第9話 ふたりを分かつ線
怜史とふたりで過ごす我が家は、相変わらずやさしく満ち足りたものだった。
「あーぁ、お鍋の底、ちょっと焦がしちゃったわね。ごめんね、下のほうあんま食べないほうがいいかも」
今日の夕飯は、怜史のリクエストでかぼちゃのホワイトシチューだ。
だったのだが、牛乳たっぷりのシチューは扱いが繊細で、ちょっとよそ見をしているうちに、底のほうが焦げ付いてしまった。
怜史はくすくすと笑った。
「かぐやも、お料理に失敗することがあるんだね。お鍋はボクが洗うよ」
「いいのよ。こんなときこそ重曹の出番!」
「じゅうそー?」
不思議そうに首をかしげる怜史に、輝夜は笑って「主婦の味方よ」とビニールパックに詰まった白い粉を取り出したのだった。
妹・奏のびっくり発言から一週間。
輝夜は、暇が出来ると考えるようになった。
つまり、怜史という少年のことを自分がどう思っているか、ということについてだ。
奏の発言は、輝夜に深刻な問題が存在することを知らせていた。
つまり、怜史を「彼氏」として紹介することは、家族にも誰にもできないのだ。
一度さりげなく怜史に訊いてみたのだが、彼の姿は、この家に住む人間にだけ、知覚できるものらしい。また彼自身は、この家から出ることは出来ないのだそうだ。
沸騰した湯の中で、重曹の泡がもこもこと立ち上るのを物珍しそうに眺めている怜史の髪に手を伸ばす。
しかし、輝夜の指先は何にも触れることなく、ただひんやりとした感触だけが残った。その冷たさは、輝夜の心の端っこを重たく濡らす。
「どうしたの、かぐや?」
「んー。怜史くんの髪、やわらかくて気持ちよさそうだから、触ってみたいなって」
輝夜がそう言うと、怜史は申し訳なさそうに「ごめんね」と笑った。
輝夜は首を横に振った。そんな表情をさせたかったわけじゃない。
ただ……。
(ただ、好きな人に触ってみたかっただけ)
その願いは叶わない。
おそらく、これからもずっと。
ぼんやりと頬杖をつきながら、輝夜は望まず終着点の見えてしまった恋路を眺めていた。
そう、自分が怜史のことをどう思っているか――解答は分かり切っている。いつの間にか、この奇妙で素直でかわいい同居人に恋してしまっていたのだ。
そして、この恋は実ることがない。
通常なら、年齢差とか、まだお互いのことを良く知らないのに、とか、常識的な悩みが入門編として待っていたはずなのだが、今回はそれらをすっ飛ばして、「生あるもの、死せるもの」という深い亀裂が傲然とふたりの間に境界線を刻んでいるのだ。
コンロの火を止めると、怜史がすぐに中身をシンクに流そうとしたので、やさしくストップする。
「このまま一晩放っておいたら、明日には汚れが浮き上がって、さっと洗い流すだけで済んじゃうのよ」
「へぇ! 重曹ってすごいや! お掃除にも使えるって、包装紙に書いてあるしね」
この笑顔がなにより得がたく貴重なものであることを、輝夜の感性はいくばくかの痛みを伴って知っているのだった。
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