第3話
7
幽香は、自分の奥底にある考えに直面するのが恐くて、その恐怖から自分を守るために成美に反撃に出たのだろう。
病気が治れば働くように言われる。家族や友達からの同情もなくなる。病気のままでいる方が楽なのである。それに気づかせるのは大切だが、急ぎすぎてもいけない。
成美は野神のスーパービジョンを受けて自分の気持ちを整理した。
アザのことよりも、今まで築いてきた関係を一気に破壊されたことが辛かった。アザなどたいしたことではない。学生時代にも社会に出てからも、何度か言われている。気にしていない。成美はそう自分に言い聞かせた。
ただ破壊から生まれる関係もある。今まで以上によい治療関係を結ぶためには避けて通れないことだったと思いたい。
西日の差す医局の机で、成美はカウンセリングノートをつけていた。自分と患者の発言内容、推測される患者の心の動き等をここに記録しておくのだ。自分を客観的に見るためにも必要な作業だった。
「もっと慎重になっても良かったですね」と野神先生に言われたけれど、それは自分でもわかっていた。なぜ、私は、なぜ急いでいたのだろう……。
もういい加減にして先に進もうよ。そんな、苛立ちに似た感情があった。じれったい。そう思った。いつもの私らしくなかった。
西の空に暮れていく太陽が成美の顔を赤く染めていた。成美が首筋に白い手をそっと当てたとき、先崎医師が粗雑な足取りで医局に入ってきた。椅子は、怒りで熱くなった彼の体を受けとめると同時に、軋んだ音を立てた。
「古城というのは、どうしようもないな」
先崎は成美に悪態をついた。
「あなたの後輩だろ。ちゃんと指導しなさい」
こんな気持ちのときに先崎の怒りと鉢合わせるなんて、ついていない。
「山田優作さんのことでしょうか」
「そうだ。あいつのせいで治療がめちゃくちゃだ」
古城語楼が医局に入ってきた。会議用テーブルの横を通り過ぎ、先崎のところまで歩いて来る。
「先生、話の途中でいなくならないでください」
「君が支離滅裂なことを言うからだ」
医師は威圧的な牙をむいた。
「僕は感情でものを言っているわけではありません。自分の知識と経験に基づいて言っています」
「その知識と経験が薄っぺらなんだよ。現場に出て何年だ。3年か? 4年か? それで何がわかる。精神医学の基礎を知ってから意見しろというんだ」
「確かに僕は先生より臨床経験は浅いですが、自分が正しいと思う治療をやっていきたいんです。だから先生の意見に無条件に従うことはできません」
古城から人生を賭けた必死さが伝わってくる。
「はっ、君が言っていることはさっぱりわからん。まだ学生気分か。いいか、誰であろうと主治医の指示に従え。それが原則だ。医師は指示を出す代わりに全責任を持つんだ。こんな基本を俺に言わせるな」
「最終的には従いますがその前に意見を交換しあうことが大事……」
「黙れっ」
先崎医師は椅子から立ち上がり、古城の顔を鋭く見上げた。「もう出て行けっ、あの患者には二度と近づくな!」
古城は黙っていたが、やがて小さく頭を下げて医局を出て行った。
先崎は荒い息をして椅子にかける。
成美はなんだか申し訳なく、畏れ多い気持ちだった。
その一方で、古城の姿は勇敢で、勇猛で、一陣の涼風だった。美しい星が降り注ぐような予感がした。
帰り際、職員玄関で偶然古城に会った。夏の蒸し暑い夜を2人で歩いた。
「僕は、山田さんは精神分裂病じゃないと思います」
古城は心なしか控えめに言った。
成美は思わず吹き出した。
「偉そうですか」
「ううん、ごめんなさい。古城さんは、それでいいと思います」
夜道を車が走り過ぎて、テールランプが住宅街に消えた。
「精神科医だって万能じゃないでしょう。いつも正しい診断ができるとは限らない」
それは常識から言ってそうだ。
それに、平和病院は一日の外来患者数が多いから、一人当たりの診察時間も制限されてしまう。短時間で初診の患者に診断名をつけると正確さが犠牲になる。
「古城先生の診断ではどうですか」
茶化しているのではなく、信頼の意味をこめて「先生」と言った。
「病気じゃないです」
「はい?」
「僕の見立てでは、あれは全部演技ですね」
