1 あたし、もしくはあのさえない男について


 自慢じゃないけれどあたしは問題児だ。それは自覚しているし反省もしない。むしろ誇りにさえ思っている。人と違うことを貫き通すことができる信念がある。

 父は早々にあたしの結婚を諦め、兄は生涯あたしを養えるようにと将来に向けた準備までする始末だ。けれどもどうでもいい。

 ぺたぺたと壁にペンキを塗りながら兄の説教を聞き流す。

「アンジー、明日は客人が来ると言っているだろう。この廊下をペンキで塗られてしまっては応接間に客人を通せないじゃないか。酷い臭いだ。あ、そこ! 換気して」

 説教しながら換気の指示までするほど、兄はこの状況に慣れている。

 ユージーンは少し女性的に見えてしまう外観だけれども、かなりしっかりとしていて、少し小言は多いけれど優しい。優良物件だ。きっと彼には素敵な奥さんがもらえると思っているのだけれど、どうも妹のあたしが同居というのがかなり大きなマイナスポイントになるらしく、二十四にして独身だ。そろそろ嫁が欲しいところだろう。

 普通ならば壁をペンキで塗りたくっていることにまず怒るべきはずなのに、兄も父もすでにそれに関しては諦めている。なにせ今塗っているこれも、古い作品の上に新しい作品を描いているのだ。

「まぁ、お客様に新作を見て頂けるなんて嬉しいわ」

「いや、確かにアンジーの絵は王都でも評価が高い……ってそれとこれとは話が別だ。ペンキの臭いは苦手な人も多いんだぞ」

 やはり注意する点がずれている。

「こないだの絵、高く売れたそうじゃないですか。あたしの絵を求めて下さっている方は多いと思いますの」

 人の話を聞かない。よく言われるけれど、芸術家というのは多少ずれている方がそれっぽい。

「なんだ。アンジー、また新作か?」

 聞き覚えのある声が響く。余所の屋敷だというのに、ごく当たり前にずかずかと何処でも歩き回る図々しい男はチャド。兄の友人らしい。数ヶ月前から頻繁に来るようになった。

「そう。あたしのもっと全身からあふれ出す自由を表現したいと思って」

「前のもよかったけど。抑圧された苦しみだったっけ?」

「そうそう。でも、そういうテーマって暗いじゃない? っもっと喜びあふれた物の方が伯爵家の廊下に相応しいと思って」

 そう。廊下の壁に絵を描いているのだ。幸いなことにあたしはとても便利な魔力を持って生まれた。梯子がなくても天井に絵を描ける。つまり空中に浮く魔力だ。正直浮く以外のことは殆どできない。浮いて、ものすごくゆっくり、歩いた方が若干速いかもしれないくらいの速度でしか移動はできない。それでも高いところの物を取ったり、梯子を使わず天井に絵を描いたりできるのだから便利な魔力だ。

「普通伯爵家の壁にこんな前衛的な絵は描かれていないよ」

 とうとうユージーンは頭を抱えた。こんな仕種でさえ様になってしまうのだから美形というのは得だななどとしょうもないことを考えてしまう。

「来るのがチャドなら絵を描いていてもなにも問題ないわね」

 刷毛をペンキに浸す。

「いや、明日来るのは俺の友人。ちょっと繊細なやつだからペンキはどうだろうな……いや、アンジーの作品なら見たいって言うかな?」

 チャドは少し考え込む。

「そのお友達はあたしのファンなの?」

「うん。そう。君の大ファン。君が好きすぎて本人を前にすると頭が真っ白になってなにも言えなくなってしまうんだ」

 チャドは笑いながらそういう。一体どんな人なんだろう。

「あたしに会いたくないなら、明日は部屋で大人しく絵を描いているわ」

「頼むからぜひそうしてくれ」

 ユージーンに言われてしまう。彼は変人の妹を恥じて、はいないようではあるがもう少しくらい常識ふつうを身につけて欲しいと考えている。けれどもあたしだって二割くらいは常識ふつうが残っている。だからこそそれを捨て去ろうとしているのだ。

