第4話
持参金はすでに手をつけてしまった、と涙を流しながらの兄上の言葉に、さすがに声を張り上げそうになってしまった。そうしたあとで、幾度も頭の中からの言葉を飲み込んで、ついでに息を吸い込んで、ため息をついた。
「兄上、いつまでも床の上に座っていてはいけません。安物ではありますが、せめてそちらのソファに腰掛けてください」
「な、何も言わないのか……?」
「言いたいですよ。でもすでに、ランダンや義姉上に、しこたま説教を受けたあとでしょう。俺よりもあの二人の方が、よっぽどうまく言ったはずだ」
屋敷を訪ねて来たときから、いつも小さな兄上が、ことさらに小さく見えた謎が解けた。家族みんなの知恵を合わせれば、と言ったものの、すでに合わせてこの結果なのだろう。「……ランダンと、トルテから手紙を預かっている」 トルテ、とは兄上の妻である。兄上は恐る恐ると立ち上がりながら、懐から2通の手紙を出した。封をといて見てみると、想像通りの内容だ。
もともと俺宛に来ていた縁談をこちらが返答するわけにもいかないし、クグロフ兄上が、どうしても諦めきれない様子であるから、とりあえずそちらに向かわせるけれども、断ってくれても構わない。こちらのことは、こちらでどうにかしてみせる。心労をかけ申し訳ないと、二人共似たりよったりの内容だ。無理が透けて見えた。
「二人にも、諦めろと言われたよ。そうだ、馬鹿な話だ。でも、無理を承知で願いたい。どうだろう、お前もいい年だし、ここらで一つ収まってみないか? 結婚はいいぞ。俺は馬鹿だが、人を見る目だけはあるんだ。トルテの実家は俺たちよりもさらに貧乏で、まあ周囲にも止められたものだが、蓋を開けてみろ。あいつはいい女だし、俺の子どもはお前にとっても可愛い甥っ子達だろう? ところでまたしても男ばかりしか産まれないのは、フェナンシェット家には、もうそういった呪いか何かがあるのかな?」
それは知らないが、生まれ持った不運はあるのかもしれない。俺たち父を合わせた男たちは、バナナの皮でよく滑る。トルテ義姉上と、兄上のことは、そりゃあまあめでたく祝福させて頂いたが、それとこれとは話が別だ。と、言いたいところだが、甥っ子達の顔がちらついた。万一このまま借金が膨らみ膨らんで、お家取り潰し、なんてことになれば、家族は含め、領地の民達も路頭に迷う可能性もある。
「……ちなみに、兄上、持参金とはいくらほどの金額でしたか?」
ごにょっと耳元に囁かれた数字を聞いて、目頭を押さえた。俺の騎士としての給料の、だいたい10年分程はある。さすがに今すぐにどうにかなる金額ではない。「なんでまた、そんな額がすぐに消えてしまったんですか……?」 勝手に呆然として声が出ていた。
兄上はもじもじとして、「いや、投資先がな、今すぐに支払わねば、破産寸前なのだと」「だから、何故そんなありきたりな手法で……」 いや言うまい。兄も父も、つまりは人一倍のお人好しでもあるのだ。なんとかなる、そう思っていたはずが、気づけば財政は火の車。出もしない鉱山に一縷の希望を持ちながらも、とうとう破産寸前になっていたところに、カルトロールからの申し出があったのだろう。
頭の中で、可愛らしい甥っ子たちと、弟や、義姉の顔、そして領地の民の姿が去来していく。
「待ってください兄上。金の話はともかく、やはりこれはおかしな話ではありませんか。俺はエヴァ・カルトロール様と面識はありませんし、カルトロール伯爵が今更フェナンシェットと縁を結んだところで、なんの得もない」
「リオ、それはだな、エヴァ様も変わりもののご令嬢という噂なのだ」
そこは恐らく兄上も気に留めていたのだろう。ふむと顎に手をあてて、眉をひねった。
「かわりもの、ですか?」