「どうして演技だと思うんですか」
「それは、あとで言います」
「えー、今教えてください」
古城は答える代わりに、「僕の考えが常識からはずれてるのはわかっています。でも譲れないんです」と言った。
成美は彼に寄り添って、支えたいと思った。
青い果実のような生命が胸の奥で鼓動していた。
「ね、古城さん」
成美は足を止めた。靴の裏と道路のこすれ合う音が消える。
肌を包む暑さが気持ちにまで及んでくる。
「わたし……」
古城がこちらを見ている。
成美は夜が好きだった。醜いアザをなくしてくれる夜が。
だがそれ以上に、古城のことが好きだった。アザをどのように思われてもいい。
見つめ合う時間を止めたのは古城だった。
「学会が終わったら、いろいろ話しましょう」
恋する女の肌が汗で湿っている。成美の熱帯夜はしばらく続きそうだった。
8
山田優作は保護室に入って10日後に4人部屋の病室へ移った。投薬の効果が顕著に表われ、言動が穏やかになり、妄想もかなり軽減したからだ。それは山田の計算通りだった。入院さえすればいつまでも保護室にいる必要はない。あとは少しずつ大人しくなっていけばいい。
朝6時に起床し、それからラジオ体操、朝食、検温、学習会、昼食、作業療法、自由時間、夕食を経て、夜10時に就寝する。このスケジュールに山田は組みこまれることになった。次第に仲間ができ、手工芸や絵画などの作業療法もそれなりに楽しく思えてきた。
閉鎖病棟には実に多様な病気が群生していた。分裂病、抑うつ病、神経症、摂食障害、精神分裂病、アルコール依存症……。俺は精神分裂病という病名を得てここにいる。
演技がばれるわけにはいかない。
彼には姉が結婚してしまうことが一番恐かった。小さなことで不安がる俺を姉ちゃんはいつも支えてくれた。失いたくなかった。だからわざわざ精神を病んだ人を演じたのだ。病気の弟がいると分かれば、彼氏も結婚する気をなくすだろう。お見舞いに来てくれた姉はとても優しかった。彼氏のことは恐くて聞けなかったが、俺がこんな状態でいる限り結婚の話は止まっているはずだ。
しかし、浅はかだったろうか、という思いもある。
本当のことはまだ誰にも話していないが、古城先生には話してしまうかもしれない。不安と期待が混ざりあう。
保護室を出た日、古城が病室を訪れてきた。
「出られてよかったですね」
山田は古城の笑みを見て、心がゆるんだ。
室内には他の患者がいたので、デイルームへと移動した。山田は姉と仲がいいことを話した。姉が彼氏と結婚の話をしていることも。
古城はタイミングを掴み、「演技だったんじゃないですか? はじめから」と屈託のない笑顔で言った。そこまではっきり指摘されたら逃げ場もなく、山田は開き直って「はい」と言った。
「どうしてわかりました?」
「僕は山田さんの全体を見ていますから。雰囲気も声も、言葉の裏も」
決め手は優作という名前だが、それは言わないでおく。
「演技のこと、秘密にしておいてくださいね。それから入院中は先崎先生の言うことを素直に聞いておいて。それで退院できますから」
「退院したら、姉は結婚するでしょうね」
「では、このままずっと病院にいますか」
「……」
「彼氏が偏見を持たないちゃんとした人なら、山田さんが病気でも結婚します。そうじゃないなら姉さんから離れるかもしれない。それは山田さんがコントロールできないことです。コントロールできないのに、勝手に病気を演じるのは無意味でしょう。カルテを見ましたが、山田さんは高校生のとき演劇部でしたね」
「はい」
「演技力を生かしたくて、今回の精神異常者の演技をしたのではないですか」
山田は無言で肯定した。
「入院している間は行動がいろいろと制限されます。本当にこのままでいいんですか。薬の副作用もあるでしょ」
「はい、喉が渇いて」
看護士は朝、昼、夕と患者に薬を確実に飲ませる。本来必要のない薬は毒なのだ。
「不利益を感じていますね。それでもまだ演技を続けますか」
古城は論理療法の技法で山田に迫り、不合理な思考を排除するよう暗黙裡に促した。
学会の抄録の提出期限が迫っていた。