「でも彼はちらりとでも君の姿を見たいはずだな」

 チャドが口を挟めば、ユージーンは黙っていろと言いたげに彼を睨んだ。

「話をしないのに見たいの? おかしな人」

 あたしにおかしいなんて言われるのはきっと屈辱に違いないわ。

「アンジーがぷかぷか浮きながら色鉛筆画でも描いているところを偶然通りかかって目撃する分には彼にとってはなにも問題ないよ」

「あたしにぷかぷか浮きながら色鉛筆画を描けって言うの? 色鉛筆をうっかり落としちゃったら当たった人が痛いと思うけど」

「ならクレヨンにしようか」

 あまり差は無いような気もする。とりあえずチャドはあたしが浮きながら絵を描くべきだと思っているらしい。

「でも、チャド、あなた大事なことを忘れているわ。あたしがいつどこでどんな姿勢でなにを使ってなにを描くかはあたしの自由なのよ? あなたにはそれを束縛する権利はないわ」

「おっと、それは失礼。けど、俺の友人は本当に君のファンなんだ。ちょっとしたファンサービスを頼むよ。そうだ。ファンサービスしてくれるなら、アンジーがこの前すごく気に入ったって言ってた画帳、取り寄せるからさ」

 どうやら物で釣る作戦に出たらしい。チャドがどこかに出かけた際に買ってきた画帳はとても書き心地が良い紙だった。それを考えるとちょっとくらいのファンサービスをしてあげてもいいかもしれない。

「仕方ないなー。ちょっと空中に寝そべって落書きしててあげる」

 実際魔力を使えば自分と画材くらいなら浮かせて居られる。ただ。本当に浮かせることしかできない能力だから他に使い道は無い。階段を上るのがめんどくさいときに便利なくらいだ。あとは木登りに失敗しても墜落せずに済む。便利な力よ。

 あたし、アンジェリーナ・ハニーはハニー伯爵家の長女。上に兄のユージーンがいるだけで、きょうだいはそれっきり。と言うのも、あたしがものすごく問題児だから両親が下を作るのを諦めたのね。

 あたしはとても問題児クリエイティブ。生まれつき。そりゃあそうよ。なにせ前世の記憶持ちだもの。

 あたしの前世は親の言いなり、妹の言いなり、嫁の言いなりの抑圧されすぎたさえない男。画家になりたかったのに、親の望む安定りそうで公務員になった。結婚さえ祖母が決めた相手としたつまらない男だった。趣味は絵を描くこと。それと、ハイヒールで歩くこと。嫁にばれて変態呼ばわりされていた。意外と良い運動になるのに。

 別に女装趣味があったわけじゃないし、同性愛者でもなかった。絵を描くのが好きで、少し変身願望はあったかもしれない。

 ある日なんとなく、自分の顔に絵を描いたら、それがとんでもない美女に見えた。そしてそのままハイヒールを履いて出かけてしまった。それ以外は大した問題も起こさない平凡なつまらない男だったと思う。

 けれどもきっとそれが良くなかった。いや、幸運だったのかもしれない。とにかくその男はハイヒールを履いたままうっかりくたばったせいで、今、あたしになっている。

 前世の記憶があるからだろう。あたしは生まれつき、好き勝手に生きると決意していた。もう誰からの指図も受けたくないし、自分の好きな物をはっきり好きといえる人生を歩もうと決めた。

 絵を描くのが好きだ。クレヨンを与えられた頃には屋敷中に絵を描いては両親や使用人を困らせた。裁縫を覚えるのも早く、自分の服は自分で作りたいと思った頃にはカーテンを切り刻んで服を作ったり、シーツやブランケットを切り刻んだりして両親を呆れさせた。

 何度言っても言うことを聞かないあたしにとうとう親の方が折れ、ミシンと生地を与えてくれるようになった。

 それから長い戦いがあって今のあたしがいる。

 父は好きなだけ画材を与えてくれる。その代わりきちんと勉強はすることと、定期的に展示会に出展することを条件付けられた。勿論その程度は呑む。自由のためには必要なことだ。

 夜会には参加する。けれども、身につける物は全てあたしの気に入った物でなくては嫌だと宣言している。最初のうちはお上品なドレスを着せようとした母も、目の前で鋏を入れ切り刻んだ時、この子にはなにを言っても無駄だと悟ってくれたようだ。

