第1話
1
平和病院の第一診察室で精神科医の先崎は新患のカルテを見ていた。
患者は山田優作、男性、二十歳、専門学校生。一か月前から独語、暴力、突然笑い出すなどの行動を示す。四人家族で、姉がいる。皆、精神疾患はない。生活歴で特徴的なのは高校時代に演劇部に所属し、優秀賞を受けたこと。また成績は上位だったが勉強よりファッションに関心があり専門学校に進学した。また姉とかなり親密なようだ。
先崎はドアを開けて、患者と付き添いの母親を診察室に入れた。
患者は硬い表情をして黙っていた。
母親が息子の異常を語ったが、その顔には心配と気疲れがあった。
「いまお母さんがいろいろ話してくれたけど、どう思いますか」
先崎は青年に聞いた。
青年は暗い顔でブツブツつぶやいている。
先崎が声をかけると、突然殴りかかってきた。
異常事態はすぐに感知される。外来の男性看護士が飛びこんできて青年を取り押さえた。他の男性職員も駆けつけた。
「入院させましょう」
医師の言葉に母親はすがる思いで頷いた。山田優作はがむしゃらに抵抗しながらも閉鎖病棟の保護室に連れて行かれ、ベッドの上で四肢を抑制され、さらに鎮静剤を打たれた。ことはマニュアル通りに進んだ。
2
隣で一騒動あったみたいだな。
第二診察室から出てきた男性患者がそう呟いた。すでに外来のロビーはいつもと変わりなく静かだった。
男は会計で医療費を支払ってから、思いついたように、
「あの、渡條先生、呼んでくれるかい」
と言った。
「お約束してますか」
「してない」
以前、自分にカウンセリングをしてくれた先生だった。事務員は「少々お待ち下さい」と医局に電話した。
「いま来るそうです。おかけになってお待ち下さい」
まもなくして白衣姿の女性がロビーへ歩いてきた。ショートカットで、二重まぶた。右の顎から首筋にかけての赤いアザもチャームポイントに映る。
どちらからともなく笑みがこぼれた。
「すいません、急に」
男は立ち上がり、親しみをこめて頭を下げる。
「いいえ、お久しぶりです」
渡條成美は笑顔を向けた。
半年ぶりの再会だった。名を高畑といい、IT企業に勤めている。当初は抑うつ状態だったが、医師から処方された薬を飲み、成美の認知療法を中心としたカウンセリングを受けることで、次第に明るさを取り戻した。ただし服薬を急にやめると再発する恐れがあるため、今も定期的に受診している。
「僕もいま会社の同僚に認知療法やってるんですよ。自己流ですが」
「まあ、すごい」
ちょっと張り切り過ぎているかな、と成美は思った。躁的になって精神のバランスを崩すことのないように、と成美はやわらかに注意を促した。
玄関へと歩いていく高畑の後ろ姿を見送りながら、成美は素朴な喜びを噛みしめる。精神病院に入職してまだ三年の心理士だ。十年やって一人前と言われる職業だが、今回のように患者さんが元気になるのをうまくサポートできることがある。精神科は患者さんとの相性の良さが治療効果に大きく作用するとが野神先生が言ってたけど、きっとそのおかげだ。
成美は花束を胸に医局へ戻ろうとした。すると、待合室のソファに座る男に、目が留まった。首を傾げつつ一心にメモ帳に文字を書きつけている。と思うと、不意に鉛筆をとめた。うなった。好奇心でメモ帳をさりげなく覗くと、短い言葉が数行にわたって書かれてある。紺のスーツに白いワイシャツ。洒落たネクタイ。端正だが神経質的な面差し。20代後半。うっ屈した感情を文章で表現しているのかもしれない。
興味本位で患者さんを見るのは、ここまでにしておこう。
さあ早く医局へ。心理検査の解釈を終わらせないと。
人事部長が待合室へやってくるのが見えた。会釈をしてすれ違った。
「お待たせしました」
成美が振り返ると、部長がソファから立ち上がった男と挨拶を交わしている。
さっきの、ぶつぶつ言っていた男だ。
2人は階段を上がっていった。成美は探偵よろしく後をつけた。部長と謎の男は応接間に入っていった。
これから面接だろうか。あの人、患者さんじゃなかったの?