古城は現時点までの山田優作の治療経過を書いた。タイトルは「精神分裂病の青年に作業療法が奏功した事例」とし、作業療法を通して患者の健康的な部分が活性化し、現実感の獲得や協調性の向上を図ることができたと結論づけた。研究者名には古城の他に臨床心理課長の野神、主治医の先崎、そして院長の大杉を挙げた。
野神は手渡されたその抄録を読み、意外に思った。古城のことだから独特な考えを展開してくると予想していたが、本文は心理学や精神医学の理論に沿ったもので、十分に論理性、客観性、科学性があった。
先崎は「まあいいだろう」と素っ気なく批評した。
院長は「先崎先生と感情的に議論したようですが、古城君の考えはこの抄録に反映されていますか」と言った。
「はい」
「臨床心理士として、本当に納得のいく抄録ですか」
一人の精神科医が剣の切っ先を突きつけて古城に訊く。
「納得いく内容です」
古城は一礼して、医局を去った。
抄録を学会の事務局に郵送し、あとは発表の日を待つだけとなった。
一部の職員の間で、古城について囁かれていた。
「なんか古城君って大人しくなっちゃったね」
「威勢がいいのは最初だけか」
「自分の立場に気がついたのよ。ただの心理士のくせに」
「気づいてもまだ強気だったらかっこいいのに」
「それを身の程知らずというのよ」
確かに古城は入職当初と比べて大人しくなった。患者の主治医と議論することもなくなり、言われたことに素直に従っていた。ただし、カウンセリングのときや、病室を訪れて患者と交流するとき、言葉を最大限に生かして相手と関わる方針は貫徹していた。
「なるちゃん、ちょっと来て」
ある日、響子が成美を病院の屋上へ連れ出した。ここでタバコを吸う職員が時折いるが、今は誰もいなかった。
「朝日野探偵がね、古城君のことで情報を掴んだの」
「ああ、そのこと」
成美は気おくれした。
「なにそれ。知りたくないの?」
「そういうわけじゃないけど」
最初は知りたかった。でも今は違う。今は心理士として真剣に生きる彼のことを話のタネに貶めたくなかった。
屋上の空は水色で、切なさと優しさが流れている。
「いいから聞いて。教えてあげるから」
響子はしゃべりたくて仕方がないようだ。
彼女の話によると、古城は高校時代、強迫神経症にかかっていたらしい。それで朝霞大学附属病院を訪れ、医師から薬を処方してもらい、さらに心理士から心理療法を受けた。それが池森だったというのだ。古城は神経症を直し、池森への信望から朝霞大学に進学した。池森も彼を愛弟子とした。
「二人の関係は大学に入る前から始まってたわけよ。へえ~、なるほどねえ」
響子は一人で言って一人で納得している。
古城が神経症だったことに、成美は妙な安堵感を覚えた。
「でね、古城君がどうして朝霞大学病院からこっちに移って来たかって言うと」
成美は聞いてはいけないと思いつつも、知りたい欲望を隠せない。
「まず古城君の師匠の話から始めないといけなくて。院長と池森先生、大学だけじゃなくて高校も同じだったの。どっちも成績優秀なんだけど、池森先生が勝手に院長をライバル視してて。院長は親が病院やってるから当然医学部を受験する。札幌でいちばんいい大学ね。池森先生はそこで対抗心を燃やして、同大学の心理学部に行ったの」
成美はプッと笑ってしまった。まるで子供の発想ではないか。今は権威のある大学教授でも、若い時はあったということだ。
「池森先生は要するに心理士が精神科医に勝ることを証明したいわけよ。個人的なライバル心からね。どうやって証明するか。普通じゃ勝てない。医師は権力あるけど、心理士は全然ないし、当時は臨床心理士の資格すらなかったんだから」
「それで古城さんを……」
「そう。愛弟子の古城君を一流の心理士に育てて、平和病院に送りこむことを考えた。もっと前からそういう考えはあったと思うけど、なかなか逸材が来なかったんじゃないかな。やっと古城君が来て、計画が実行されたというわけ」
成美は面接で応接室に入るときの院長の姿を思い出した。
「ただ、院長はその申し出を断ることもできたはずだよね」
「そこは受けるんじゃない? 長年のライバルだから」
「長年って、それは池森先生の勝手なライバル視でしょう。あえて受けてあげたということ?」