「なんでも屋敷ではなく、離れに一人住んでいらっしゃって、毎日土を相手に喋りかけているんだと。このままでは嫁の貰い手もいないところだからな。うちはカルトロールの分家だ。適当に結婚させるにも言いくるめるにも丁度いい、と伯爵も思われたのではないだろうか」
確かに貴族の令嬢としては珍しいのかもしれない。とは言っても、俺もクワを振るったことがあるので、そこのところは何も言えない。まあこちらの家柄は伯爵などと立派なものではなく、子爵なのだが。
「つまり、これは相手も求めている縁談ということなんだ。まあ“芋令嬢”と呼び名も高い彼女だが、一緒に暮らしているうちに、気づけば愛も芽生え――――」
「“芋令嬢”?」
「ああ、貴族の間でも、いつのまにかそんなあだ名がついているらしい。誰が言い出したのかしらないが」
「兄上はエヴァ様とお会いになったことはあるのですか?」
「いいや、もちろんない」
「なのに見ず知らずのご令嬢を、そのような名で呼ぶのですか!」
いや、会った会わないの話ではない。あまりにも失礼だ。思わずカッと拳を握ると、ヒャッと彼は震え上がった。気づけば外では土砂降りの雨が降り始めている。庭とオンボロな屋根の様子が心配だ。「……すまない、たしかにそうだ。調子に乗っていた」「い、いえ。考えてみれば、俺も彼女にはお会いしたことがないわけですから」 もしかすると、本人は喜んでいる可能性だってあるかもしれない。こんなところで言い争うには不毛な話だ。
話を戻そう、と咳払いをした。なんにせよ、断ることすら難しいと気づいてしまった。はあ、と重たいため息を、何度落としていたのだろう。気まずい沈黙だった。彼女と籍を入れたところで、まともな出迎えさえもできない。問題は山積みだ。
そんなふうに頭をひっかいてきとき、「それならば」と兄が一つ提案した。さすがの自身もいくつか考えを持ってきたんだ。なに、これならきっとうまくいく。俺はこういった勘はひどくよく当たるんだ――――
すっかり金を騙し取られた男が、何を言っているんだと思いつつも、山のような書類に一つ一つ自身の名を記入していくうちに、すっかり頭は冷え込んでしまっていた。ちなみに兄上はどうかよろしく頼むと深々と頭を下げ、静かに姿を消した。と思ったら、傘を貸してくれと戻ってきて、しばらく経つと馬車の金が足りなかったと悲しげな声を出してドアベルを鳴らした。あまりにも不憫だった。
作戦はたてた。綿密に、と言うほどには時間もなく、ただあるのは気合のみだ。甥っ子達の顔を思い出せば、きっとなんとかなる。やってみせる。
すでに婚姻は完了した。出迎えをする金もなく、場所もない。もともとないものづくしであるのなら、一つ、兄上の策に乗るしかない。様々な気持ちが入り混じった。本当にいいのかと。
眠ることもできず、そわそわと窓から外を見下ろした。幾度か通り過ぎる馬車にホッと息をついたとき、とうとう屋敷の前に一つの馬車が止まってしまった。こちらからは令嬢の顔を見ることはできない。けれども深い緑の髪がちらりと帽子の隙間から覗いている。慌てて炎色石を叩いて、鍋を温めた。今日はとくに冷え込んでいる。お前のせいだぞ、と思わず石を握りしめたが、八つ当たりしても仕方がない。
本当に、いいんだろうか。
もう少しでベルがなる。彼女の動きに連動して、屋敷中の鐘がちりちりと訪問客の存在を示した。むっと眉間に皺を寄せた。こんなものだろうか。いや違う。口元をひっぱって。こうか。こうだ。なんて情けない。
――――すでに自身の妻である彼女に、嫌われる努力をしなければいけないだなんて
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