「渡條さん」
応接室の前に佇む成美に、臨床心理課長の野神静子が声をかけた。
「あ、先生」
「どしたの」
「人事部長が、患者とここへ……」
「しっ。患者じゃなくて、心理士の人よ。これから採用面接」
「心理士?」
医局から院長が出てきて、応接室へと歩いてきた。
院長が面接に加わることは普通ない。よほど重要な面接らしい。
野神が会釈してドアを開け、院長が「すみません」と言って中に入った。
ドアが閉じられ、成美が残された。
3
面接から3日後の木曜日が、謎の男の初出勤日となった。
野神先生から聞いたところによれば、名前は古城語楼で28才。国立朝霞大学の臨床心理学科を卒業後、大学院に進学。修了後に朝霞大学付属病院に心理士として6年間勤務。今年の春に臨床心理士の資格を取得。それが突如、平和病院の治療方針に憧れ、就職を希望、そして採用となったという。
朝、医局に来た古城は、よろしくお願いしますと丁寧に頭をさげた。神経質的に見えた面差しも、今は知性の輝きに見えた。
朝会のあと、成美は古城を連れて院内をまわった。本来、新人のオリエンテーションは臨床心理課長の役割なのだが、野神に急遽仕事が入ってしまい、成美が担当することになった。
平和病院は札幌市北区に位置する民間の精神病院で、今年で創立45周年目を迎える。院長と理事長は大杉勉が兼任している。診療科目は精神科、神経科、内科である。病床数は、精神科急性期治療病棟60床、精神療養病棟100床、精神科一般病棟130床、合計290床だ。精神科デイケア施設、ナイトケア施設も設置されている。主な職員は、医師が11人、そのうち6人が精神保健指定医で、その他、薬剤師7人、看護士94人、作業療法士8人、精神保健福祉士7人、そして臨床心理士はわずか2人だ。厳密には、臨床心理士は野神静子のみで成美はただの心理士だが、職名は「臨床心理士」となっている。民間資格とはそういうことだ。
平和病院は大きな病院だが、心理士の雇用を控えるのは、保険点数をほとんど請求できないからだ。成美の大学の友達でも心理職が得られず、一般企業に入った人も多い。
そう考えると古城の採用は不自然だった。
だいたい求人広告を出してもいないのに、人手不足でもないのに、面接の3日後からもう勤務なんて。コネ採用と考えたが、院長はコネを嫌う人だ。
「どうかしましたか」
古城が言った。
「う、ううん、なんでもないですっ」と平静を装うが、ごまかし切れていないだろう。成美は嘘が下手だった。
「4階は閉鎖病棟になっています」
成美は白衣のポケットから鍵の束を取り出し、ドアの小窓を覗いた。患者がそばにいないことを確認してからドアを開けた。患者の脱走を防ぐためにドアの開閉時にはよく気を付けなければならない。そのことは敢えて古城には伝えなかった。どの精神病院でも基本的なところは同じだからだ。
ナースステーションに入り職員に古城の紹介をする。それから学習室、デイルーム、喫煙室と順に案内していく。そして、
「ここは保護室です」
ひときわ厚いドアを開ける。中にはさらに鉄製の重い扉が並んでいる。鉄格子から室内の様子が見える。右側の保護室には顔の尖ったヤクザ風の男が布団の中で目を閉じている。少し臭う。保護室内に便器があるのだ。水を流すレバーは外側にあり、職員しかそのレバーを操作できない構造になっている。左側の保護室にはベッドに横たわる青年がいる。手足の関節部分はタオルで巻かれ、その上にグリップ部が固定されている。グリップ部から伸びる紐がベッドに縛りつけてある。四肢抑制だ。
「ねえ、ちょっと」
患者から低い声が轟いた。
「外してくださいよ、これ。手がいたい……足も……」
扉に青年の氏名の札が下がっている。
山田優作。診断名は精神分裂病。医療保護入院で3日前にここに入った。
「ねえ、お願いです」
彼は妄想の世界に生きていた。存在しない恋人を殺すと言っているのだ。
薬物の投与で一定の現実検討力がつくまではどんな言葉をかけても無駄だろうと成美は思った。
薬の種類と量を決めるのは医師で、投薬を行うのは看護士だ。臨床心理士はその聖域のような医療行為の外に立っている。国家資格もない。
では臨床心理士は何をするのか。心理検査を実施して患者の心理状態の把握に役立てたり、心理療法を行って精神面の安定をはかる。いずれも形がないもので、有効性に疑問を持つ職員もいる。
「中に入りますね」
その声で、成美は我に返る。
古城が鍵を扉の穴に差しこんでいた。
「ちょ、ちょっと」
何やってんの、何する気。動揺する成美を背に古城は保護室の中に入っていった。
「待ってください」
成美が後に続く。
「はじめまして。古城語楼と言います」
古城は床に座って和やかな面差しをした。
山田は、こんにちは、と言った。
それを見て成美は古城を引き戻すことをためらった。
「痛みますか? 手足」
「痛いです。早くほどいてください」と顔をこちらに向けて静かに訴える。
「それは医師の指示がないとできないんです」
「じゃあ、何で入って来たんです?」
「山田さんのそばにいたいと思ったので、衝動的に、ここに」
山田は笑った。
「どんなことがあってここに連れてこられたのですか」
「全部陰謀です、あの女の」
「あの女って誰です」
「彼女です」
「彼女の陰謀で山田さんが今こうして縛られている、というわけですか」
「そうですよ。他に男ができたんだ、あいつ。俺に殺されるのが恐くて、俺をここに閉じこめやがったんです」
「彼女を殺したら、どんな気分になると思いますか」
「すっきりしますね」
「じゃ、早く退院して、彼女のところに行けるようにしましょう」
山田はポカンとした。
古城はゆっくりと立ち上がり、「今日はこれで失礼します」と言った。
「いまの、何ですか」
保護室を出た途端、成美は語気を荒げた。
「まずは信頼関係を作ろうと思いまして」
「あんな妄想を助長するようなこと言うなんて、間違っています」
「彼の言うことを否定したらそれまでです。その時点で山田さんは僕を拒否するでしょう」
「だけど古城さんは山田さんのこと何も知らないでしょう。カルテも見てないのにいきなり中に入って変なこと言って。絶対おかしいです」
「最初はそのまま出て行くつもりだったんですが、山田さんが紐を外して欲しいと言ってきたので。僕に接触を求めてきたので、すぐにその場で対応しないといけない。カルテなんか後回しです」
「あの人は医療保護入院で入ってきたばかりなんです。もっと慎重になってください」
「それを知った上での行動です」
古城は淡々と語った。強がりでも意地でもない、確固たる自信が漂っていた。
その自信に成美は圧されていた。
山田の気持ちに添った言葉づかいと、あたたかみのある発声を目の当たりにして、心理士としての力量を感じたのだった。成美は自分が正しいと思いながらも、これ以上古城を批判することはできなかった。
「次、案内します」
踵を返すように廊下を歩き出した。
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