「そうよ。院長先生優しいなあ」
響子は感慨深げに言った。
もちろん院長は、それだけで古城さんを採用したわけではないだろう。学歴、資格、臨床経験、そして面接での応答を評価して採用したはずだ。
実際、古城さんは優秀だと思う。言葉への偏重があるけれど、例えばあの抄録だって、理論的にまとめられていた。成美はその一方で、かなりの妥協と譲歩をして常識に合わせてこれを書いたのだなと、胸が切なくなったものだ。
「ありがとね。いろいろ教えてくれて」
成美は満足感とともに言った。
「さて、冷菓屋にいつ行く? バニラとレモンアイス大盛り食べたいなあ」
響子はちゃっかりしている。
「先生、この前はごめんなさい」
立花幽香は成美が外来に姿を現すなり謝ってきた。あの件があってから、幽香は二週間病院に来ていなかった。
「自分のこと、もっと踏みこんで考えてみようと……。そのきっかけができたかなって、思いました」
臨床心理室で幽香は気持ちを語った。
成美はそれを微笑の中でとらえようとする。劣等感を刺激された痛みがまだ残っていることに、自分の未熟さを感じながら。
9
K大学にて、11月最後の金曜日から3日間に渡り、日本精神医療学会が開催された。
古城と成美と院長は飛行機でK市へ飛んだ。
成美は学会に関係ないのだが「勉強したいので、参加させて下さい」と院長にお願いし、許可を得たのだった。
関東地方のK市は城下町として知られ、古びた商店や裏通りの土塀が風情を漂わせる。その一方、都心部にオフィスビルが建ち並び、美術館や博物館などの文化施設も充実している。
昼過ぎに飛行機が着陸し、空港を出ると空気があたたかい。札幌から出たことを肌で実感する。タクシーで予約していたホテルに向かい荷物を下ろすと、徒歩数分のところにあるK大学へ入った。初日はグランドホールにて、精神医療界で著名な大学教授が「海外における内観療法の普及」というテーマで招待講演を行った。そのほか会長講演、特別講演があり、成美にとって勉強になることばかりだった。
そのあと各教室で発表があり、成美は1人でロールシャッハテストに関する研究を聞きに行った。発表時間は一人十五分で、そのあと質疑応答がある。専門的な質問が出たとき、成美はその意味がつかめず眉をひそめたが、発表者がすぐに答えたのを見て、ああ、自分はまだまだだと思うのだった。
会場ではこのあと、一本の木を描くバウムテスト、家・木・人を描くS-HTPなど投影法テストの研究発表があり、成美を刺激した。
休憩時間となりトイレに向かった。その途中で、古城が中年男性と話をしているのを見た。小柄で少し背が曲がった男だ。白髪頭で七三分け、眼鏡をかけている。
あれ、池森教授だ。
成美は思った。
彼の著作で顔写真を見たことがある。
古城は見たこともない顔をしていた。緊張もあり、敬意もあり、野心も感じられる顔だ。ただの挨拶や近況報告ではなさそうだ。古城の発表は明日の午前十一時半を予定しているが、その打ち合わせだろうか。
二人は廊下を歩き、人込みの中へ消えていった。
ホテルの八階に成美らの部屋があった。
夜は成美、古城、院長の三人で食事を終えたあと、自由となった。成美は古城と話がしたかったが、明日の発表の準備があるだろうと思い、大人しく部屋で過ごした。
翌朝、成美と古城はK大学へ向かった。院長はホテルのロビーで人と会うらしく別行動となったが、古城に「病院の代表者としてしっかりお願いします」と激励した。
「はい」
古城はいつもと変わらぬ様子で答えた。
「昨日はよく眠れましたか」
道を歩きながら成美は聞いた。
「ええ、まあまあですね。一つ気がかりなことがあって」
「発表のことですか」
「部屋が八階だったでしょう」
「はい。それが?」
「八というのが、象徴的だなあと思って」
「8という数字に何か意味がありますか」
「数字じゃなくて、漢数字の八ですが」
「どっちでもいいじゃないですか」成美は噴き出した。
「いえ、関係あるんです。八は、二つに分かれているものの形から作られて、そこから『別れる』という意味が生まれました」
成美は不安になった。
わたしたち、別れるの?
