまいそうなほど痛かった。
涙が滲み出る。
もう嫌だ。
こんな世界はもう嫌だ。
嫌いだ、全部嫌いだ。
身を刺すような日差しも、それを生み出す太陽も、この屋上も全部大嫌いだ。
頼むから、お願いだから、もう俺に関わらないでくれ、俺に干渉しないでくれ。
そう、地べたに這いつくばりながら、自分の着ていた半袖のワイシャツを握り潰してうめき声をあげる。
違和感を覚えたのは、それから数分が経った後だった。
………………どうして、俺は屋上にいるんだ?
確か、俺は屋上から飛び降りたのではなかったか?
どうして生きているんだ?
どうやってここまで戻ってきた?
疑問が、脳内を巡っていく。
考えだしたらきりがなかった。
もしかしたら、屋上に足を踏み入れた時から、それはすでに夢だったのかもしれない。
もしかしたら、飛び降りる寸前に誰かに助けられたのかもしれない。
謎は尽きなかった。
それに、他にも不可解な点がいくつかあった。
まず、屋上の環境の変化だ。
今日は肌寒いくらいの気温だったはずなのに、今は蒸し暑く、太陽が照り付けるように空の上に登っている。
俺が気を失っている間に、急激に気温が変化したのか?
それでも、この劇的な変化は異常だった。
次に、自分が身に着けている衣服と持ち物についてだ。
俺は今朝、制服のブレザーを羽織り、中に長袖のワイシャツを着てきたはずだった。
なのに、今、自分が身に着けているのは半袖のワイシャツ。
それは何をどう考えてもおかしな話だった。
それに、ズボンのポケットの中には、先ほどまでは感じることがなかった存在感。
手を入れて取り出すと、黒のマッキーペンが出てきた。
……一体、俺はここで何をしていたんだ?
思案を巡らせ、混乱する。
これじゃあまるで、時間が巻き戻って、あの日に戻ったみたいじゃ…………
「好きだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
突然、屋上に奇声が響き渡る。
驚いて、俺はその奇声が発せられた方向を覗き込んだ。
そして、また驚いて、絶句した。
確か、以前にもこんなシーンを経験したことがあったはずだ。
それは、夏が訪れる前の七月のはじめ。
俺が、昼休みにこの場所で昼寝をしていた時だった。
それと同じ瞬間を、録画していた映像を再生するような気分だった。
そう、屋上で奇声を発していたのは。
そこに、いたのは。
夏を前にこの世から姿を消した、もうこの世界にはいないはずの、死んだはずの彼女。
九条凪だったのだ。
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