 あたしは問題児だけれども、ただ尖っているだけの問題児じゃない。とってもクリエイティブな問題児アーティストだ。

 夜会で他の令嬢のドレスが気に入らなくて塗料を掛けたときは父も真っ青になって平謝りしていたけれど、あたしに言わせればマシになったというべきだろう。彼女の父親があたしの絵のファンだったから、新作を一枚描くことでドレスは弁償しなくていいことになった。幸いね。あんなダサいドレスをもう一着作らされる職人が可哀想だもの。

 問題児を自覚しているあたしは、それでも兄に迷惑を掛けながらぷかぷか浮いて絵を描いている。あたしの結婚に関しては家族も親戚もだいぶ前から諦めてくれているから、きっとこれからもずっと同じようにユージーンの頭痛の種として生きていくことになると思う。

 年頃になればきっと落ち着く。

 そう信じていた両親はもう悟りきった様子だ。

「アンジー、頼むからしばらく廊下に新作を描くのは止めておくれ。ペンキの臭いで頭痛がするんだ」

 父は大袈裟に頭を抱える。

「だめよ。お父様。ちゃんとマスクをしないと」

「いや、お前が家の中でペンキを使わなければ問題ない」

 父は恨めしそうにあたしを見る。

「お客様が来るならきっちり仕上げておきたいのだけど」

「客人は繊細なお方だ。ペンキの臭いで体調を崩されては困る」

 また、繊細なお方。それでいてあたしのファン。一体どんな人なんだろう。

 父に無意味な小言を二、三もらいながら、客人のことを考えた。




 ぷかぷかと浮きながら、意味もなく水彩画に勤しむ。たまには風景画もいいなと、遙か彼方の砂漠に思いを馳せ、砂漠と駱駝を描くことにした。

 かなり熱中していたと思う。

 こん、っとなにかに足がぶつかった。

「ア、ア、アンジー! お前はなにをしているんだ!」

 ユージーンが真っ青になっている。

「あら、ユージーン。今日は大人しく水彩画を描くことにしたの。ペンキは頭痛の原因になるって昨日お父様が」

「部屋で大人しく絵を描いていろと言っただろう。お前、なんてことを……」

「お部屋で絵を描いていたらいつの間にか流されて来ちゃったのね」

 流されてというか、ゆらゆらしながら絵を描いていたらいつの間にかこんな場所、つまり応接間に続く廊下に出てしまったようだ。

 兄は真っ青な顔であたしがぶつかったなにかを見る。

「……いや、気にするな」

 どうやら人にぶつかったらしい。背の高い彼は額を押さえて蹲っている。

「……もしかして、あたしの足がクリティカルしちゃった?」

「……速度がなかったからいいものの、お前、客人になんてことを」

「ごめんなさい。つい、夢中になってしまって。お詫びに出来たての風景画を差し上げるわ」

 出来上がったばかりの絵を蹲っている人物に差し出せば、チャドがそれを受け取る。

「よかったな。ジル。お前アンジーの絵好きだもんな……って、なんで家の中で駱駝描いてんの?」

 チャドは蹲った【ジル】を励ましながら絵を見て呆れた様子を見せた。

「特に意味は無いけど、たまには風景画を描こうと思って」

「へ、へぇ……」

 肝心のジルはまだ額をさすっている。かなり痛かったようだ。申し訳ない。

「大丈夫か?」

 チャドがジルに近づく。

「ああ……問題ない。ああ……大丈夫だ……少し、落ち着けば……いつも通りの私だ……」

「……ちょっと外の空気吸ってくるか。こんなんじゃ伯爵とまともに会話できないだろ」

「ああ」

「ついでになにか冷やす物を……ジーン、悪いけどなんかメイドに用意してもらって」

 チャドはとても慣れた様子でジルに肩を貸している。彼は頻繁に蹲ったりしてしまうのだろうか。しかも兄にまで命令している。

「その人、大丈夫? そんなに思いっきり足が当たってしまったの?」

 確かに、底の硬い靴を履いてはいたけれど、つま先がちょんっとぶつかった程度では無いだろうか。現にあたしの足はそんなに痛みを感じていない。

「急所だからねー」

 チャドは笑う。

「お医者を呼んだ方がいい?」

「大丈夫。ちょっと頭を冷やせば落ち着くから」

 チャドは笑って【ジル】をどこかへ連れて行ってしまった。

 結局彼のお顔は見られなかったけれど、叱られなかったということはとりあえず蹴ってしまった件はあの水彩画で許されたようだ。





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