その後で、まだつき合っていないことに気がついた。恋の幻想。
「何と別れるんですか」
「何でもありません」
古城は微笑したが、内心ではまだ悩んでいた。院長先生と別れるか、それとも池森先生および自分の信念と別れるか。
答えなど見えている。僕は心理士として池森先生を信望しているのだ。ただ雇ってくれた院長先生に迷惑をかけたくはなかった。学会という公的な場で、病院の評判を落とすことはしたくなかった。
「古城さん、あの、何でも話して……。私でよければ」
成美が男の横顔を見て、たまりかねて言った。
「いいんです。これは自分の問題だから」
と古城はそっけない。
成美は切ない気持ちになった。
会場となる講義室は細長く、百人ほどの収容能力があった。中央にスライドやビデオプロジェクターを映し出すスクリーンがあり、向かって左側に演台が、右側に座長の机が設置されていた。成美と古城は前のほうに座った。
発表者は精神科医と臨床心理士がほとんどだった。病院では目立たない心理士が学会では活躍する。発表は時間通りに進み、十一時半が近づいてきた。前の発表者が演台から降りた。
「がんばってね」と成美が言った。古城は微笑で応えた。
拍手の中で演台に立ち、マイクの高さを調節する。いつも通りの落ちついた仕草は、心の決意を表わしていた。
成美が院長の姿を探すと、講義室の後方の通路側の席にいた。池森先生は窓側にいた。二人ともさきほどこの会場に来たようだ。
「それではひき続きまして、平和病院……」
座長が古城を紹介した。
ついに、はじまった。
「まず初めに、治療者というものは自分の育った環境の影響から逃れることはできません。治療者の治療方針や理念や信念は、自分の体験を土台にして作ったものであり、その意味で主観的です。フロイトやコフートといった研究者によって、無数とも言える理論が提唱されていますが、どの理論を自分の治療活動に取りこむか、ということについても、やはり主観が働いています。ですから、患者1人に対する精神疾患の原因や治療経過の考察は、治療者の数だけ成り立つと言っても過言ではありません」
古城はフロア全体に語りかけていた。
「さて、演題は『精神分裂病の青年に作業療法が奏功した事例』です。薬物療法を基本として作業療法を実施し、現実検討力の回復と仲間作りが促進された、というものです。これは一般的な精神医療の視点から考察したものです。しかし、これとは別の考えも成立するわけです。今から発表するのは、私の個人的な治療観に基づいた考察です」
古城は抄録とは別の立場から症例を検討しようとしている。この前代未聞のことに会場がざわついている。成美は今ごろ古城の迷いがわかり、不安と悔しさと、応援したい気持ちが交錯する。
古城語楼は多数の聴衆の中から院長の眼光を感じた。それを受けながら、山田優作の生活歴について説明していく。
「Yさんは、青年は幼少の頃から心配性でしたが、姉に支えられていました。姉に恋人ができ、結婚の話が出たとき、Yさんは精神疾患を演じました。弟が病者であると知れば恋人も結婚する気をなくすだろうと考えたのです。このことは治療の後半に明らかになりました。しかし私は初めから演技という仮説を立てていました。医師は精神分裂病と診断しましたが、私はそういう病気の雰囲気は感じなかったし、彼は高校時代、優秀な演劇部員でした。そして、なによりも彼の名前です。本人の承諾を得ているので、公表しますが、症例の名前は優作と言います。スライド、お願いします」
照明が落とされ、スクリーンに文字が映し出された。
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「優」……「憂」は面をつけて舞う状態を文字にしたもの。それに「人」が付き、「俳優」や「名優」、「老優」などの言葉が作られた。「優しい」の他に「演じる」という意味がある。
「作」……「乍」は木の小枝を刃物で切り除く形にかたどり、そこから「作る」の意味を表わす。人によって行われるので「人」が付いた。「成し遂げる」、「変化する」、「奮い立つ」の他に「偽る」の意味がある。作病の作はそこから来ている。
