アフター・ザ・ダウンフォール

鈍川つみれ

第1章

第1話

 私たちに残されたのは、とうに過ぎ去ってしまった時代への郷愁だけだ。


 ケイが横浜に越すという話を聞いたのは、そのほんの二週間前のことだった。「どうして」と聞く私に、「単純に、ただ遠いんだ」と彼は返した。

「越谷から横浜は少し遠すぎるからね、通勤が厳しいんだよ」

 彼はそんな風にじれったい言葉を返した。私の気持ちには気付いていて、あえてそうしていることは明らかだった。彼は私から目を少し逸らしていたし、それは――つまり『私は嘘をついています』というような余りにも古典的な反応は――きっと私に対する罪悪感に違いなかったし、だからこれ以上私が訊くことは、いい結果など何ももたらさないことは明らかだった。私はそれくらいのことは知っていたし、分かっていた。でも、彼への気持ちを抑えることはできそうにもなかった。

「いるわ、それくらいの人なら、沢山いる」

 私は言った。思っていたよりもそれはずっと強くて、叫ぶようだった。

「わかってくれよ」

 彼はため息をつきながら言った。

「正直に言えば、僕だって移りたいわけじゃない」

「じゃあ、ここにいてよ」

 否定されることは、分かっていた。

「仕方ないんだ、職場が横浜だということの意味を、君も知っているだろ」

「でも、ここに居てほしいの」

 私は彼の腕を掴んだ。「あなたまで移ったら、私」

 彼は躊躇した、かなり長い間に渡って。私は彼に愛されていた。私はそれを知った。ずっと前から知ったつもりでいたけれど、その時に私はようやく気が付いたのだ。彼がどれだけ私のことが好きであるか。

 でも結局彼は私の腕を振り払った。ひどく名残惜しそうに。私はそれを見てもうケイがここには戻ってこないのだと知った。そして私はもう彼に何もしてあげることはできないのだと知った。

「どうして」と彼は呟いた。「どうして、こんなことで」

「こんなこと? これはそんな小さいことじゃない」

「僕たちは現実に帰らなければならないんだ。どんなものでも、どんな時でもね」

 彼はとても悲しそうに、でもきっぱりと言った。

 そして、現実に帰れという彼の私への殴打は、私を奈落に突き落とすには十分だった。私は気付いていた。現実に生きなければならないことも、地に足をつけなければならないことも。けれど、でも彼はそれではまだ足りないと言うのだ。私はもう何が現実で、何に適応するべきなのか、軸を失っていた。彼の世界と、私の世界は繋がってはいないのだということを思い知らされていた。

「ねえ、どうして横浜なの」

 私は震える声で彼に聞いた。「どうして、横浜でなければならないの」

「深い理由はないさ、同じ関東だ」

「違うわ、横浜は神奈川よ。越谷とは全然、違う」

 彼は私を見つめていた。私はずっと黙っていた。ずっと――彼がそのまま、私を憐れむような顔で、部屋を退出するまで。


 伊勢崎線は随分変わった。ダイヤは乱れなくなったし、車両は新しくなった。私はいつものように浅草で降りて、銀座線で渋谷まで向かった。

 渋谷は人で溢れていた。建設中のビルが立ち並ぶ街並みは、少し後の未来にこれよりずっと多くの人がこの街を訪れることを示しているようだった。私は道玄坂にあるビルに入って、タイムカードを押した。

 私の仕事は帳簿を付けることだ。自分のひと月に使うような額を一日で処理して、昼にはコンビニで紅茶とパンを買い、夜にはまた電車に乗る。私は決して不真面目な方ではなかったし、実際に評価も高かったと思う。けれど、昇進することはなかったし、私もそれはそれで当然だと思っていた。私のことは、私だけの問題ではないのだ。

 私は小さな会社に勤めていた。それについて、悔いがないと言えばきっと嘘になる。けれど、同時に私はそれでよかったと思ってもいた。それに、道玄坂は比較的に昔からの建物が多いエリアで、だから建設中のビルの姿は意識すれば見なくても済んだ。私にとって、それはとてもポジティブなことだった。

 銀座線のホームは四階にあり、東横線のホームは二階だった。だから私は、東横線の頭端の駅に止まる車両も、溢れかえる人の姿も毎日のように目にしていた。どんな時でも、どんな日でも、銀座線に乗る人の数より、東横線に乗る人の数の方がずっと多かった。そういう風景を見ていると、私は何だか社会の中で傍観者になってしまったみたいに思った。東京の山手から、横浜までに住む人たちが抱く物語が、私の人生よりずっと本流で、そして私は、それに抗えずに受動的に人生を塗りつぶされているように思った。渋谷も新宿も、再開発はどんどん進んでいた。浅草は古いままだ。

