第379話

 ゆっくりとピアスをなぞり、宮城の頬を撫でる。


「仙台さん、交換」


 宮城がぼそりと言って私の手から逃げると、落ちていたキーケースを拾って差し出してくる。


 私はさっき床に投げ捨てた鞄を引き寄せ、キーケースを取り出す。


「犬、ありがと」


 はい、とキーケースを渡して交換する。

 私は彼女から受け取った猫に、ただいま、と声をかけてから鞄にしまう。


「宮城、さっき寝てただけって言ってたけど、なんでこんなところで寝てたの?」


 疑問を口にすると、宮城が私ではなく床の上のタオルケットを睨んだ。


 答えは返ってこない。

 無言は静寂を連れてきて、空気が流れる音が聞こえそうなくらい静かになる。


 床の上で倒れているように見えた宮城。

 その宮城がくるまっていたタオルケット。

 彼女の手から滑り落ちた猫のキーケース。

 それらすべてがあった私の部屋の前。


 共用スペースに入ってきたときに散らばっていた情報を拾い集めて読み解くと、寝てただけだから、という宮城の言葉は嘘偽りないことがわかる。


 倒れていたわけではなかったことに安心はするけれど、集めて合わせてくっつけた情報だけでは宮城がベッドではなく床の上、それも私の部屋の前で寝ていた理由はわからない。


「宮城」


 私の疑問を解決しようとしない彼女の名前を呼ぶが、返事はない。

 宮城は喋らないけれど、立ち上がろうともしない。


 いつもならもう部屋に戻っていてもおかしくない彼女が何故ここにいるのか。文句を言ってきてもおかしくないのに何故黙っているのか。疑問は尽きない。


 私は時間を遡り、状況を整理する。


 宮城をこの家に残し、私はお姉ちゃんのところへ行った。

 その前は、二人で映画を観ていた。

 それは宮城が苦手なホラー映画で――。


「もしかしてさ、ここで寝てたのって……。怖かったから?」

「別にそういうのじゃない」


 宮城が低い声で言い、タオルケットを引っ張り寄せて私から少し離れる。


 こういうとき、宮城が答えてくれないことはわかっている。

 それでも都合のいい妄想が答えを聞きたがってしまう。


 ホラー映画を観て一人でいることが怖くなった宮城が、私を頼って部屋の前にやってきた。自分の部屋にいるよりも、私の部屋にいたかった。けれど、勝手に部屋へ入るわけにもいかず、部屋の前にいた。


 ただの願望でしかないけれど、現実だったらいいと思う。


「そういうのじゃないなら、なんでこんなところで寝てたの?」


 宮城が逃げて行った分だけ近づき、タオルケットを掴んで引っ張ると、引っ張り返されて「なんでだっていいじゃん」と素っ気ない声が飛んでくる。


「教えてよ」

「理由なんてない」


 ぴしゃりと言われて、これ以上の追及を諦める。


「じゃあ、理由なんてなくてもいいけど、こんなところで寝るのやめなよ。風邪引く」

「寝てない。起きてた」

「私が見たときは寝てたけど」


 タオルケットを強く引っ張ると、宮城が不機嫌極まりない声を出した。


「最初は起きてた」

「そりゃあね。誰だって寝る前は起きてるし」


 私がそう言うと、ぱっ、と宮城がタオルケットから手を離す。そして、私のほうへとタオルケットを押しやった。おかげで私のもとには宮城ではなく、ぐしゃぐしゃになったタオルケットがやってくる。


「……宮城、こんなところで寝るくらいなら、私の部屋に勝手に入って好きなだけ寝てなよ。部屋の前なんかで寝て風邪引いたら困る」


 宮城がホラー映画のせいで怖くなって私の部屋の前で眠っていたなら、可愛いと思う。


 でもそれは、共用スペースの床の上で眠らせてしまうほど怖い思いをさせてしまっていたことにもなるから胸が痛くなる。


 もっと早く帰って来るべきだった。


 私の部屋の前で眠っていた理由が、怖かったから、なんてものではなかったとしても、ホラー映画が苦手な宮城に怖い映画を見せた挙げ句一人にしてしまったのだから心細かったはずだ。