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「このスライドは漢和辞典を参考にしました。優と作には、ご覧の通り『演じる』や『偽る』の意味があります。同時に『優しい』や『成し遂げる』などの意味もあります。これらの意味が全て含まれて優作という名前が成立しているわけです。そして、それぞれの意味はそれぞれの性格を作ります。ある環境下では優しさが出て、ある環境下では偽るという行動が出ることになります。さて心の支えの姉がいなくなることは強い不安を引き起こし、その不安を解消する手段として、パーソナリティに組み込まれていた『演じる』『偽る』が出てきたものとを推測されます。これをさらに詳しく説明します。次お願いします」
スライドはいつまでも変わらなかった。この発表の進行を止めようとしているかのようだった。古城の再度の呼びかけにスライド係があわてて反応した。呆気にとられていただけらしい。
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あらゆる物質は振動を持っている。そして音叉が示すように同じ周波数を持つもの同士で共鳴する。例えば耳の細胞の周波数は20ヘルツから2万ヘルツの周波数に共振して音をとらえる。
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「青年は、家族や友達から優作と呼ばれていました。ゆうさく、という周波数を、自分を差す言葉として受け入れてきました。さらに青年は自分の名前を紙などに書いてきました。例えばテスト用紙や教科書、ノートです。店で会員証を作るときもそうです。書き表された文字も同様に振動を持ちます。その文字が指し示すのは自分だと青年は意識します。このような体験を、つまり優作という声音と文字の周波数と共鳴していくことで、言葉の意味『演じる』が青年の意識へ溶けこんでいったわけです。なお、この研究は朝霞大の池森先生が進めていらっしゃいます」
みんな呆気に取られて不気味な静けさを発しているが、成美は真剣に聴いている。
「さて、青年が病気を演じた根底には、姉がいなくなることの不安がありました。この不安を解消しない限り、青年は作病を続けます。僕は論理療法を用いて無意味さを説きました。最後に薬物療法ですが、私はその効果を否定しません。分裂病には欠かせないものです。ですが、言葉による治療で治るところを、安易に薬を処方してしまうのは、ある意味で精神医療の放棄です。次、お願いします」
スクリーンに最後のスライドが映し出された。
----------
<薬>
効果に限界がある/副作用がある/医師しか処方できない/お金がかかる
<言葉>
効果は無限大/副作用はない/自分で作り出せる/お金がかからない
----------
「薬を出せば国から報酬がもらえます。しかし心理士がいくら治療的な言葉を発しても、報酬はありません。この国が一日も早く心理士を国家資格化し、心理士の医療行為にも診療報酬点数を設けることを願います。スライドありがとうございました」
天井の照明がフロアを照らし出した。
古城は、異質の静けさに包まれた聴衆を見回した。
反応がどうであれ、伝えるべきことは最後まで伝えるつもりだった。
「冒頭で治療者は生育環境の影響から逃れられないと申し上げました。私の場合、高校生のとき神経症で悩んでおり、精神科で心理士から治療を受けました。そして言葉の力で私の神経症は治りました」
成美は痛々しい目で彼を見つめている。
「臨床心理士は言葉しかありません。それだからこそ言葉の力を信じます……。医師でも心理士でも、治療者はそれぞれ自分の信じる治療をしています。だから大切なことは、治療者たちが平等な立場から意見を出し合って、より妥当性のある治療方針にしていくことです。そこにヒエラルキーがあってはなりません。……まとまりのない発表ですが、最後までご静聴ありがとうございました」
古城は深々と頭を下げた。
「非常にセンセーショナルな発表となりまして……」
座長は簡潔にコメントした後、「質問等があったらお願いします」とフロアに告げた。
背の高い男性がすぐに挙手し、ハンドマイクを握った。
「B大の精神科医の青葉です。この症例は精神分裂病なのか作病なのか判然としません。治療者の主観性が診断に反映されるとすればそれも無理のない話でしょう。しかしながらDSM―Ⅳに従えば客観的な診断がくだせるはずです。おそらくこの症例の主治医はDSMに沿って精神分裂病と診断し、演者の方はそれに納得できず作病と判断したと思うのですが、そのような医療チームの内部分裂は患者に好ましくない影響を与えるだけです。精神的に弱体化している患者のことを思えば、まず治療方針を統一しなければならないのではないですか」