 私が東京という街について持っている憧れのようなものは――もしそんなものがまだあるとすればの話だけれど――、実際には浅草とその周辺によって構成されたものだ。初めて浅草を訪れた時、私は両親に連れられ、永遠に思えるくらいに長い時間電車に揺られていた。子供にとって時間はいつも長く、限りなく輝いている。私は伊勢崎線の柔らかい椅子の上に座り、窓を流れるコンクリートのマンション群をずっと見ていた。荒川を見た。それはとても雄大に思えたし、同時にその電車は、まるで人間の文化の一つの到達点のように思えた。今思えば、そんなものはなんてことのないものだ。私は毎日電車に乗っているし、変わらない風景は退屈ですらある。それに私が子供だった頃の伊勢崎線なんて、二十年近く使われていたお古だった。けれどその時の私にとってそんなことはどうでもよかったし、そして記憶の中の私がそう言う限り、私もその時のイメージをずっと抱き続けることができる。

 浅草も素晴らしい街だった。そこには何もかもがあった。少なくとも、両親をそこに惹きつけるだけの何かはあった。子供心に私はそれを感じていたし、そしてだからその場所について悪いイメージなど抱きようがなかった。沢山の人が集まり、そして満足を得て帰っていった。楽しかった。そこが浅草というだけで私には満足だった。私の周りで、沢山の人が浅草を話題にしていたし、時にはテレビもその場所を映したりした。私はその場所にいた。洗練されたその場所にいたのだ。百貨店の広く清潔な店内には、タイルが途切れることなく一面に張られていたし、街灯もとても綺麗なデザインでそこに立っていた。道行く人は、私の知らない初めての人ばかりで、エネルギーにあふれているように見えた。私はその時のイメージを鮮烈に抱き続けている。それは私が初めて都会を知った記憶で、私が初めて東京という街を本当に知った記憶だった。

 けれど今私が浅草に立っても、その時の記憶とは似ても似つかないものだらけだ。資本の投げられなくなった街は、建物も何もかもずっとそのままだった。ただ時が経っていくだけだ。百貨店に立つと、その場所は柱と設備の配置はそのままで、けれど少し年季を感じるタイルに、時代遅れのデザインに、私は本当に泣きそうになってしまうのだ。ここはもう浅草ではないのだと知ってしまうのだ。

 そして、私がそのことについて強い悲しさを覚えるのは、それが私だけの抱いている感情ではないことが明らかだからだ。両親も、エムも、ケイだってそれを感じているに違いなかった。ケイはそれを隠して生きている。私にはその意味も、その気持ちだって十二分に分かるつもりだ。けれどどんなに上手く隠したとしても、心の奥で外に出たいと壁を叩く小さいケイの存在は完璧には消せないし、そして私には、耳をすませばその息遣いを聞くことができてしまう。

 エムは千住にある商社で働いていた。エムもケイも私も、同じ大学の卒業生だ。私とエムは経済学部にいて、ケイは工学部にいた。でも結局、みんな同じような仕事をしている。簿記の資格を取ったエムと私が事務をしているのはある種当然として、ケイも東京支社で机にかじりつくような生活しかしていないのだ。それはケイの優秀さを考えればひどく不本意な扱いに違いなかった。けれど、彼は不満のようなものを表に出すことは決してなかったし、それどころか満足しているかのように見せていた。

 私たちは二十年前に生きているわけではない。それは私たちの世代――いわゆる『最後の世代』のことだ――が共通に持っている感覚でもあった。だから多少の気に入らないことがあっても、雇ってくれる場所に行かなければならないのは当然のことだったし、それに例えどんなに有名で、どんなに大きな会社であろうと、潰れる可能性は考えなければならなかった。そういう意味で、エムは割に冒険をしたと言ってもいい。彼女の就職した会社は、かなり有名ではあったけれど、私たち三人の中では傾く可能性が明らかに一番高かったからだ。

 なかなか潰しのきかないこの世の中で、あるいは傾くかもしれない会社に新卒で、しかも事務職で入ることは、誰から見てもかなりリスキーだ。だから私はある意味で逃げたし、ケイも敢えてそれを選ぶことはなかった。けれどエムはそれを選んだのだ。だから私はエムを尊敬しているし、そしてケイは彼女に会わないようにしていた。それは彼の罪悪感だったのだろう。エムも私もそのことは気付いていたし、そしてだからケイについて二人で話すことは極めて少なくなってしまった。

 千住は随分変わっていた。エムの会社は今のところ潰れてはいなかったが、何回か事業を切り離していた。長くなっていく会社名に彼女がどう思ったか、私には見当も付かない。けれどそこには本人にしかわからない痛みがあったはずで、エムはそれを抱えて生きていくことを決断し続けていた。千住ではビルが何回か壊され、何回か建てられていた。彼女はそれを最前線で見続けていたのだ。

 私は時々エムの会社の近くの喫茶店で彼女に会っていた。定期的というわけではなかったが、ときどき彼女の存在がひどく恋しくなるのだ。

 彼女にとって私という存在に何の意味があるのか、たまに怖くなる。彼女は私のことを裏切った人間だと感じてはいないだろうか。私といてつらい時はないのだろうか。私は間違っていないだろうか。けれど、彼女は私の連絡を毎回快諾してくれて、そしてその度に私は救われてしまう。会うことを許可したくらいで、彼女が私のことをどう思っているのかなんて全くわからないのに。問題は全く解決していないのに。でも、エムが浮かべる微笑みは私にとって天使のそれと同義だった。

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