 お姉ちゃんを優先したつもりはないが、私は宮城を待たせすぎてしまった。


「……仙台さん、いつ帰ってきたの?」


 私の部屋に勝手に入っていいという言葉には答えずに宮城が話を変えてくるが、予定よりも帰りが遅くなってしまった私にはこの質問に答える義務がある。


「今、帰ってきたところ。お姉ちゃんの具合、思ってたより悪くて」

「大丈夫なの?」

「たぶんね。ご飯食べさせて、薬飲ませてきたし」

「……そうじゃなくて。仙台さん」

「ん? 私?」

「仙台さんは大丈夫なの?」


 小さかったり、低かったりしない真面目な声が聞こえてきて、宮城を見る。


 眉間に皺は寄っていない。

 不機嫌ではない宮城と視線が交わる。


 予想外だ。

 風邪を引いた姉ではなく、私のほうを心配しているとは思わなかった。


 私はタオルケットを横に置き、大事なものの中にいる大事な人がこれ以上心配しないように大切に伝える。


「大丈夫。宮城がいるから」


 宮城がいなければ、姉のところで平静を保てたかどうかわからない。姉と自分を比べてばかりいた頃の気持ちが蘇り、口にすべきではないような思いを口にしていたかもしれない。


 いや、きっと私は姉のところには行かなかった。そして、姉になにかあったら後悔して、すべてを投げ出していたかもしれない。


 でも、宮城がいるからそんなことはなかった。


 私はもう誰かと自分を比べる必要がないし、姉になる必要もない。

 私は姉と同じ私ではなく、宮城の私であるべきだ。


「ありがと、宮城」


 彼女の頬に唇で触れて、黒い髪を指で梳く。


「私は関係ないじゃん」

「あるよ」


 私には“宮城志緒理”という帰りたい場所がある。

 だから、姉のところに行けた。


 良い私だとは言えない私だったけれど、姉のところでやるべきことをやって、闇に囚われずに帰ってこられた。


「……葉月」


 小さな声が耳に響いて、ネックレスに宮城の手が触れる。

 指先がチェーンを辿り、四つ葉のクローバーを撫でて引っ張る。

 ネックレスが首に食い込んで、体が宮城に傾く。


 宮城の顔が近づいて、唇と唇が触れあう。


 驚いて宮城を見ると視線が外され、肩に彼女のおでこがくっついた。


「今ならいい」


 理解できない言葉が宮城からぼそりとこぼれて、声が出る。


「え?」

「この前の約束」

「約束?」


 馬鹿みたいに鸚鵡返しに答えると、宮城が聞き逃しそうなほど小さな声で言った。


「……次の約束したじゃん。あれ、今ならいい」


 澪がやると言っていた誕生日会をどうにかしてと宮城から言われた日、私たちは約束を一つした。それは、大事なものの中で大事なものを抱きしめることができる約束で、私が待ち望んでいたものだ。


「みや――」


 私の声がどこかから聞こえてきた音に遮られる。


「え?」


 口から、宮城の“ぎ”ではなく間の抜けた声が出る。


 私の声を遮ったのは、名前を呼ぶ時間がない勢いで響いた『ぐう』という低い音で、私の手はその出所に向かう。


 宮城のお腹。

 もう音は鳴っていないけれど、ぺたりと触る。


「もしかしてお腹空いてる?」


 空腹でお腹の虫が信号を送っているとしか思えない音を鳴らした胃の辺りを撫でると、宮城が私の肩から顔を上げた。


「違う。仙台さんのお腹」


 そう言うと、宮城が私の手を自分のお腹からばりばりと剥がして、私のお腹に押しつけてくる。


「絶対に宮城のお腹でしょ」

「違う。お腹減ってないもん」

「ご飯は?」

「食べた」

「なにを?」

「……なんか」


 宮城が答えにならない答えを口にして、私のお腹を押す。


 その言葉と行動があまりにも子どもっぽくて、私は思わず吹き出す。


 やっぱり、私の居場所はここで、私には宮城がいなければいけない。


「私も食べてないし、今から一緒に食べよっか」


 姉には食事を取らせたが、自分は食べずに帰ってきた。ここを出てから空腹を感じる余裕もなかったけれど、落ち着いてみればお腹が減っている。


「……食べるなら、今のなしだから」


 正直な気持ちを言えば、勿体ないと思う。

 胃が空っぽでも宮城に触れたいし、抱きしめたい。


 けれど、宮城もお腹が空いているのなら話が変わる。


「いいよ。私がご飯作るからさ、一緒に食べよう」

「……約束は?」

「次に宮城がいいって思ったときでいいよ」

「自分で言うの、もうやだ」

「じゃあ、明日ね」

「なんで勝手に決めるの」

「そう思うなら、自分で決めなよ」


 にこりと笑って宮城の手を握ると「むかつく」と返ってくるが、手が逃げていったりはしない。


「……保留にする」


 宮城がぼそりと言って、「ご飯食べる」と付け加える。


「ねえ、宮城。明日にしなよ」

「明日考える」

「私、宮城は嫌だって言わないって信じてるから」


 そう言って遅すぎる夕飯を作るべく立ち上がると、「早く作って」と低い声が飛んできた。

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