「統一は無理でした」
古城は即答した。
「医師を頂点にしたピラミッド型では主治医がすべてを決めます。責任と権限を分散しない限り対等な発言は不可能です」
「ではあなたは患者に責任を持てるのですか。責任がないから、そんな勝手なことが言えるんだ」と興奮気味に言った。
隣の席の人がなだめすかしている。同じ職場の人間なのだろう。
続いて中年男性が挙手した。
「E大学の秋山です。私も言葉の力は認めますが、演者の方はそれを盲信している気がします。優作という文字がこの青年の性格を作ったというのは荒唐無稽です。朝霞大の池森先生のご研究は私も知っていますが、まだ理論として成立していない。あくまでも仮説です。それを信じて症例の治療に当たるのは危険ではないですか」
「言葉に救われた私だからこそ、言葉のそのような作用が仮説でも信じるしかありません」
と回答した。
そこに息切れしたような苦しい声を成美は聞いた。
院長は終始無言でいた。
会場が湧く中、座長が言葉を差しこんだ。
「ちょっと、時間が押していまして、質疑応答の方はこれで終わりたいと思います。ある高名の先生が『学会は戦場である』と話されていたことがありまして、意見を真摯にぶつけあうという意味だと思うのですが、誠にそのような学会となりました。フロアの方、そして演者の古城さん、どうもありがとうございました」
古城は硬い足取りで演台から降りた。
その足が、立ち上がった成美を通り過ぎ、大杉院長へと向かう。平和病院の名誉よりも自分の信念を優先したことはエゴ以外のなにものでもなかった。古城は院長の前で深々と頭を下げた。
「あれでいい。謝ることはない」
池森教授が歩いてきた。
「大杉先生。古城君の主張をただの生意気な反逆と見て払いのけますか。それとも主張の妥当性を検討してみますか」
院長は険しい顔をしていたが、口を開いた。
「担当医に診断ミスの可能性がある以上はもう一度検討しなければいけません」
「ふふふ、そうでしょう。そしてさらに言うなら、薬をもっと減らして言葉の治療を増やすべきだ。我々と大杉先生と、どちらが正しいかな」
「薬か言葉かという二者択一ではなく、患者に応じて正しいと信じることをやっていく。我々のするべきことはそれしかないんです。ただし、薬物治療に偏重しがちな精神医療に対して、古城君の主張は一石を投じるものだと思います。その点で、立派な発表だと思います」
院長はそこでかすかに笑みを差す。
反逆者の古城に寛容的な態度を示し、かつ池森教授にも華を持たせる。
成美は院長先生の器の大きさにときめいた。
「ありがとう。そう言ってくれて、うれしい。私は勝ったようで、負けたのかもしれない……。ねえ、大杉先生。彼をクビにしますか」
池森は真面目な顔で言った。
「するわけがないでしょう」
「よかった」
古城が再び頭を下げた。
「あらためて、古城君を雇ってもらって礼を言います。今後も心理士の立場からバンバン意見を言うと思うけど、よろしくお願いいたします」
「池森先生、私は同級生として助言しますが、もう精神科医を敵視するのはやめたほうがいい。非生産的です。それはチーム医療を壊します。それよりも心理士が国家資格になるように国会議員に働きかけたらどうです?」
「とっくにやってます」
池森が嘆息する。
「いつになるかな……。何年後か、何十年後か。俺の生きている間に、必ず……」
池森教授は大杉院長に一礼し、そばに立っていた古城の肩を叩くと、会場を出ていった。
気がつくと人の姿はまばらだった。古城の発表は午前の最後だったことを思い出した。
院長の前で古城は何を言えばいいか言葉を探していた。
「君は真剣に患者の治療に取り組んだ。それでいいです」
院長はゆっくりと立ち上がって、握手を求めた。
古城の心には、何か大きなものが目の前を覆うような畏怖に似た感情があった。その手を大切そうに握り返した。
成美は微笑ましい気持ちで男たちを見つめている。
古城は勇敢で、素敵だった。名前の周波数とか非科学的だけど、彼が心理士として言葉というものを追究したことに意義と価値があった。彼のことが好きでたまらなくなった。
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